第10話 ヒトの手

 こっちはこっちでさっさと準備するか。

 俺は着ていた服をさっと脱ぎ、先程ラックから取り出したアイテムを身に付ける。


 ボトムは動きやすいよう、足首部分がリブ仕様になったベージュのジョガーパンツをチョイス。トップスは俺ら世代に人気のブランドのロゴが入ったTシャツを合わせて、上にはマウンテンパーカーを重ねるとしよう。

 アウター以外を身に付けたところで、フー子に「着替えたか」と声を掛ける。


「バッチリ」

「そっち向くぞ」


 同時に振り向き、互いの姿を確認する。


「いいじゃん」

「タロくん、スタバのテラスでおしゃれな雑誌読みながらコーヒー飲んでる人っぽい」

「それ褒め言葉だよな?」

「早くメイクやろうよ」


 おい、質問をスルーすんな。

 褒められて伸びるタイプの大人なんだぞ、こっちは。

 聞き耳屋同士じゃ変装が当たり前すぎて、褒め合う文化がないのはつまらない限りだ。技術の向上に『褒め』は大事だぞと言いたい。


「最初に塗んの、これ?」


 ファンデーションに伸びかけたフー子の手を、右手で払う。


「いきなりファンデから塗るヤツがあるか」


 俺は宣言する。


「いいか、よく聞け。メイクで大事なのはスキンケアだ。肌の調子が良けりゃファンデもいらねぇ。特にお前ぐらいの年ならナチュラルに仕上げる程度で十分なんだよ」


 肌は使えば使うほど傷むからな。


「そんなのつまんないよ。もっとさぁ、まつげふっさふさの目元きらっきらで、唇コッテコテな感じの方が変装っぽくない?」

「逆に目立つわ、馬鹿。おら、眼鏡外してこっち向け」


 フー子の前髪をヘアクリップで留め、俺はメイクを開始した。

 化粧水、美容液、乳液と、順にフー子の顔に塗っていく。一回でどれぐらい使えばいいのか、塗る時はどんなことに気を付ければいいのか、コンビニのコスメはぶっちゃけどうなのかなどフー子から質問が飛ぶ度に、俺は「口を閉じろ」と注意した。


「なんか、変な感じ」

「何が」

「組織から逃げてきて、見付かったら殺されるかもしんないってのにさ、今、凄い楽しい」


 フー子が喋る度に口の周りの筋肉が動き、乳液を塗り広げる俺の指の腹を微かに押し上げる。

 世間一般の女子中学生なら普通にやっていることが、こいつにとってはイレギュラーなのだろう。その感覚は何となく分かる。


「足抜け出来たら、こういうのも当たり前になって、面白くもなんともねぇようになるよ。むしろ面倒臭ぇと思うかもしんねぇし」

「確かに」


 フー子はくふふと笑うと、目を閉じたまま言った。


「でも、今のこの楽しくてドキドキする感じは、絶対忘れないと思う。人に触ってもらうのって、こんなに気持ちいいんだね」


 ――知らなかったなぁ。

 

 すっかり緊張の抜けた声でフー子が呟く。俺は「そうだな」と答えながら化粧下地をムラのないよう施すと、サッとパウダーをはたいた。


「終わったぞ」


 ヘアクリップを外して、簡単に前髪を整えてやる。


「ほぉぉぉ……!」


 鏡に映る自分を見て、フー子が感嘆の声を上げた。


「何これ、なんか光ってんだけど」

「ラメ入りのパウダー使ったからだろ」

「目元もやりたいなぁ」

「お前、目ぇデカいから必要ねぇよ」

「それって褒めてる?」

「さぁね」


 俺はフー子の背後に回ると、ヘアオイルを髪に馴染ませてから低めの位置で緩く髪をまとめてやった。


「よし、交代だ」


 フー子は「はーい」と言ってテーブルから離れる。


「服とか見ててもいい?」

「あんま荒らすなよ」


 楽しそうに洋服をチェックしているフー子の姿を鏡越しに見つつ、俺は自分のメイクに取り掛かる。


 化粧水、美容液、乳液、化粧下地。

 何も考えなくとも手が勝手に動いて、顔を作っていく。眉の形をブラシで整えながら、俺は綿墨さんの言葉を思い出していた。


 野鳥の会を壊滅させる。


 好きな男と何の気掛かりもなく一緒にいたいなら、それが一番確実だろう。とはいえ、人を一度も撃ったことのないトビの目の女と、周りのヤツらよりちょっと耳がいい程度の俺の二人だけで、一体何が出来るのか。


「そもそも壊滅させたらマズいことって、いっぱいありそうなんだよな」


 アイラインを引くために鏡に顔を寄せて集中していたら、勝手に口から考えが漏れた。


「何の話」

「野鳥の会の件な。綿さんは潰すぐらいの気持ちでやれって言ってたけど、実際問題潰したら潰したで大問題だろ」

「そうなの?」

「バランスが崩れるだろうが」


 聞き耳屋の仕事を始める前、俺には二カ月の研修期間があった。仕事をするに当たっての心構えや書類のまとめ方、気配の殺し方などを実地訓練を行いながら身に付けていくのだが、守るべきルールのひとつとして、理屈より行動タイプの俺に師匠はこう言った。


「我々『聞き耳屋』はもちろん、『野鳥の会』『凶犬病きょうけんびょう』『悪食あくじきの森』にはそれぞれの領分があります。下手へたにその線を侵すと大変面倒なことになりますので、決して手を出さないように」


 ――有休申請の件といい、師匠に会ったら嫌味を言われるどころか破門を言い渡されるかもしれない。


「聞き耳屋のことは名前から何となく分かるんだけど、他の二つの組織ってどういうやつなのかあんまり知らないんだよね。凶犬病とは仲悪いって聞いてるけど」

「お前んとこの教育係、撃つこと以外本当に何も教えてねぇんだな」

「籠の中のトビだったからね」

「野鳥を飼うのは鳥獣保護法違反だろ」


 許可取ればOKでしょと真顔で返された。

 籠の中のトビ発言で落としておけば良かったぜ。


 知らないまま足抜けする方が幸せなのかもしれないが、ここから先、これらの組織が関わって来ないとも限らない。ごたついてる隙間を狙って漁夫の利を得ようとしているヤツばかりだからな。

 

 リップを唇に馴染ませ、一通りのメイクを終えたところで、俺はテーブルの上に四つのメイク道具を置いた。


「こっちの世界のバランスについて、優しい優しいこの鈴木様が懇切丁寧に教えてやるからよく聞いとけ」

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