今日も明日も明後日も、お前の事が大好きだ!

御厨屋りんどう

第1話

グラウンドのざらついた砂埃を撒き上げ走る。

 一際上がった砂の粒が太陽の光を反射してキラキラと眩しく輝く。力強く踏み切った背中が、難なく空へ飛び立つ様に見えた。

 初めて見たときのあの真夏の日差しまで生々しく思い出させ

「大野ー!片桐に見惚れてんじゃないぞー!お前の番だ!」

 バサッと、彼がマットに落ちた音と同時に聞こえた顧問の前田先生の怒声が、俺を現実に引き戻した。




「おっはよー、片桐♪今日も好きだからな♥」

「・・・・・・。おう。」

 今日は大好きな片桐伊織から返事がもらえたので最高の日になる事確定。

 ニマニマしながら片桐の前の席に座る。名簿順の席の配置ありがとう。

 俺の名前は大野利佳りか。としよしではない。

「リカちゃんおはよー。今日も日課の挨拶ご苦労様です。俺は片桐よりちっちゃ可愛いリカちゃん大好き~♥」

 いきなり肩を組んできたのは、いつもウザ絡みしてくる沢渡悠貴。

「リカちゃんやめろ。可愛い言うな」

 片腕にすっぽり収めようとしてくる腕を素早くかいくぐる。

 見た目はチャラい沢渡は実は結構鍛えていることを俺は知っている。

 何度もこの『片腕すっぽり』から逃れるため色んな方法をためしたのだ。

 結果、力で押してもどうにもならないことが分かった。見た目以上にびくともしない。

 なので最適な脱出方法は、スピードで腕をかいくぐることだ。

 瞬発力には自信がある。

 瞬発力にしか自信がない。

 持久力という概念は俺の身体には備わらなかった…。


 すっぽり収納される瞬間、スッと下にしゃがんで45度旋回。後ろへ跳躍!で完璧に脱出成功!と思ったけど、俺の確認不足。跳躍後の予定着地点に、登校してきた女子がきていた。

「キャア!!」

 女子に怪我をさせるわけにはいかない!

 しゃあなし、跳躍に回転をかけて机に突っ込む。ギュッと目をつぶって衝撃に備えた俺の身体が、ぽすっと机ほど硬くないものにぶつかった。

 俺の身体は…大好きな片桐の片腕にすっぽりと収められていた。

「…危ないだろ」

 見上げた片桐はいつもの無表情でボソッと言った。

「ゴメン…ありがと…」

 一瞬で俺と女子を救った片桐がかっこよすぎて語彙力がどっか行った…。


 片桐はすぐに俺を離して廊下に向かって歩き出してしまった。

 スッと伸びた綺麗な姿勢の広い背中を見惚れながら見送る。

「はああぁぁぁ…かっけぇぇ…」

「あー、今のはかっこよかったねぇ。立ち上がってリカちゃんに手ぇ伸ばして肩つかんで自分の方へ引き寄せて受け止めるってのを一瞬でやってのけてたし。反射神経どうなってんだ?」

 お前の動体視力もどうなってんだ?

