2006

奪われた姉

 秋影あきかげ連邦共和国の最高学府とされる大学の三年生になった勝高は、将来について考えなければならない時期にあった。

 このまま進めば高級官僚や一流企業への就職も夢ではない。それはそれで悪くないが、今一つ気持ちの高まりを感じられなかった。勝った、という実感を得られるとは思えない。

 それでは大学に残って学問を究めるのか? いや、学究の道は勝ち負けとは無縁の世界であって欲しいと思った。かといって、今さらアスリートを目指せるわけもなく、タレントなんて柄でもない。小説を書いて著名な賞を獲れば、それなりに勝った感じがするのだろうか。

 勝つ男になる。

 それだけを目標に生きて来たものの、では勝つ男とは具体的には何だ、と考えた時、答が見えなかった。

 窓の外から衆議院議員選挙の為にスピーカーで名前を連呼する声が聞こえてきた。通常なら違法に思えるほどの音量だ。

 ご苦労な事だ、と勝高は思った。どうせ党の偉い連中だけで全部決めてしまうのだから、誰が当選しても一議席としてカウントされるだけの価値しかない。

 党の中央にしたって、勢力争いにばかり力を入れて一般市民の生活や感情から大きくズレた的外れな政策しか打ち出せていない。そのせいで国民は苦しんでいる。それなのに、なぜ自分たちだけ贅沢をして勝ち組の顔をしているのか。なぜ大物と言われる政治家はみな金持ちなのか。

 あくまで勝高個人が政治家に対してそのような印象を持っているというだけの話であって、実際には違うのかもしれない。だが勝高は、腹の底から怒りが湧き上がるのを感じた。

 その時、自分の怒りが何かに似ているような気がして勝高は記憶を探った。そして思い当たった。これは嫉妬ではないかと。自分には手の届かない望みを叶えた者へのそねみとねたみだ。

 辛い日々を耐え忍んで思い続けたにもかかわらず、勝高は愛奈から愛を受ける事ができなかった。それなのにヒロシとかいう粗野な男が、なんでもない事のように愛奈を自分のものにしていた。二人が唇を合わせるのを目の当たりにした瞬間に感じた体の中を電撃が駆け抜けたかのごとき絶望は、焼け付くような嫉妬となって勝高を凶行へと駆り立てた。

 だが、復讐したからといって負けが勝ちにひっくり返りはしない。勝高はそれを身をもって知った。愛奈の凋落ちょうらくは勝高自身の敗北をみじめに上塗りするだけのものでしかなかった。杉下の時だってそうだ。あんなに必死に頑張った卓球をやめざるを得なくなったのだから。

 他人を貶める事によって得た偽りの勝利は、自分自身を貫く冷たいやいばとなって返って来る。今思えば、他でもない愛奈が同じ事を言っていたではないか。ならば、この怒りを、嫉妬を、何に向ければよいのだろう。

 勝高は、大物政治家の代表格とも言える権堂ごんどう正宗まさむねへの接近を計った。勝高の故郷である楽指市と隣接する萌浦市を地盤にしている。権堂は政界においてかなりの実力者だ。次期首相の椅子にあと一歩で手が届くと言われている。

「お願いがあります」

 昼の熱気がしぶとく残る夕暮れ時の料亭の前で、車を降りた権堂に勝高は声をかけた。

 すぐにダークスーツの男たちが駆け寄って来て両手を広げ、勝高を止めた。そのうちの一人が進み出た。寝ぼけて瞼が半分閉じかかったカエルのような、とぼけた顔をしている。そのせいもあってか、善良な人物に思えた。三十代半ばぐらいだろうか。

「だめだよー、君」見た目から受けるイメージ通りののんびりとした調子で、男は勝高に話しかけてきた。「権堂先生は忙しいんだからね。ちゃんとアポを取って……それは無理か。それじゃあ、陳情書を送るとか。何か先生に負担をかけない方法を考えてくれないかなあ」

「どうしても今すぐお話がしたいんです。俺を秘書として雇ってもらえませんか」

「うわっ、無茶言うねえ」男はお笑い芸人のように仰け反った。「僕がどれだけ苦労して、私設秘書見習いから公設第二秘書に這い上がったと思ってるんだい?」

 後ろにいる彼の同僚たちは苦笑いしている。

「そういうわけだから。悪いんだけど、遠慮してくれな……」

「待て、虎潟とらがた

 勝高を説得していた男を権堂が制した。見事に着こなした和服から発せられる重く深い貫禄が、ただ者ではないと感じさせた。

「先生、でも」

「面白いじゃないか。君、名前は?」

 権堂の全身から滲み出る静かなる野獣のごとき気迫に当てられて、勝高は思わず半歩身を引きかけた。だが、気合いを込めて踏み留まった。

「戎谷勝高です」

「戎谷? そして勝高……」権堂は眉を寄せて勝高の顔を覗き込んだ。「もしかして、君のおじいさんは花鞍金かぐらがね勝好かつよしじゃないのか?」

「ええ、そうですが。なんで祖父を知ってるんですか」

「花鞍金勝好を知らん奴はおらんだろ」権堂は愉快そうに笑った。「この国を代表する企業グループを一代で育て上げた男だぞ」

「それはそうですけど。俺は戎谷と名乗りましたよ?」

「あいつの長男、勝強かつつよの息子だろ、君は。強い目の光がよく似ている」

「はい……籍は入っていませんが」

 権堂は、一つ息をついて頷いた。

「その辺の事情は、ある程度知っている。勝強は肝の据わった、なかなかの男だ。知力にも優れている。情愛にも深い。ただ……いや、そう言えば、お母さんはお元気にされてるのか?」

