第3話 誘拐事件

 朝の喧騒が広がる県警捜査一課の部屋。

 コーヒーの香りが漂い、使い込まれたデスクには書類の束が無造作に積まれている。

 刑事たちはパソコンの画面と睨み合いながら、時折短く指示を飛ばし合っていた。

 そんな雑然とした空気の中で、部屋の扉が静かに開かれる。


「おはようございます……」


 かすれた声とともに姿を現したのは、新人巡査刑事の片倉 久喜だった。

 眠そうに目を擦りながら室内に足を踏み入れるが、すぐに異変に気づく。

 普段は軽口を叩き合っている刑事たちの表情が硬い。

 冗談一つ聞こえず、張りつめた空気が室内に満ちていた。

 眉をひそめながら、片倉は周囲を見回す。


「なに呑気に突っ立ってんだ。すぐに会議が始まるぞ」


 落ち着いた声が背後からかけられる。

 振り返ると、書類の束を抱えた先輩刑事が、こちらを見下ろしていた。


「なんかあったんっすか?」


 片倉が尋ねると、先輩は一瞬言葉を選ぶように間を置き、それから重々しく口を開く。


「誘拐だ」

「誘拐!? 身代金目的ですか!?」


 片倉は驚きに目を見開く。

 だが、先輩は苦い表情を浮かべるだけで、はっきりと答えない。

 その理由は、会議室で明らかになった。

 会議室に集まった刑事たちは、一様に息をのむ。

 薄暗い照明の下、ホワイトボードには事件の概要が書かれた紙が張り出され、スクリーンには一時停止された映像が映し出されている。


「これが昨日、ダークウェブ上に公開された動画だ」


 管理官の威厳のある声が、会議室に響き渡る。 

 あまりにも衝撃的な映像に、刑事たちは沈黙した。

 管理官が沈痛な面持ちで告げる。


「犯人は『ベアル』と名乗っている。年齢、性別、国籍、すべて不明だ」


 パソコンを操作し、スクリーンの画面を切り替える。

 そこに映し出されたのは、被害者たちの顔写真だ。


「現在確認されている被害者は二名。一人目の被害者である諏訪三留は、暴行罪および名誉毀損で有罪となった人物だ。二人目の吉宮夏江は、詐欺罪で有罪となっている。刑事裁判で裁かれた以外の共通点は、どちらも関わった者が自殺しているということだ」


 刑事たちの間で、低いざわめきが広がる。


「この動画が公開される数日前、諏訪の映像を見た視聴者から情報提供があり、他県警が捜査本部を立ち上げた。吉宮についての情報もそこから提供されたものだ。今後は本部と合同で捜査を進める」