「驚かせてごめんな、どっかぶつけてない?」

 被害にあいかけて怯えている女子に声を掛けた。

「あ、大丈夫…こっちこそ、ごちそうさまでした」

 ペコリと頭を下げ慌てて走り去って行かれた。

「ごちそうさま」の意味が分からない。


 すっぽり収められた腕の力強さと、背中に感じた体温を絶対に忘れたくない。思い出したら背中がムズムズする。

 やっぱり大好きだ…。

 俺が大好きな片桐伊織は、185センチの長身にバランス良く長い手足でスタイルがめっちゃいい。そこも好き。

 顔もイケメンでシュッとした切れ長の目にゲジゲジしてない眉毛。鼻もシュッとしてて口もシュッとしてるし輪郭もシュッとしてる。もちろん好き。

 でも一番好きなのは、陸上部の高跳のエースで重力を感じさせずに跳んでる姿。

 本当に惚れ惚れする。見惚れる。はぁ~、好き。

 性格は…、無口・無表情・無愛想の三拍子揃った残念なイケメン。

 ほぼ単語しか話さない。いや、滅多に声すら聞けない。

 2年になって念願の同じクラスになれたけど、2週間ほど経った現在、声を聞けたのは両手で足りるぐらい。

 今日は「おう」と「危ない」の2語聞けたのは奇跡。しかもすっぽりバックハグ。神様ありがとうございます。

 ほぼ信じていない神に祈りを奉げていた時、わしわしと頭を撫でられた。

「元はといえば俺のせいだよな、ごめん。お前に怪我させるとこだった」

 俺の机に座ってわしわしし続ける。俺よりでかい手がムカつく。それを払い除けて

「ホントだよ。もう2度と収納するのやめろ」

「それは無理。リカちゃんが大人しく収納されてくれたらいいのに」

「断る!あとリカちゃんやめろ!」




 何故毎日同性である片桐伊織に毎日告白してる状態になっているのかというと…


 去年までの俺は、何事にも無気力で頑張ることややり遂げることも別にどうでもよく、ただただ毎日を無難に過ごしていた。

 いつからこんな性格なったのか、元からなのか、それすら思い出すのも面倒になっていた。

 そんな俺がこの県立紫藤高校を選んだ理由は、近いから。部活に力を入れているとか、プロのスポーツ選手を輩出しているとか、女子のレベルが高いと噂されているとか、男子でも読モがいるとか、色々と特色のある学校だけど、家から一番近いからっていうのが俺が選んだ理由。


 とりあえず苦痛なく毎日通えて卒業さえ出来ればいいなんてダラダラと目標もやる気もなく過ごしていた毎日の中で、片桐との出会いは、雷に打たれて一度死んで生まれ変わったんじゃないかぐらい衝撃的に俺の全てを一変させた。


 高校1年の夏休み、コンビニからの帰り道に通ったグラウンドの横の道。

 ガシャンッという音に気付きグラウンドへ目をやった。

 一人の生徒がでかいマットから立ち上がるところだった。

 音と同時に落ちたであろうバーを支柱に戻し、スタート位置に戻る。

 再び走り出した姿に、俺は無意識にフェンスへ近づいた。

 ガシャン!とまたバーが落ちる。マットに落ちた姿勢のまましばらく動かなくなった。体調が悪くなったのかと心配し始めた時、反動をつけて勢い良く立ち上がった。ほっと胸をなでおろす。

 さっきのルーティンを繰り返してまた走り出した。何度も何度も繰り返す。フェンスを握る手に力が入る。身長より高いぐらいの位置にあるバーを睨むその目に胸が熱くなった。

 思い切り踏み出した足が乾いたグラウンドの砂埃を巻き上げた。背中がバーを越える。踵が微かにバーに触った。ユラユラと振動するバーがそのままの位置で動かなくなった。

「やった!」

 思わず出た声に自分が一番驚いて、口をふさいでしゃがみこんだ。

 覗き見なんて恥ずい行為をしてしまった。

 雑草やグラウンドに置かれた雑多なもので隠れられてるはず!

 ジャンプを成功させた生徒が、不審な顔でマットから起き上がるのが分かった。

 息を殺し存在を消す。コンビニの袋の中のアイスが完全に溶けているのに気が付いた。

 生徒が近づいてくる足音が聞こえる。

 ヤバい…。

 意を決して、しゃがんだままの姿勢から草むらを飛び出し、猛ダッシュで家に帰った。

 姉に頼まれたスーパーカップはでろでろに溶けていた。思いっきりシバかれた。



 次の日から俺のストーカー生活が始まった。こっちからは見えて、向こうからは見えない場所を見つけて、彼の練習日が分からないから毎日行ってみた。

 無気力だった俺が毎日どこかへ出かけるのを親は喜んだが、まさかDKのストーキングをしてるとは思っていないだろう。

 アイドルオタクを公言してる姉に双眼鏡を借りた。ドアップで見えてしまった彼の顔のあまりのイケメンさに驚いて双眼鏡を放り投げて壊してしまった。全力でシバかれた。


 夏休みが終わり学校が始まったことでストーカー生活に磨きがかかった。

 片桐伊織という名前を知ることができた。1年1組で同い年だと分かった。やっぱり陸上部だった。無口で愛想がなく友達はいないようだ。立候補したい。成績は良い方らしい。文武両道惚れる。

