第8話 意外な犯人
古びたアパートの前に車を停めた。
外壁はところどころ塗装が剥げ、金属部分には赤茶けた錆が浮いている。
「このアパートにベアルがいるってことですか?」
運転席の片倉が、フロントガラス越しに建物を見上げる。
「ベアルかどうかは分からんが、関係のある人間がここに住んでる可能性があるってことだ」
日野も視線を向けた。
プロバイダからの報告で、ここの無料Wi-Fiが使用されていたと判明したのだ。
そのため、分かったのは、建物の名前だけだった。
「でもどうやって探すんですか? 一軒一軒聞き回るんですか?」
「いや。まずは管理人から、住人の名簿をもらう」
日野が車を降り、ドアを閉める。
すると、背後に視線を感じた。
振り返ると、二階の手すりの影から一人の男がこちらを凝視していた。
目が合った瞬間、日野の記憶がざわめく。
見覚えのある顔に、驚きで目を見開いた。
男も気づいたのか、表情を強張らせ、踵を返して部屋へ駆け込む。
「待て!」
日野が駆け出すも、男は一足早くドアを閉め、内鍵をかける音が響いた。
「おい! 開けろ!」
拳で扉を叩くが反応はない。
代わりに中から『ガッシャン!』という激しい破壊音が聞こえてきた。
「片倉! 管理人を呼んで鍵を開けさせろ!」
「は、はい!」
片倉は急いで管理人の元に向かう。
日野は周囲を見渡し、ベランダの窓が半開きになっていることに気づいた。
考えるよりも先に、体が動く。
手すりに足を掛け、壁を蹴ってよじ登る。
コンクリートの冷たく湿った感触が指先に伝わる。
ベランダへ滑り込むと、室内から微かな水音が聞こえてきた。
音を頼りに浴室へ向かい、扉を開ける。
そこにいたのは、破壊されたパソコンを抱えた男。
血走った目が日野を睨み、浴槽へパソコンを投げ込もうと構える。
「やめろ!」
日野が飛び込み、男の手首を掴む。
男は激しく抵抗してきた。
二人の体がぶつかり合い、蛇口から溢れる水が床に飛び散る。
次の瞬間、男がハードディスクを投げつけてきた。
「っ……!」
胸で受け止めた衝撃で体勢が崩れる。
その隙に、男は脱兎のごとく逃げ出した。
「くそっ!」
日野はハードディスクを部屋の片隅へ避難させ、すぐに後を追う。
外へ出ると、男は階段を駆け降りており、先には管理人を連れた片倉の姿があった。
「そいつを捕まえろ!」
一瞬、片倉の足がすくんだように硬直する。
「片倉!」
日野の声が、彼の意識を現実へと引き戻した。
片倉は向かってくる男の進路を塞ぐように動き出す。
だが男は迷いなく手すりを乗り越え、階段の途中から飛び降りた。
衝撃も構わず、再び走り出す。
「待て!」
片倉が後を追う。
日野は回り道し、建物脇の路地に入る。
すると足音がこちらに近付いてきた。
予想通り、男が路地に飛び込んでくる。
日野と目が合った男は、一瞬足を止めた。
日野は躊躇うことなく、男の懐に飛び込んだ。
「ぐっ……!」
足技で倒し、衝撃に呻く男の腕を捻り上げる。
「刑事さん! 俺は何もやってない!」
男は苦悶の声で叫ぶ。
そこへ、肩を上下させながら片倉が追いついた。
「知り合いなんですか?」
片倉は膝に手を突き、呼吸を整えながら日野を見る。
なぜ自分たちが刑事だと男が知っていたのかに対する疑問であった。
「昨日話した、セロを裏切ったハッカーだ」
日野の声は低く、どこか冷たい響きを帯びていた。
その言葉に、男の視線が揺れる。
「セロ? そうだ! セロがやったんだ! あいつは俺を恨んでいるから……いててててっ!!」
日野の手が動き、男の腕がさらに捻られる。
「片倉。至急本部に連絡して、所轄の応援を要請しろ」
「分かりました」
片倉は小走りで車へと向かう。
その背中を見送りながら、日野は改めて男を睨みつけた。
「信じてくれ! 本当に何もしてないんだ!」
「ならなぜ、パソコンを壊そうとして逃げた」
男の喉がわずかに上下する。
「俺のパソコンが、知らない間に遠隔操作されてたんだよ!」
「どういうことだ?」
「昨日の朝、飯食って戻ったら、カーソルが勝手に動いてて、俺のパソコンを操作してたんだ! 画面には警告が表示されるし、ゴミ箱は知らないデータでどんどん増えてくし! だから怖くなって回線を切ったんだけど……って刑事さんこの件で来たんだろ?」
早口でまくしたてながらも、痛みからか恐怖からか、指先が震えていた。
「やましいことがないなら、逃げる必要もなかっただろ」
「だって! パソコンに証拠が残っている以上、俺が何を言っても信じてくれないだろ!」
日野は目を細めた。
男の言葉に嘘は含まれていないようだったからだ。
「……本当にやってないのか?」
「やってない!」
しばらくして、日野が手の力を緩める。
男の呼吸が落ち着いたのを確認し、静かに告げた。
「……いずれにせよ、疑いをかけられるような行動を取っている以上、詳しい話を聞く必要がある。任意で聴取を受けてもらうからな」
男は観念したように頷いた。
その夜、日野はセロのマンションにいた。
現場は所轄に任せ、県警へ戻った日野と片倉は、押収したハードディスクの復旧について管理官と協議を重ねていた。
警視庁にも報告は入れたが、対応は県警に委ねられる形となった。
とはいえ、県警も警視庁の要請で踏み込み捜査に人員を割かれており、解析の優先順位は下がると予想された。
そこで日野は、セロに協力を依頼することを提案する。
セロは知人のエンジニアに修理を頼めると応じ、ハードディスクはその人物に預けられた。
