2001

勇者は水没しました

 大介は私立の男子校に進学した。楽指市に隣接する萌浦市の東の端にある。

 名前が書ければ合格する、と聞いてイメージする通りの学校だった。授業中に全員が揃っているところを見た事はないし、窓ガラスの修理業者はみんなと顔見知りだ。地域の学校が共同で開催する文化的行事に声をかけられた事はない。

 いつも誰かが怪我をしていてトイレは煙草臭いし教師の目に光はない。活きのいい新任教師も、一週間もしないうちにゾンビに噛まれたみたいに先輩たちと同じ表情になった。

 部活は集団を形成する機能しか果たしていない。野球にサッカー、テニスやバスケなど、メジャーな部は一応、存在する。だが、いずれもまともに用具が揃っていない。その状態でまったく支障がなかった。あっても使わないからだ。いや、使うと卑怯だと罵られた。素手でかかって来いや、と。

 そんな環境にありながら、大介に手を出す者は一部の例外を除いて現われなかった。

 大介が他の生徒を威嚇をした事は一度もない。でも大介と目が合うと、みんな普段の威勢のよさを忘れ、顔を伏せてこそこそと逃げ出した。二メートル近い身長がある上にガッチリと肩幅の広い大介の体躯は重戦車を思わせた。ぶつかったら終わり。避けるしかない。

 だが、ごくたまに大介に挑んで来る勇者がいた。

 ヒグマを倒せば天下を取れる。

 いつの間にか市内のやんちゃな連中の間でそんな噂が都市伝説のように語られるようになっていたからだ。大介の胸には斜めに走る流れ星のような三本の傷痕がある。虎と戦った時のものだと言われている。それも挑戦意欲を掻き立てるのに一役買っているのかもしれない。

 大介は自分からは攻撃しない。でも、攻められれば反撃する。勇者になり損ねた男はブッ飛んで泡を吹く。

「君、名前は」

「火倉大介」

 取り調べを担当した女性警察官は、交番のテーブルに頬杖を突いて大介と向かい合わせに座っている。成人しているのかどうか疑わしいぐらいに若く見えた。しかも小柄だ。それなりに格闘技は収めているのだろうが、大介が力ずくで襲えば、おそらく好き放題に弄べるだろう。交番内に他の警察官の姿は見当たらない。ずいぶん不用心だ。

「歳は」

「十六」

「高校二年生かな」

「いえ、まだ一年生です」

「お友達とは、よくじゃれ合うの?」

「友達じゃありません」

「とっても仲がよさそうに見えたけど」

 女性警察官は、ふ、と笑った。

「仕掛けて来るんです。こっちは、相手をする気がないのに」

「そのようね。目撃者の話によると、君は大勢に囲まれて無理やり河川敷に連れて行かれた。そして逃げ場のない状態でタイマンを挑まれた。ひょいっと避けたら、お友達は勝手に転んで川に落ちた。どう、合ってる?」

「ええ。その通りです。友達じゃないけど」

「つまり、君に犯罪の疑いはない。水没したまま意識を失っていた相手をわざわざ川から引っ張り上げて、水を吐かせてやってもいる」

 名探偵が推理するような仕草で女性警察官は指を立て、にやり、と笑った。

「あいつ、大丈夫なんですか」

「君の処置が早かったから、何も問題ないそうよ」

 大介は、一つ息をついた。

「それじゃ、帰ってもいいですか」

「いいけど。その前に」女性警察官は大介をじっと見つめた。「服を脱いで。私も脱ぐから。全部」

 じっとりとした目で見つめて来る女性警察官に対して大介は身構えた。取り調べ相手の少年をそういう対象にするのが趣味の人なのか。だから、二人っきりになるのを狙った?

「なんてね」女性警察官は首を傾げてとぼけた表情を浮かべた。「勘違いしないで。せっかくいい体をしてるのに、それを正しく使わないのはもったいないなと思ってね」

「正しく、ですか」

「そ。ねえ、柔道やってみない? 私の師匠を紹介するから」

 たしかに子供の頃から体は飛び抜けて大きかったが、他人とわざわざ戦うだなんて考えた事もなかった。

「俺なんてデカいだけですよ」

「そんな事はない。防犯カメラの映像を確認したんだけど、君の体のキレと反応速度は尋常じゃない。知識と技術さえ身につければ世界を狙える逸材だと思う」

「素質があるとでも?」

「ある。間違いない」

 大介はしばし目を閉じて俯いた。自分にはどうせ何もできないのだと諦めてばかりの人生だった。諦めて、ただ時が流れていくのを眺めていた。その生ぬるさは自分のしょうに合っているように思えた。