 片桐は学校ではあまり動かないので、ストーキングはしやすかった。どんな片桐も目に焼き付けておきたい。

 俺の不審な行動は、片桐にはバレなかったが周りから見たら相当ヤバかったようだ。

 大丈夫。自覚はある。


 そんな不審な俺に声を掛けてきたのが片桐と同じクラスの沢渡悠貴だった。

「お前片桐が好きなの?男なのに?マジで?」

 蔑んだ目で俺を見ながら言った。

「男同士できめぇな」

「違う。訂正しろ。キモいのは俺であって片桐はキモくないから。そこ間違えんな」

 沢渡はキョトンと俺を見ただけで、それ以上は何も言わなかった。

 それ以後、ストーキング中に何度も沢渡に絡まれるようになった。目の前に立って片桐を見えなくしたり、あめやガムやグミを口の中に押し込まれたり、はたまた一緒にストーキングしてくれたり、片桐の情報を教えてくれたり。ウザかったがありがたいこともあったりでよく分からない奴だと思った。


 ストーキング生活が終わりを迎えたのは、2年に進級した時だった。

 なんと、片桐と同じクラスになったのだ!俺の運はここで使い果たしただろう。

 しかも名簿順で「お」の「大野」からの「か」の「片桐」という連番で、初めて名前に感謝した。

 始業式の日、教室は喜びの声や悲しみの声で騒がしかった。けど、俺の耳には全く入ってこない。だって、後ろの席に片桐が座っている!!全神経が背中に集中している…。目も後ろに移動してくれたらいいのに…。

 寝るふりをして机に突っ伏して、脇から覗いてみる…自分の身体が邪魔。真後ろが見えるはずない。

 そんな努力をあざ笑うかのように突っ伏した頭を押さえつける奴がいた。

 グギギと頭を持ち上げると、そこには沢渡の姿があった。

「俺も同じクラスなんだけど?」

「…。まじか」

「なんで嫌そうなんだよ」

「いや…嫌ってか…ウザい?」

「ひどっ。ってか、大野…下の名前なんて読むの?」

 プリントに書かれた俺の名前をトントンと指差して、こてんと首をかしげる。

 イケメンだから許される行為だよな。ムカつく。

「………りか…。」

 聞こえないよう呟く。

「え?聞こえない」

「…りか」

「え?」

 わざとらしく耳に手を当てて顔を近づけてきた。

「りか、だ、りか!おおのりか!」

 思った以上に大きな声になってしまい、クラス中の視線を集めてしまった…。

 ニヤニヤ笑う沢渡が憎々しい…

「よろしく、リカちゃん♪」

「リカちゃんって言うな!」

 楽しそうな沢渡の口角が一際上がるのが分かった。嫌な予感がする…

「片桐、聞こえた?こいつリカちゃん、よろしくしてやってね」

 いきなり片桐に振るという何たる暴挙!俺は恐る恐る片桐のほうを向いた。

「よ…よろしく…お願い、します…」

 緊張と心の準備が出来ていなかったのとで声が震える。

 目の前に憧れの人がいる。1メートルも離れていない所に。間にあるのは俺の椅子の背もたれと、片桐がこれから1年間使うであろう羨ましい机だけ。

 片桐が俺の方を見る。ゆっくりした瞬きはスローモーションのようで、俺を見る瞳は凄く綺麗でしっかりと俺を映しているのが分かった。

 数秒間、目が合った時間はとても長く感じて…

「…おう」

 短いけど初めて聞こえた片桐の声は、俺の耳に心臓に脳ミソに身体全部に突き刺さった。

 片桐への気持ちがジクジクと音を立てて大きくなる。俺の中に【他人への恋情】という器があるのなら、それはもう既に許容量目いっぱいでギリギリの状態だったのが、片桐が目の前にいるこの状況で一気にあふれて俺の感情はめちゃくちゃになった。