 管理官が会議室を見回し、言葉を続けた。


「動画を見る限り、最悪の場合、被害者はすでに殺害されている可能性もある。ベアルの目的は不明だが、怨恨による犯行の線も視野に入れて捜査を進めてくれ。以上だ」


 一瞬の静寂の後、どこからともなく椅子を引く音が聞こえてきた。

 刑事たちは次々と立ち上がり、手元の資料を手に取りながら出口へと向かう。

 片倉は息を吐き、天井を仰いだ。

 そんな片倉の肩を、隣にいた先輩が、立ち上がりながら軽く叩く。


「のんびりしている暇はないぞ。早く帰りたいなら、事件解決に尽力しろ」

「やっと落ち着いたと思ったら、また事件ですよ。……永久に終わる気がしない……」

「捜査一課なんてそんなもんだ」


 片倉はゆっくりと目を閉じ、ひとつ小さく呼吸を吐き出した。


「……この事件が最後になるかもしれないからな……」


 片倉がぼそっと呟いたその時、不意に逆隣から重みのある声が飛んできた。


「おい、片倉」

「はい?」


 気のない返事をしながら顔を向ける。

 だが、視界の先に映った人物を見た瞬間、慌てて立ち上がり、姿勢を正した。


「日野警部補! なにか御用でしょうか!」


 そこには、ベテラン刑事の日野 誠が立っていた。

 直立する片倉を、日野は鋭い目つきで見上げる。

 決して大柄ではないが、柔道で鍛え上げられた鋼のような体つきが、その印象を覆す。

 さらに、わずかな表情の変化すら許さない無表情が、圧倒的な威圧感を放っている。

 その存在感は、新人刑事にとって間違いなく近づきたくない上司ナンバーワンだ。


「お前は俺と聞き込みだ」

「えっ!?」


 思わず声が裏返る。


「なにか問題でもあるのか?」


 新人の片倉にとっては、問題だらけだった。

 だが、それを口にできるはずもなく、助けを求めるように、片倉は先輩を探す。

 が、そこに先輩の姿はなかった。

 逃げられたのだと悟り、肩を落とす。


「……なにも、問題ないです……」


 諦めたように返事をすると、日野は無言で踵を返す。

 片倉は内心の泣き言を押し殺しながら、その背中を追うしかなかった。


 日野と片倉が訪れたのは、吉宮の詐欺により自殺した被害者の遺族の家だった。

 カーテンが閉め切られ、昼間だというのに薄暗い家が、重苦しい雰囲気をさらに際立たせていた。

 まるで人目を避けているようでもある。

 玄関先でインターホンを押すと、しばらくして足音が近づき、乱暴にドアが開かれた。

 対応してくれたのは、被害者の兄と名乗る男だ。

 やつれた顔つきには深い隈が刻まれ、目元には疲れが色濃く映る。

 口元は引き結ばれ、表情は固い。

 何度も繰り返されたであろう訪問者への、警戒と嫌悪が滲んでいた。

 

 二人は仏間に案内されると、仏壇の前で静かに手を合わせた。

 線香の匂いが室内に漂い、遺影の中の男性が穏やかな微笑を浮かべている。

 しかし、その笑顔はすでに現実には存在しないのだと、仏壇の前の沈黙が強く語っていた。


「どういった御用でしょうか? 刑事さんにお話しすることは、なにもありませんが?」


 兄の声には、どことなく怒りが含まれている。

 その暗く沈んだ声が、張りつめた空気をさらに冷ややかにした。

 しかし、日野は一切気にすることなく、本題を切り出す。


「最近、吉宮 夏江の件でなにか変わったことはありませんでしたか?」


日野が話題に切り込むと、兄の顔が引きつった。

静寂に沈んでいた仏間に、憎悪がじわじわと滲み出していく。

 被害者遺族の心情を思えば、吉宮の名だけで憤りが湧き上がるのは当然だ。

 だが、怨恨の線を追うならば、この場は避けて通れない。


「……あのぉ……弟さんの動画が流出しているようなのですが、なにか心当たりはありませんか?」


 片倉が遠慮がちに問いかけた瞬間、兄の顔が見る間に険しくなった。


「弟の動画が流出しているとは、どういうことですか!?」


 兄は勢いよくテーブルを叩き、前のめりに身を乗り出してきた。

 強い圧力を帯びた視線が、片倉を貫く。


「え……? あ……っと……そのぉ……」


 あまりの剣幕に、片倉は目を泳がせた。

 胸に冷や汗が伝う。

 空気が一気に張りつめ、仏間に漂っていた線香の匂いが、片倉の胸をきつく締めつける。

 すると、片倉の目の前に制するような腕が伸びてきた。


「落ち着いて下さい」


 声量を上げることなく、しかし有無を言わせぬ強さで、日野が動揺しかけた空気を抑え込んだ。


「あくまでも可能性の話なので、そうとは決まっていません。そのため不審な点がなかったか、お聞きしただけです」


 日野の落ち着いた口調に、兄は呼吸を整え直すように体を戻し、正座し直した。

沈黙が数拍流れた後、兄は悔しそうに唇を噛み、声を絞り出す。


「吉宮のせいで弟はいわれのない誹謗中傷で苦しんだんです。それなのに、今も誹謗中傷は止まない。あの女はどこまで、うちの家族を苦しめれば気が済むのですか?」


 血走った目には、怒りと悲しみが絡み合っていた。

 言葉にならない感情が、仏間の冷えた空気を震わせる。


「吉宮とは示談にされて、裁判でも争わないとの意思を示したと聞いていますが?」


 日野が淡々と問いを重ねた。

 うつむいた兄の肩が、小さく震える。


「裁判で訴えても、弟の遺書で減刑になるうえに、詐欺被害にあった金額も禁固刑を求めるには不十分でした。……なにより毎日送られてくる誹謗中傷に、母も精神的におかしくなってしまって……。早く、平穏な日々に戻りたかったんです」


 その声は、悲しみに押しつぶされそうだった。

 日野は短く息を吸い、少しだけ迷った末に口を開く。


「……吉宮は現在、深刻な状況に置かれています」


 静かに告げられたその一言に、兄は弾かれたように顔を上げた。


「詳細はお伝えできませんが、彼女は今、自らの行いの代償を払わされているようです。我々はその状況を把握するために、捜査を進めています。事件の真相解明のために、ぜひご協力いただけないでしょうか?」


