第37話 4月29日
朝9時。雪絵は上機嫌でホテルのフロントに現れた。
「おっはよう。ちょっとは観光出来たかしら。」
「雪絵さん、おはようございます。ちょこっと街中見て、あとは飲んだりしちゃってて。」
藤井は適当に答えるのが得意だった。
「おはようございます。お世話になります。」
大地は丁寧に言ってみた。
「狭いけど私の車1台で行かない?車の中で話も出来るし。」
「いいんですか。ありがとうございます。」
駐車場には小ぶりなハイブリットカーが停まっていた。
「じゃ、すいません。お願いします。」
3人で車に乗り込み、車が走りだすと、さっそく藤井が話を切り出した。
「俺が変な配信したの見ましたか?ふざけて大地に撮らせてたやつを、飲み過ぎてうっかり配信しちゃったんですよ。」
「私見てないのよ。でもちょっと聞いたわ。圭君、奥川村って言っちゃったんですって?」
「すいません。飲み過ぎて口から出ちゃって。」
場所が特定出来ちゃうと、『野次馬が来る。』って市役所の人たち怒ってるんだろう、と想像していたが、ちょっと違うようだった。
「奥川村は市町村合併で市になってるのよ。2人とも合併の反対派だと思われちゃったら大変よ。」
「え?そんなことあります?」
「あるのよ。」
「へえ。」
「それに、他の地区の皆さんから『奥川地区だけズルした。』と思われちゃう。何かのついでに他の地区についても喋っておいてくれる?」
「そういう感じっすか。」
「そういう感じって何?」
「いや、なんでもないっす。すいませんでした。」
「あら、気にしちゃった?ごめんね。いいのよ。だってほら見て。観光客が来てる。
今年は観光客用のイベントが無駄にならないで済みそうよ。2人のおかげよ。」
観光客用のイベントは駅前の広場とそこから続く商店街、そして奥川総合公園で
それぞれ催されるようだった。
奧川駅周辺はタクシーもバスの本数も少ない。
うっかり電車で来たらしい観光客が、駅前広場で10時から始まるご当地アイドルのイベント会場付近を、楽し気にふらふら歩いていた。
「あの、家に観光客が入り込まないように私有地って書いた紙を作って来たんですよ。家の周りの木とかに貼ってもいいですか。」
「やだ、あんな所まで観光客は来ないわよ。」
「念のためですよ。念のため。」
「あはは。わかったわよ。面白い子達ねえ。」
雪絵は軽くて明るい。
雪絵さん、ごめんなさい。おそらく観光客の多くの目的は駅前広場のご当地アイドルイベントや総合公園の市民カラオケ大会ではなく、奥川桂子の実家です。
大地はその言葉を飲み込んだ。
車の中で、雪絵は桂子の子供の頃の話をしてくれた。
『桂子ちゃんは子供の頃から特別に可愛かったのよ。それに面白くって。
ちょっと気が強かったけど、私には優しくてさ。桂子ちゃん中学でテニス部入ってて、総合公園でテニス教えてくれたり。
一緒に住んでいた時もあったんだけど、あの頃楽しかったなあ。』
など、良い話ばかりだった。
「あ、そうだ、雪絵さん。一昨日父が奥川の家の鍵を持ってきてくれたんですよ。」
「あら、でも鍵は付け替えたのよ。」
「その新しい方の鍵です。ゆりさんがうちに送ってくれたんだそうです。」
「なんだそうなの?でもまあ今日は話もしたいし私が案内するわね。」
「ありがとうございます。それと、市長が納屋の鍵をくれて。」
「あら、市長に会ったの。」
「実は、、、」
配信済の動画はいずれ雪絵の耳に入る。先に言っておかないといけないと思い、
〔場所だけ見ようと家に行ったら、市長が掃除をしに来ていて納屋の鍵をくれた。〕
〔父が鍵を持ってきたから、その日の夜に中に入ってみた。〕
ということを簡単に説明してみた。
「ふうん。」
雪絵は不信がる様子もなく、なにか別のことに気を取られているようだった。
「ねえ、お父さんてどんな人なの?」
「うちの父ですか?」
「他に誰のお父さんのことを聞くはずがある?」
藤井は大地にそう言うと、さっそく動画を撮り始めた。
そうか、雪絵さんはそういうことを聞きたかったのか。
ここは正直に答えちゃっていいんだろうな。
「普通の人です。」
「お仕事は?」
「農業試験場に。あ、一応、雪絵さんと同じ公務員ですよ。農産物の研究員だから
窓口にはいないけど。」
「あら。」
車は山中に入り、雪絵はまだ何か聞きたそうだったが、再び
「あら。」と言った。
山の中にちらほらと観光客がいたのだ。その中には教団の信者が混ざっているはずだ。もしかするとほとんどそうかもしれない。
「結構早くから観光客が来るもんですねえ。」
藤井がしれっと言った。
「本当ねえ。」
雪絵さんごめんなさい。でもこの人達に危険はありませんから。
いや?危険な人が混ざってるか。
奧川の家に着くと、雪絵は門を入ってすぐの所に車を停めた。
やはりすぐ近くに観光客(偽)が来ていた。
雪絵は車から降りて、
「この辺は私有地でーす。勝手に入らないで下さーい。」
と言ってまわり始めた。
「藤井さん、信者さん達この前は浮世離れしてたのに、今回は本物の観光客っぽく見えるね。服装も態度も。自撮り棒まで持ってるよ。」
「本物なんだろ。」
「え、でも観光客は家の場所知らないし。」
「大君、あいつらの場所特定能力を甘く見ちゃダメだ。」
「え!」
観光客(偽)の()の中身は偽ではなく(ネット民)か!
雪絵はすぐに戻って来た。
「ねえ、ケイ君が正しかったわ。あの紙貼りましょう。」
「そうですよね。急いでやりましょう。」
3人で手分けして〈私有地〉と書いた紙を周囲の木々に張り付けた。
その作業をしながら、藤井は自撮り棒の所持者に丁寧に声をかけ、
念入りに追い払いつつ、
大地に『大君の顔は絶対に撮らせるな。』といつになく厳しい声で言い付けた。
「本当はライブ配にしたいところなんですけど、明るい所で家を映すとやっぱり問題が起きそうなんで、動画を撮るだけ撮っちゃってから場所が分からないように編集しますね。雪絵さんは映っちゃっても大丈夫ですか?」
「顔はだめ。」
「じゃあ、それも後で編集します。」
「玄関開けるところから始める?」
「鍵を開ける前に雪絵さんの紹介からがいいな。ライブ配信じゃないから、顔の編集はあとで詰めましょう。」
「じゃあ、雪絵さんもこっちに。」
大地と雪絵は2人で玄関前に立った。
「始めますよ。」
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