 その結果…


「俺、お前のこと好きだ!ずっと前から…去年の夏休みからずっと、好きです!片桐のこと、マジで好きだっ!今も、今日も、ずっと、これから先も、ずっと、好きだから!」


 憧れだけじゃない。毎日見てた。好きで、好きすぎて、切なくて、泣きそうになる。伝えずにいられなかった。

 泣きそうな俺の顔を沢渡が覗き込んできた。目が合い、現実に戻された俺は…違う意味で泣きたくなった。

 クラス中に披露した熱烈な告白劇。進級した初日からやってしまった…\(^o^)/オワタ





 死にたいほど恥を曝した翌日。目が覚めたら異世界に行ってたらいいなぁなんて願いは叶うハズもなく。

 学校へ行かねばならないいつもの世界だった。

 クラスの奴らにどういう対応をされるだろう…。まぁ距離は置かれるだろう。沢渡すら引いていたようだったので、今迄みたいに絡んでくることはないだろう。ははは…

 特に巻き込み事故の被害者にしてしまった片桐には、相当嫌われてしまっているだろう。

 あぁ…死にたい…。

 徒歩5分の距離を、倍以上かけて進む…。倍以上でも10分。なんでこんな近いとこにしたのか…。

 足が鉛のように重い…。今ここで暴走車が俺だけ巻き込まないかな…。不審者が俺だけ刺しに来ないかな…。

 グジグジと考えながらとぼとぼ歩いていると、バシンと強く背中を叩かれた。やった、不審者来た、ありがとうございます。でも刺すぐらいしてくれないと学校休めないじゃん。

「リカちゃんおはよー!」

 不審者じゃなくて、満面の笑みの沢渡だった。

「お願い、そのまま刺してぇ、刃物ないなら倒れるまでシバいてぇ」

「怖い怖い怖い、何言ってんの?大丈夫?」

 縋り付いて懇願する俺を、どうどうと宥める。

「行きたくないよう…」

「うわ、ブサイクな泣き顔。昨日の泣きそうな顔はすげぇ可愛かったのに…。」

「昨日の話は止めて!恥ずかしくて死にたくなる!」

 耳をふさぐ俺の肩を抱いて、顔を覗きこんできた。

「なんで?俺は感動したけどな」

 何言ってるのかよくわからないけど…。

「てか、普通に話しかけてくるんだ…。」

「え?なんで?友達でしょ?」

 沢渡は本気で意味が分からないという顔をしてる。

「お前…いい奴だったんだな…」

「今頃分かった?遅すぎない?」

 俺の肩を抱いたままケラケラ笑っている。

 ちょっと泣きそうになりながら一緒に校門をくぐった。


 2年3組の教室は、昨日と同じようにざわざわしていた。

 俺が教室に入った瞬間、シンっと静まり返った。

 足が震える…胃の奥がギリッと締め付けられたように苦しくなった。

 動けなくなった俺の背中を沢渡がそっと撫でてくれた。


 その時、沢渡がいる反対側の俺の肩に手が置かれた。

「ぅっす…」

 片桐が俺を見下ろしていた。片桐が俺に触ってくれた。片桐が俺に挨拶してくれた…

 俺の目から一粒涙が零れたのを見て、片桐の瞳が少し見開かれた。

「おはよ、ありがと、やっぱり好きだわ」

「お、それそれ、その顔可愛い~」

 沢渡が、泣かないよう精一杯笑う俺の頬をつついた。






 それからは毎日、朝のあいさつと一緒に告白するようになった。

 片桐の反応は大体無言。

 チラッとこっちを見るだけだったり、たまに「あぁ」とか「おぅ」とか言ってくれたりする。そんな日は一日中テンション高めになってしまう。

 まだやめろとかきもいとか罵詈雑言は一切言われた事は無い。

 あれだけビビってた周りの反応は、結局俺にとってはどうでもいいものになった。

 好意的な奴もいれば蔑んでくる奴もいるし、気持ち悪がる奴もいる。認めて応援してくれる女子までいる。

 俺としては、片桐に拒否されない限りこのまま好きで居続けるつもりだ。


 感情の起伏がない片桐なので、嫌がってるのか喜んでるのかは全く分からないが、俺なりに毎日愛情を表現してる。

 内心ウザイと思われてるかもしれない…が、片桐が何も言わないので押せ押せな対応を心掛けている。

 しかも片桐と同じ陸上部に入部を希望した。高跳をやって片桐にべったりくっついていようと思って。


 陸上部の体験入部に新入生に混じって参加した。で高跳に挑戦してみた、頭の中に片桐のきれいなフォームは入っている。あの形に近付ければ…。と思っていたがそれ以前の問題で、助走が全く上手くいかず顧問の前田先生には「リズム感がクソ」だと言われた。横で片桐が頷いていたのは知ってる。

 片桐の傍に居たいのに、陸上部入部は無理なのかとグズグズしていた。

「短距離、やってみ」

「え?」

 初めて、片桐から話しかけてくれた。その現実に驚いて言葉が出ないでいた。

「あの時、超速かった。クラウチングスタート、出来てたし」

「???????はぇ?あ、あの時って???」

 まさか、去年の夏休みの?気づかれてた?