 兄は、肩を落とすように深く息を吐いた。

 その瞳には、燃え尽きた後のような虚無感が漂っている。


「本当に吉宮のことで知っていることはなにもないんです。ただ、なにかあれば刑事さんに連絡します」


 二人は深く頭を下げた。

 仏間に漂う線香の匂いを背に、重い足取りで家を後にする。


 外に出ると、薄暗くなりかけた空に、冷たい風が音もなく吹き抜けた。

 片倉は思わず肩をすくめる。

 ひやりとした空気が、皮膚を刺すようだった。

 ふと背後を振り返る。

 閉ざされた窓の向こう、わずかな隙間から、兄の影がぼんやりと浮かび上がっていた。

 恨みでも、怒りでもない。

 ただ、どうしようもない哀しみと諦めが、彼の全身を支配しているのがわかった。

 まるで時間が止まったかのように、兄はその場に立ち尽くしていた。

 片倉は胸の奥がきしむのを感じながら、再び足を動かした。

 砂利道を踏みしめる音だけが、沈黙の中に響いていた。


 車に乗り込み、片倉がエンジンをかける。

 エンジン音が、静寂を破るように小さく唸る。

 わずかに揺れる車体が、重く沈んだ空気をまとわせた。


「余計な話をしてしまい、すみませんでした……」


 片倉はハンドルを握ったまま、視線を落とす。

 助手席に身を沈め、無言で窓の外を眺めていた日野が、わずかに視線だけを動かした。


「お前が聞いたことで、あの兄はベアルと関係がなさそうだということがわかった。それだけでも、聴取の役に立ったよ」


 片倉が目を瞬かせる。


「怒らないんですか?」

「怒って欲しいのか?」


 鼻で笑った日野の口元がわずかに緩む。

 片倉は慌てて勢いよく首を横に振った。


「失敗したと反省しているなら、次に活かせばいい。……被害者遺族ってのは、外部から見るよりも想像以上に重いもんを抱えているからな……」


 その言葉に、片倉はハンドルに添えた指を、一瞬だけかすかに震わせた。

 窓に映った日野の顔は、どこか遠いものを見ているようだ。

 ふたりの間に、沈黙が降りる。

 空調の微かな唸りだけが車内に流れ、冷えた空気が曇りガラスに薄い霞をかけた。

 沈黙に耐えきれず、片倉は思わず口を開く。


「……俺、今回の事件はベアルとかいう奴がやっていることの方が、正しい気がします」


 曇りかけたフロントガラスの向こう、夕闇が静かに世界を飲み込んでいく。


「だって、裁判で裁かれても奴らの罪は軽いものだったじゃないですか。これじゃあ亡くなられた方達やご家族が報われませんよ」


 日野はゆっくりと片倉に目を向けた。

 暗くなりかけた車内で、彼の顔がわずかに陰って見える。


「だからといって、俺たち刑事が犯罪を見逃していいわけじゃない」


 低く、抑えた声音の奥には、確固たる信念が宿っていた。


「奴は法を犯した犯罪者だ。法は今まで人間が犯した数々の罪の反省から作られたもんだ。それを無視するということは、罪が蔓延することになりかねない。だから俺達刑事が存在してんだろ」


 片倉は指先が白くなるほどに、ハンドルを握る手に力を込めた。


「でもその法が平等ではないから、ベアルが生まれたんじゃないですか?」


 思わず語気が強くなる。

 日野は、窓の外に目を向けた。

 遠いどこかを見るその目に、かすかな痛みが浮かんでいる。


「法は全ての人間に対して平等だ」


 片倉に怒るでもなく、静かに、噛みしめるように言葉を吐いた。


「だが、それぞれの事情を考慮して裁こうとすればするほど、どこかに不平等が生じてくる」

「?」


 片倉は眉をひそめる。


「犯罪者と被害者。二つの相反する立場の人間の主張を聞いて、公平に裁こうとしているんだ。その結果が、自ずとどちらかの不平等感を生ませてしまう。……法は犯罪者側の尊厳を守る内容もあるからな」


 諭すような日野の言葉に、片倉が思案して問いた。


「でも、第三者から見ても納得できない判決だってあるでしょ。それを考えたらベアルのような裁判も必要なんじゃないですか?」


何かの迷いを捨てるように、日野が息を吐く。


「そんなことになれば、人の主観だけで白も黒にされちまう。……現に今会った遺族だって、詐欺に遭った側だというのに、世間から黒と判断されて苦しめられている。奴がやっているのはそういうことだ」


 赤信号で車が止まる。

 フロントガラス越しに、赤い光がじわりと広がる。

 日野は、ハンドルを握る片倉に顔を向けることなく、ぽつりと呟いた。


「そうじゃなきゃ、報われねえんだよ……」

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