日野が訪ねてきたのは、その引き渡しを受けるためだった。
「復旧には六時間から十時間はかかるってさ」
セロは差し入れのチョコレートを口に運びながら、軽く言った。
「まさかあいつのだったなんてね」
男の正体を聞いても、セロは気に留めた様子もない。
「俺も顔を見た時は、驚いたよ」
そう答えながら、あの男の叫びが脳裏をよぎる。
『セロがやったんだ!』
男のパソコンを怪しいと指摘したのはセロだ。
これは偶然なのか、それともなにか関係があるのか。
そんな疑念を振り払うように、日野はセロに尋ねた。
「お前、あいつとは会ってないのか?」
「会うわけないでしょ。だってあいつ、僕に捕まえられたことを恨んでるだろうし」
セロは包み紙を弄びながら、平然と答える。
「……お前は恨んでないのか?」
「僕? 裏切られたときも、やっぱりなってくらいの感情しかなかったから、恨んでいるかどうかって聞かれたら、なんにも感じてないっていうのが正解かな。むしろ結果的にこうやって楽しく生きられているわけだし、今は感謝してるよ」
「感謝してるのか?」
「うん。だってあいつが裏切ってくれたおかげで日野さんに会うこともできたし、悪い奴をやっつける仕事にやりがいを感じられるようになったからね」
「……そうか」
無邪気に笑うセロに、日野はふっと息を漏らした。
もし本気で恨んでいたのなら、セロであればもっと巧妙に復讐していたはずだ。
ふと、室内が静まり返っていることに気づく。
セロは一点を見つめ、なにか考え込んでいた。
「どうした?」
声をかけると、セロが顔を上げる。
「……僕のパソコンに侵入してきたやつは、ハッカーの知識があるあいつより上なんだと思ってさ……」
セロは疑念を振り払うように首を振り、話題を切り替える。
「それより日野さん、復元できるまでどうするの?」
「早く終わる可能性もあるし、ここで待機させてくれ」
「うん。じゃあ、僕はすぐ解析できるように仮眠をとってくるね。日野さんは適当に過ごしててよ」
「ああ。ありがとな」
セロは軽く手を振って、寝室へと消える。
日野はソファに沈み、目を閉じた。
頭に浮かぶのは、ベアルのことだ。
もし、あのパソコンが拠点として利用されていたのだとすれば、なぜベアルはあの男を選んだのか。
なにか接点があったのか?
それとも、ただの駒に過ぎなかったのか?
思考を巡らせながら何度も寝返りを打つ。
接点といえば、誘拐された被害者たちとあの男の間に、ひとつだけ思い当たる繋がりがあった。
考えがまとまりかけたとき、インターホンが鳴る。
寝室のドアが開き、セロが顔を出した。
「あれ? 日野さん、もう起きたの?」
「事件のことで頭がいっぱいでな」
横を通り過ぎるセロに苦笑しながら、日野はゆっくりと体を起こした。
事件のことを考えているうちに、あっという間に時間が過ぎていたようだ。
玄関先でセロがエンジニアと短く言葉を交わし、修理済みのハードディスクを手に戻ってくる。
「直ったのか?」
セロは机の前に座り、パソコンを操作し始めた。
キーボードに指を軽快に走らせる。
画面のブルーの光が、部屋をぼんやりと照らす。
「なにが入っているか楽しみだね」
セロは悪戯っ子のように口角を上げ、不敵に笑った。
その年相応の表情に、日野は安堵を覚える。
初めて会った時のセロは、まるで抜け殻のような少年だった。
逮捕されても、仲間に裏切られても、感情の色は薄く、まるで他人事のような顔をしていた。
今こうして、生き生きとしているセロの姿を見られるのは、どこか嬉しくもある。
「ところで事件のことって、なにを考えていたの?」
セロは指を動かし続けたまま、何気なく尋ねてきた。
「ん? ああ。あの男とベアルの共通点について考えていてな。そしたら被害者も含めて、全員ある共通点があったんだ」
「共通点?」
セロの指が一瞬止まる。
どうやら興味を持ったようだ。
日野が言葉を継ごうとしたその時、不意にスマホの着信音が部屋に響いた。
ポケットからスマホを取り出し、画面を見る。
そこには片倉の名前が表示されていた。
「部下からだ。なにか分かったのかもしれない」
通話をつなぎ、廊下へ出る。
『警部補。警視庁との合同会議が始まっちゃいますよ』
「まだ時間あるだろ」
腕時計に目を落とす。
短針は六時を指していた。
『でも会議で、解析中のパソコンの話をするって言ってたじゃないですか。管理官も進捗を気にしてますよ』
「わかった、わかった。ちょうど解析が始まったところだ。様子を見てそっちに戻る」
軽くため息をつきながら通話を切る。
部屋に戻ると、セロが画面をじっと睨んでいた。
青白い光が、彼の横顔を浮かび上がらせる。
「あー……」
日野が頭を掻きながら声を出すと、セロがそれを遮るように口を開いた。
「日野さん。僕たち、考えを改めた方がいいのかもしれない」
「……どういう意味だ?」
意味深な言葉に、日野は首を傾げる。
「僕たちはずっと『人間』を追っていたでしょ。でも、相手は人間じゃないかもしれない」
セロは立ち上がり、パソコンの画面を背に日野を見る。
画面には、日野には解読できない英語と記号の羅列がぎっしりと並んでいる。
無機質な記号の集まりが、何か強大なものの存在を示唆しているようだった。
セロの神妙な面持ちに、日野が息をのむ。
「ベアルの真の協力者は……」
一拍置いて、セロは言った。
「AIだよ」
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