居酒屋怪談くればな

申酉戌亥

第1話『物言ふ魚 ~タマフリ①~』

 大学1回生の冬だった。

 その日、サークルの全体練習が終わりアパートに戻って楽器を片付けた私は、すぐにまた外へ飛び出した。

 時間は17時を過ぎていた、と思う。朝から晴れ渡っていた冬の空は、雲ひとつないままに夕暮れの刻を迎えていた。

 濃い青から橙、そして暗い赤へと、山陵に吸い込まれていく色彩のグラデーションから目を離せなかったことを覚えている。

 少し、足早になった。県外の大学への入学を機に、この暮花市で一人暮らしを始めてから約八ヶ月。楽しいこともたくさんあったが、時折どうしようもない居心地の悪さや焦燥感を感じることもあった。そんな不安定な心の隙間を揺さぶられたような気がして。

 アパートから歩くこと約十分。目的の場所に到着した私は、少し前からそこで待っていたであろう友人に声をかける。

「ミユキちゃん、おまたせ」

『くればな』と力強い筆文字が描かれた大きな赤提灯の横で、立ったまま文庫本を読んでいた彼女は顔をあげた。

「ああ、悠月。お疲れさま」

 ミユキちゃん、もとい白峯深雪(しらみね みゆき)は大学で私と同じ音楽系サークルに所属する同期の友人だ。眼鏡のレンズ越しに私の顔を見ると、彼女はその切れ長の目を細めて優しく微笑んだ。

「ミユキちゃん、相変わらず着くの早いね」

「うん。アパートが近いから」

 そう言いながら、彼女はその細い指で文庫本を丁寧に閉じ、肩からかけた鞄に入れる。袖口から見える色白い腕に眼をとられた。

「ハナちゃん、まだかな?」 

「ん、そろそろじゃないかな」

 そんな会話を続けながら、私達はもう一人の友人の到着を待つ。携帯電話の画面に表示されたデジタルの数字の並びが約束の時間の30秒前になったとき、曲がり角の向こうから明るい声が響いてきた。

「ユヅー! ミユー!」

 元気と勢いの権化みたいな友人が勢いよく飛び出し、その姿を見せる。

「おっまったっせ! だー!」 

 こちらを認識するなり、ハイテンションのままダッシュしてきたハナちゃん ーー同じく音楽系サークルの同期で友人である日向華(ひむかい はな)ーーは、飛び付くように私に抱きついた。

「うわぁー!」

 出会い頭にハグされるのはいつものことなのだけれども、それでもこの小柄な友人のどこから生み出されるのか分からないエネルギーに圧倒され、情けない声が出る。なんとか倒れずに踏み留まった私の胸には、ちょうどハナちゃんの顔がおさまっていた。

「んーむー!」

 そのまま勢いよく頬擦りしてきた。ボブカットにされたインナーピンクの金髪が私の鼻を擽り、舞い起こるシャンプーの香りに、危うく刈り取られそうになった意識を必死で保つ。

「ハナちゃーん! お、疲れさまー! あの、くすぐったいからちょっと! ちょっと離れてー!」

 しかし私の要求は即座に断られる。

「だめ、ユヅを、補充、するんだ!」

 よくわからないことを口走りながらも、ハナちゃんは抱きついた手を離さない。

 いったい私の何をどこに蓄える気なのか。

「落ち着け、この暴走娘」

 見かねたミユキちゃんがほれ、とハナちゃんの襟首を後ろから軽く引いた。

「えへー、ごめんてー」

 素直に私から離れたハナちゃん。ふやけた笑顔だ。美人さんなのに勿体ない。

 いやまあ、これはこれで可愛らしいのだけれども。

 背の高いミユキちゃんに捕えられたその小柄な姿は、悪戯して捕獲された子猫を連想させる。実家で飼っていた猫を思い出した。

 襟元を整えてコホンと軽く咳払い。うん、一息ついた。ついでにお腹も空いた。

「えっとじゃあ、お店に入ろうか」

 私、天原悠月(あめはら ゆづき)の言葉に、同じく空腹を抱えたであろう友人たちは素直に同意した。

 数週に一度のサークルの全体練習が終わった後は、毎回この「居酒屋くればな」に集まるのが私達のお約束だった。

 理由はいくつもある。美味しい料理とお酒で空腹を満たすため。全体練習の緊張感で磨り減った心を労うため。仲の良い友人たちと憩いの時を過ごすため。そして、この店でなければならない理由が、あともう一つ……