「問題ありません。姉と二人で楽指市におります」

「勝楽ちゃんか」まるで自分の孫の話をされたように、権堂は笑みを浮かべた。「いくつになった?」

「姉の事もご存じなんですか? 二十三歳になりました」

「そうか。生まれてすぐに一度会ったきりだが。母親に似て優しい目鼻立ちをしていた。あれからもう、そんなに経つのか」

 権堂は遠くを見つめるような目をした。

「あれから、ですか」

「勝好の葬儀だよ。籍こそ入れていなかったが、君の父親の勝強と戎谷さん、つまり君のお母さんはグループ内外で公認の仲だった。だから生まれたばかりの勝楽ちゃんを連れて参列していたんだ。そういえば、お母さんはお腹が大きかったな。それが君か」

 優しい目で勝高を見る権堂は、同時に寂しそうでもあった。

「それなのに、なぜ父は母や僕ら姉弟していと一緒に暮らせないんですか。父は、俺が負けたからだ、としか教えてくれないんです」

「君の疑問は当然だな」権堂は一つ息をついた。「勝好の奴が逝った途端に、次男の勝清かつきよが電光石火の早業でグループを掌握してしまった。まるで、先代がいつ死ぬか知っていたかのような鮮やかな手際だった」

「女神から予言を与えられていたかのようですね」

 勝高はなんとなくアトリプスの事を思い出してそう言った。

 権堂は一瞬、鋭く目を細めた。

「……面白い事を言うね。女神の知り合いでもいるのか」

「まさか」勝高はアトリプスの存在を飲み込んだ。「叔父は用意周到に準備していた、という事ですね」

「そうだな」権堂は唇を結んでしばし地面を見つめてから話し始めた。「グループ内で最高権力者となった勝清は、兄である勝強に、戎谷さんと別れて提携関係を深めつつあった商社の娘を嫁にもらえと迫った」

「あからさまな、そしてあまりにも強引な政略結婚ですね」

「まったくだ。勝強はもちろん、拒否した。すると、断るならグループを出て行けと言われたらしい。互いに激しく主張をぶつけ合った結果、戎谷さんと築いた家庭には干渉しないのを条件に、勝強は政略結婚に応じる事になった」

「理解し難い話です。望まない結婚なんか蹴ってグループを出ればいいじゃないですか」

「俺もそれを薦めた。お前の才覚なら独立しても十分やっていけるし、資金の面倒は見ると」

「父は、それを断ったんですね」

「勝強にとって花鞍金グループは、幸せな家族の象徴なんだよ。父と母が産み出し、兄弟揃って協力して必死に育て上げたんだからな。それを去るだなんて選択はできなかったんだ。それに」

 権堂は眼光を強めた。

「勝強はこう言った。負けたままで逃げ出すわけにはいかない、と。さらにこうも言った。権堂さん、自分の力で勝たなければ意味がないじゃないですか」

「父らしいと思います」

「俺は勝強を見直したよ。だが同時に心配にもなった。君のお父さんは、あまりにも心が強過ぎるんだ。硬い石は、限界を越えれば砕ける」

「今も父は、グループ内でもがきつづけているようです。祖父が亡くなってから既に二十年以上が経過してしまいました。果たして勝ち目があるのかどうか」

「正直、難しい選択をしてしまったと思うよ、勝強は」

 完全に陽が落ちて月が昇り始めた。権堂はそれを、目を細めて見つめた。

「先生、そろそろ」

 虎潟が遠慮気味に声をかけた。

「おお、そうだった。首相閣下をあんまり待たせると可愛そうだな。料理が冷めるのも困る」権堂は勝高の方に向き直った。「勝高くんと言ったか。あとはそこにいる虎潟と話を進めてくれ。いきなり採用というわけにはいかないが、あの勝強の息子ならきっと戦力になる。前向きに考えようじゃないか。でも、今日の所はこの辺で失礼するよ。会えてよかった」

 虎潟以外の秘書たちを引き連れて料亭の門をくぐろうとした権堂は、ふいに立ち止まった。振り返らずに尋ねる。

「ところで勝高くん。なぜ花鞍金の名を出さなかった」

 勝高は表情を改めた。

「名前ではなく、自分の力で勝てる男になりたいからです」

 なるほど、と呟いて、権堂は後ろにいる勝高に手を振りながら料亭に入っていった。

 虎潟と相談の結果、勝高はとりあえず権堂事務所でアルバイトをする事になった。卒業が決まったら具体的な事を話し合う約束だ。そして、大学を卒業した2008年春、二十二歳の時に勝高は正式に私設秘書として採用された。

 同じ年の六月。勝高の姉の勝楽は、叔父の勝清の紹介で、花鞍金グループが提携を狙っているベンチャー企業のCEOのもとに嫁いだ。二人は結婚式まで、一度しか会った事がなかったという。政略結婚なのは誰の目にも明らかだった。

 勝高は壁に頭を打ちつけて嘆いた。こんな事態に陥る前に自分が十分な力をつけていれば姉を奪われる事はなかったのに、と涙を流しながら。間に合わなかった、との思いが胸を強く締め付けた。

 勝楽は結婚式の前夜、なぜか突然、親友の愛奈の話を始めた。その内容は勝高を震撼させた。

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