「俺を***なの夏休みからっていったの聞いて…思い出した」

 ***が聞こえなかったけど、横を向いてあからさまに目をそらした片桐の耳が赤くなってるのを見逃さなかった!

 無表情でわかりにくいけど、今照れてる!

 片桐にしてもあの告白劇は超恥ずかしい出来事だったんだ!いや、喜んでる場合じゃなくて。

「夏休みから好きだった」って内容まで覚えててくれたことが、嬉しくて、恥ずかしくて…ムズムズする…

 なんだこの空気…。

 真っ赤な耳で、真横を向いたまま動かない片桐は初めて見る姿で…

「片桐、可愛い♥あ!ありがと、顧問に相談してみるね」

 俺まで赤くなりそうだったから、慌てて顧問の所に走った。


「可愛いって…可愛いのはお前だろ…」



 スターティングブロックの使い方を聞いて位置に着く。

 低い位置から見る景色はいつもと違っていて、地面が近くて視野が広がった気がする。

 ゴール付近にストップウォッチをもった前先(前田先生)と腕組みした片桐が見える。何か話してるみたいだけど、流石に聞こえない。あの片桐と会話できる前先羨ましい…。

 そういえば、さっき俺も片桐と「会話」出来てたな…

 3往復だったけど…

 今日は記念日だ♪


 前先が左手を挙げた。スタート地点の部員がそれを確認して旗を持った手を挙げる。

「位置に着いて」

 ゴールにいる片桐と目が合った気がする。笑ってる…?

「よーい…スタート!!」

 視界の端に振り下ろされた旗が見えた瞬間、ぐっと縮めた全身の筋肉を解き放つ。

 小さいころから走るのは好きだった。風を切って、景色が流れて、そのまま飛び立てるような気がして…崖から飛んで大怪我したことがあったなぁ…。

 そいえば初めて使ったスタートなんちゃら(スターティングブロック)、気持ちよくスタートできたなぁ。

 なんて考えてたらいつの間にかゴールを切っていた。片桐の方をガッツリ見ながらゴールしてやったぜ!

 久々の全力疾走に肺がつぶれそう…!

 肺の痛みと足の震えでその場に座りこんだ。

 振り返ったら前先と片桐がストップウォッチを見ながら目を見開いている。

「今の走り100%じゃないっすよ」

「まじか?」

「シューズもあれだし、アップもしてないし…前見たときはもっと速かったっす」

「ストレッチとアップだけでもさせとけばよかったな。まさかここまでとは…」

 片桐がめっちゃしゃべってるーーーーー!!!!

 ストップウォッチと俺を交互に見比べながら話している二人を呆然と見つめる。

 前先すげー!!いやこれからはちゃんと「前田先生」と呼ぼう!

「大野、お前陸上の経験は?」

 自称イケオジ前田先生が俺の横にしゃがんで聞いてきた。

「んー、体育の授業でやったぐらい?」

「まじか?お前、すごいぞ」

 前先、ちが、前田先生がストップウォッチを俺に向ける。

 11’56”

「なにそれ、速いの?」

「高校生の平均で14秒台。陸上部の平均で11秒台。わかるか?」

「…。うわ、俺すげー!」

「そうだ。お前すげーだ。で、もっと早く走れそうか?」

「いや、無理、今ので限界。足攣りそうなんだけど」

「じゃあ、とりあえず急ぎで入部届提出な」

 前田先生は「よっ」と掛け声で立ち上がり

「ホントに今までどこに隠れてやがったのか、2年じゃねぇかもったいねぇ。1年無駄にした分取り戻させねぇと…」

 ブツブツ言いながら戻って行った。

 なんなの?

 座り込んでふくらはぎや太ももをグーで叩いていると、片桐が近づいてきた。

 俺に向かって手を差し出している。

 …え?

 片桐の顔と手を見比べる。

 節が太くて指は長くてでっかくて、ふぁ~ってなる。

「そろそろ立て。向こう戻るぞ」

 はぁ!俺を立たせようとしてくれているのか!