 赤提灯を脇に暖簾をくぐり、フワリとした暖かさと明るい歓迎の声に迎えられる。

 居酒屋くればな、またの名を『怪談居酒屋』での宴の始まりに、今夜も私の心は高鳴っていた。


「いらっしゃいませ! 今日も練習だったのかしら?」

 テーブルを磨く女性店員さんが手を止め私達に声をかける。こちらまで嬉しくなるような笑みが溢れていた。

 赤みがかったベージュの長髪を束ねたエプロン姿。居酒屋くればなの女将、梓沢あかりさんだ。

 この頃にはもうすっかり顔馴染みになっていた私達は、女将さんに促されて席へ向かう。

 他にお客さんの姿はない。カウンターにいつもの配置で並んだ。奥からハナちゃん、私、ミユキちゃんだ。

 どうぞ、と女将さんから一人一人に熱いおしぼりが手渡される。手掌からじんわりと伝わる温かさが嬉しかった。

「さーて、今日はどうしましょうか」

 ムン、と胸をはり腰に手を当てて聞いてくる女将さん。

 では、とミユキちゃんが代表して答えた。

「学生セットを3つお願いします。ドリンクと料理は……」

 スラスラと淀みなく詠うように、ミユキちゃんがいつものメニューを女将さんに伝える。女将さんもハイハイと頷きながら伝票をきり、厨房にオーダーを通した。

 対象のドリンクから2杯と対象の料理から3品を選べる1500円のこの店の学生セットが私達のお気に入りだ。選べるドリンクの種類も多いし、料理のボリュームも文句なし。

 親からの仕送りの他にもアルバイトをしているとはいえ、一人暮らしで財布にそれほど余裕のない大学生の身にはありがたいメニューだった。

「はいよ! 三人とも、いつもありがとうな」

 オーダーを受け取った大将が厨房から顔を出す。がっしりとした体つきの作務衣姿に、店名の入ったタオルを頭に巻いた如何にも居酒屋の大将といったスタイルだ。

 どうも、また来てます、ねぇねぇ唐揚げ一個オマケしてよ大将等々、私達はそれぞれ返事を、いやなんかハナちゃんだけちょっと違った気もするけれども、まあ明るく言葉を返した。

 ほどなくしてドリンクが到着。三人の手でそれぞれ高く掲げられたジョッキが、今日もお疲れさまでしたの声に合わせて、軽くカキンと鳴らされる。

「かんぱーい!」 

 ミユキちゃんは生レモンサワーの、ハナちゃんはハイボールの、私は生ビールのジョッキを、それぞれ口から離す。ほぅ、と小さく吐いた息は見事に三つ重なった。


 しばらくは会話もそこそこに食事を楽しんだ。お通しはほうれん草のお浸し。料理は山盛りのキャベツサラダに御新香の盛り合わせ。さらに鶏の唐揚げ、ポテトフライ、枝豆、焼き鳥の盛り合わせ。

 代わり映えのしない、けれども飽きの来ない、いつもの頼もしいメンバーだ。

 さて、ある程度お腹が満たされたら今度は楽しいお喋りの時間。声の大きさには充分気をつけつつも、私達のガールズトークは止まらない。

 最近観た映画やドラマの感想から始まり、好きなタイプの芸能人の発表会になったかと思えば、お次は大学の授業の愚痴やサークルの先輩方のゴシップ等々。

 合間にドリンクのお代わりを頼みつつ、私達は興味の引かれるまま、関心の寄せるがままに話題をとっかえひっかえ、これでもかと語り続けた。


 そうして三十分もたっただろうか。ふと会話が途切れた間に、ミユキちゃんが女将さんに話しかけた。

「今日は、かなえ先輩はいないんですか?」

「今日は出掛けてるの。なんだっけ、友だちとの集まりみたい」

 食器を片付けながら女将さんが答える。借りていた本を返すつもりだったんですが、とミユキちゃんと女将さんの会話は続いている。

 かなえ先輩こと梓沢かなえさんはこの店の大将と女将さんの娘さんだ。そして私達のサークルの先輩でもあり(と言っても院生なのであまり練習には顔を出さないのだが)、さらには私達にこのお店を紹介してくれた人でもある。

 ジョッキに残ったビールをちびちびと飲みつつ、私はかなえ先輩との出会いを思い出す。それは同時に、いまこうして酒席を囲む友人たちとの縁が深まった出来事でもあった。


②に続く

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