「興味ないです」

「そう? でも落ち着いてよく考えて。ここが君の人生にとって、大きな大きな分岐点になる。昼飯は焼きそばパンとチャーハン、どっちにしよう、なんていう軽い選択じゃない。このまま無意味に死を待つのか、才能を開花させるのか。自分の人生をしっかり選びなさい」

 ――ヴェーレ・ダイネ・ツークンフト――

「お前……」

 大介が立ち上がった勢いでパイプ椅子が後ろに飛んだ。大きな音を立てて薄いアルミドアに直撃する。へこんだかもしれない。

「バーレーたーかー」

 そう言って女性警察官は帽子を脱いだ。黒いショートヘアーは一瞬で水色に輝く艶やかに長い髪に変わった。風もないのにさらさらと揺れている。

「おい、警察官に化けたりして、見つかったらただじゃすまないぞ」

「心配してくれるんだ」

 アトリプスは紅い瞳を輝かせて柔らかに微笑んだ。

「巻き添いになりたくない」

「大丈夫。いざとなれば煙のように消えるから。私にはその能力があるって知ってるでしょ」

「一人で取り残された俺はどうなる」

「丁寧に尋問される、かな」

「冗談じゃない。帰る」

「そうね、それがいい。だけどさっきの話は本当だから、しっかり考えてね」

 真剣な目で大介を見つめるアトリプスの存在が徐々に曖昧になっていく。陽炎のように揺れて消えた。

 その時、天井から何かが落ちてきた。ひらひらと舞いながらテーブルの上に着地する。メモ用紙だ。摘まみ上げた。道場の名前と住所、そして電話番号が書かれていた。

「お兄ちゃん」

「おお、陽葵。お出迎えしてくれるのか」

 |相好を崩しながら、大介は軽く両手を広げた。陽葵が胸に飛び込んで来る。

「今日はちょっと遅かったね」

「うん。野暮用でね」

「その言葉、便利だね」

 大介は思わず笑ってしまった。いつの間にか陽葵が成長しているという事が嬉しかった。

「また戦ってきたの?」

「どう思う?」

 陽葵は少し体を離して兄を観察した。

「お兄ちゃん強過ぎて怪我しないから分かんない」

 中学二年生になった陽葵の肩を抱いてアパートに入った。ずいぶん肩の位置が高くなったものだ。身長で抜かれる事はないだろうけれど、俺なんか足下にも及ばないぐらい幸せになって欲しい。大介はそう願わずにはいられなかった。

 大介と陽葵は萌浦市で暮らしている。

 楽指市が栄えていた頃、二人の両親は農耕をやめてマンション経営を始めた。入居待ちリストが真っ黒になるほどの人気で、結構な羽振りのよさだった。だが、バブルが弾けて町が力を失うと、一気に経済状況が悪化した。だからといって、元の生活に戻る事もできなかった。代々受け継いできた田畑は、廃墟となったマンションに埋めつくされていた。

 まともな子育てが期待できない両親に代わって大介が陽葵を養いながら高校に通っている。重労働のアルバイトが収入源だ。だから、口先ばかり活きがいい連中と遊んでいる暇はない。

「陽葵、学校はどうだ」

「普通」

「普通、ね。何よりだ」

 陽葵には無意味に人生を浪費して欲しくない。でも、どう生きるかは自分で決めるべき事だ。周りの者は、アドバイスしかできない。

 アドバイス、か。

 大介は交番でのアトリプスの言葉を思い出した。

 ――ここが君の人生にとって、大きな大きな分岐点になる

 ズボンのポケットを軽く叩いた。中に紙が入っている感触がある。アトリプスが紹介してくれた道場の情報が書かれたものだ。

 本当に俺に才能があるのなら。

 だが、陽葵との生活を維持しつつ学費を捻出する為のアルバイトは、短時間の小遣い稼ぎとはわけが違う。道場に通う時間など、大介にありはしないのだ。そしてもちろん、支払う金も。

 それに、と大介は自分に語りかけた。俺なんかが何をやってもどうせだめに決まってるじゃないか。それなのに、俺はまた諦める事を諦めて、できもしない事をやり続けるだろう。そうやって無為に時間を食い潰してやがて死ぬ。

 大介はポケットから紙を摘まみ出して、文面も見ずに丸めた。ゴミ箱はすぐ傍にあった。陽葵はゴミ箱を一瞥すると、テーブルの前に座って宿題を始めた。

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