 この手を握れと!?

 ドキドキドキドキ。と心拍が激しくなって上がっていくのが分かる。

 さ、さ、さ、触っても…いいんでしょうか…

 片桐が焦れたように手を振る。

 はい、すいません、急ぎます。

 体操服の腹で手のひらの汚れと手汗を拭いて、恐る恐る右手を差し出した。

 片桐の大きな手が俺の手を掴んだ瞬間、グイっと引かれて軽々と立ち上がらされた。

 すぐに離された手が、名残り惜しそうにその場に留まってしまった。

 が、離された片桐の右手は…なんと俺のケツの砂をパンパンと払いだした。

 待って待って待って待って!キョウワタクシハシヌノデショウカ?

 運、使い果たしてね?

 推しの過剰摂取で天に召されそう…

 呆然としてる俺を見て、片桐の表情ががほんの少し「ふっ」と和らいだ。

 えぇぇえ!?笑った!!!初めてみたーーーーー!

「行くぞ」

 先に歩き出した片桐が少し振り返り言った。

 振り返りもかっこいーーー!!

 丁度職員室から出てきた前先が、小さめのプリントをひらひらさせて手招きしていた。





 前田先生に入部届を提出して、晴れて片桐と同じ陸上部員になった。種目は違えど、一緒に居られる時間が増えた事は幸せ以外の何ものでもないと思っていた。

 が、そんな幸せに浸る余裕もなく、地獄の練習メニューが待っていた。

 今までロクに運動などしたことなかった筋肉カスカスの身体は、基礎練習だけで悲鳴をあげた。


「ボロボロだな」

 グラウンドに寝転がってしまった俺の隣に、片桐が腰を下した。

「こ…れ、以…上…ムーリー…」

 ゼェゼェと息が切れてまともに喋れない。せっかく片桐が話しかけてくれてるのに…

 一緒にウォーミングアップしたり、ストレッチ手伝ってもらったり、キャッキャウフフな部活ライフは粉々に砕け散った。

「片…桐と、キャッキャ…ウフフ、し…たかっ…た…」

「……なんだそれ」





「片桐~、ご飯食べよ~」

 昼休みのチャイムと同時にパンと牛乳が入った袋を掴んで勢いよく振り返る。

 拒絶を許さない勢いと笑顔が大事!案の定片桐伊織はポカンとしながらも頷いてくれた。

「あれ?リカちゃん、ママ弁どした?」

 片桐の隣の席の椅子を、足を使ってガタガタと移動させながら沢渡悠貴が聞いてきた。

「2時間目終わって食った。ってか、"リカちゃん"やめろ」

「最近、食欲すごいじゃん」

「部活始まってから腹減ってしゃーない」

「結局続いてるんだな、陸上部」

「おう!片桐近くで見れるしぃって思ってたんだけど、なかなか…今のところ自分のメニューこなすだけで精一杯」

 グチグチ言いながら2つ目の焼きそばパンにかぶりつく。

「何個食べんの?」

「7個」

「よく食べてえらいぞー」

 沢渡の大きめの手が俺の頭をわしゃわしゃする。

「やーめーろーよー」

 わしゃわしゃと押さえつけられながら上目遣いに見えた片桐の顔が少しムッとしてるように見えたのは気のせいじゃないと思いたい。




 部活漬けになったゴールデンウイークも終わり通常の学校生活にリズムが整い出したころ、なんやかんやで俺・大野利佳と俺の想い人・片桐伊織とチャラ男・沢渡悠貴は3人でつるむことがほとんどになっていた。

 始業日での俺による片桐への大告白にクラスの連中はそれぞれの反応を示していたけど、最近は慣れもあるのか変ないじり方をされることもなくなって、(なま)暖かく見守られているように思う。

 毎朝おはようの挨拶とともに「好きだ」ということも忘れずに伝えるという日課も、最近は認められるようになってきた。たまに忘れてた時なんかはそれを突っ込まれる事まであった。

 それは部活でも同じで、ペアを組んでのストレッチなどは優先的に片桐と組ませてもらえたり、片桐が跳ぶ時は教えてもらえるようにまでなった。

 ありがたいことですm(__)m

 そんな環境が続いたせいか、片桐も段々絆されてきてるんじゃないかと感じ始めている。なんとなく、座る距離が以前より近くなってたり、目が合う事が増えた気がする。



「大野、いるか~」

 騒がしい昼休みの教室のドアから、体育の前田先生が顔を覗かせた。

「へんへぇ、はんはよう?」

「全部飲み込んでから喋れ」

 口の中の水分を全部持っていってくれたメロンパンを牛乳で流し込んだ所で、ちょうど前先(前田先生)が近づいた。

「これ、陸上部ユニフォームの申請用紙。学校指定のスポーツ用品店まで行ってもらわなきゃならんのだが、場所分かるか?3つ向こうの駅から5分ぐらいのとこにあるんだが」

 前先は陸上部の顧問でもある。

「多分…スマホのナビ使えば行けるっしょ」

「あとシューズやらサポーターやら練習着やらも揃えて欲しいんだが」

「なになになんてなんて?も一回、俺初心者なんだからもっと丁寧に説明してよ」

 慌てる俺に前先はポリポリと頭を掻いた

「あー…と、お!片桐!一緒に行って必要なもの見繕ってやれ!じゃあ、なる早で頼んだぞ!」

 はー忙しい忙しいと呟きながら、そそくさと教室を出ていく前先の後ろ姿を3人で呆然と見送った。

「説明めんどくさくて片桐に丸投げしやがったな…」

「えー…マジかよ…流石に片桐に迷惑じゃん…」

「あれ? ひゃっほうデートだ♪とかって喜ぶかとおもった」

 きょとんと俺を見る沢渡に答えることもできず、俺は本当に焦っていた。

 これはだめだ。俺なんかのためにこんな負担、片桐に負わせられない。

「や、いや、片桐、大丈夫だから!わかんなかったら店の人に聞くし!小学生じゃねぇんだから、付き添いとかいらないから!」

 アハハと焦って早口になる俺を、片桐はいつもの無表情で見ているだけで何も言わなかった。

 片桐と俺との間に変な空気が流れる中、沢渡がいつものお調子者の表情で言った

「じゃあ俺が一緒に行ってあげよう♪」

「へ?」

「サッカー部も同じ店利用してるから俺もそこ知ってるし。デートしようぜ、リカちゃん♥」

「はぁ?」

「明後日の日曜部活休みでしょ?どっかで一緒に昼飯食った後店まで案内したげる!11時に駅前集合ね♪」

「え?おい!勝手に決めんなよ!」

「あ、チャイム鳴った!じゃぁね、約束だよ!」

「ちょ、沢渡!」

 都合よく鳴ったチャイムに合わせて沢渡は自分の席へ帰ってしまった。

「マジか…」

 呆然としながら、ガタガタと自分の椅子の向きを戻す俺の耳に片桐の声が聞こえた気がした。

「俺も行くから」

「え?」

 慌てて振り向いたけど、片桐は頬杖をついて窓の外を見ていた。聞き間違い…だよね?


 その日、何とか沢渡と話をしようとしたが、徹底的に避けられ捕まえられなかった。ラインでも断りのメッセージを送ったが、よくわからないスタンプが返されるだけで、全く話が通じなかった。



 そして…デート(?)当日。

 ボイコットしようかギリギリまで悩んだが、そんな事ができるような性格でもなく…あの約束自体沢渡の冗談かもしれない、でももし行かなくて沢渡をいつまでも待たせることになったら…。

 結局、10分前行動で10時50分に駅前についた。

「おーい、リカちゃんこっちこっち!」

 満面の笑みでブンブン手を振る沢渡と無表情で時計台の台座に軽く腰掛けて腕組みしている片桐がいた。

 ちなみに片桐がもたれている台座は高さがすげぇ中途半端で、乗り上げてしっかり座ってしまうと足が付かなくてプラプラしちゃうし、軽く腰かけるにはケツが届かないという不都合を生み出し俺にはイラッとする高さだったのに…。背が高くて足が長いのって羨ましい…。片桐なら10センチ分けてくれてもいいんじゃないかと真剣に思う。恨めしい…違、羨ましい。

「ごめん、お待たせしました、わざわざホントごめん」

 二人の所まで約30メートル走って、膝に手をついて息を整えるふりをして頭を下げる。

「まだ時間前だし、謝んな。てか、俺がここ着いたらすでに片桐いたんだけど、なんで?」

「俺も行くって言った」

「あ、やっぱ言ってたんだ」

「ふ~ん…。二人きりでデートさせないつもりってこと?」

「あぁ。ていうか陸上部の俺が行くから、サッカー部のお前は必要ねぇけど?」

「あ?今なんつった?」

 ちょ、なんで二人が険悪なの?ピリピリムードが怖いんだけど?

「やめてやめて、おっきいのが喧嘩してるの怖いから!俺が申し訳なくなっちゃうから!」

 二人の間に割り込んでみたら、二人はやっと睨み合う視線を外した。

「二人とも来てくれてサンキューな。じゃあ、今日一日よろしくお願いします」

 ちょうど二人ともポケットに手を入れてたので、肘とわき腹の隙間にシュッと手刀を差し入れ、二人と腕を組んで駅構内へ引っ張っていった。

 切符売り場で腕は離したのに、電車内でもずっと二人に挟まれる立ち位置がキープされ続けた。

 身長差を考えると捕獲された宇宙人みたいでちょっと恥ずかしかった…。わざとか?



 目的の駅はここら辺で一番人が集まる繁華街で、電車を降りた時点での人の多さにビビッて足が竦む。

 二人共がそれを察したのか、また挟まれた。それでも人波に押されそうになり、二人の袖をギュッと握った。流石にさっきみたいに腕を組むのは恥ずいので…。

「掴んでる…?可愛いすぎでしょ」

「…ふぅ」

「何その切なげな溜息?もしかしてキュンとしてる?」

「うるせぇ」

「へぇ~」

 俺の頭上で交わされた二人の会話は、雑踏に掻き消され俺の耳には届かなかった。


 昼飯はゆっくり出来るファミレスへ。

「リカ氏大丈夫?人ごみ苦手だった?」

 二人が手分けして用意してくれた水とお手拭きを貰ってようやく一息ついた。

「ん~、街中とかあんまり行ったことなかったから、ここまで凄いとは思わなかった…。基本車移動だったし、親とかと出かけた記憶もあんまないから…。俺一人だったら流されて迷子になってたな」

 メニューを選びながらボソボソ答える。別に隠してるわけでもないし聞かれたら答えるけど、説明するのが面倒なぐらいにはいろいろあったりする。

「訳ありって感じ?」

「そだねぇ…」

「大野、今日の予算は?」

 片桐がいきなり話題を変えたのは、俺に気を使ってくれたのかもしれない。けど、実はその質問も地雷に引っかかりそうだったりする…。

「予算はないよ。ないってか無限」

「無限?」

 折角話題を変えてくれた片桐が今度は訝しそうに質問する番だった。

「うん。各電子マネーに限度額までチャージされてるから実質無限(笑)」

 自分でも自虐的な笑いが出てしまってる自覚はある。でも仕方ないじゃん。自虐が自虐を産んで、対応策も結局自虐的になる方法しか取られなかったんだから。

「それって使って大丈夫なやつ?」

「うん。今日のはとくに学生生活での必要経費だと思ってるから遠慮なく使う」

「リカちゃんも色々あるんだねぇ…。まぁ話したくなったら話してよ」

 その時の沢渡の笑顔は今まで見た中で一番優しかった。

 片桐は難しい顔で腕組みしたままずっと黙っていた。


 スポーツ用品店では片桐と沢渡と店員さんでサクサクとシューズやウエアを選んでくれた。

 俺は四角い椅子に座ったまま履かされる靴や合わされるウエアに感想を言うだけだった。

 なんか、至れり尽くせりで…申し訳ないようなこそばゆいような…

「練習着はここじゃなくても安いのでいいだろ。どうせすぐ汚れるし」

「ん~、じゃあこの後駅前のショッピングモールでも行く?」

「大野、どうだ?」

 二人の会話をキョロキョロと見守っていたのが急に話を振られてビックリした。

「おおぉおぉ俺はだいじょぶ!」

「ふは、何キョドってんの?」

 沢渡がケラケラ笑うのを見て、片桐がクスっと笑ったのを見逃さなかった!

 笑顔頂きました。ありがとうございます。


 重たいであろうシューズやら二人が手分けして持ってくれて(なにこのスパダリ二人)、ショッピングモールへ連行される。

 ここは姉ちゃんと来たことがあったから緊張もせず来ることができた!

「練習着って何買えばいいの?」

「Tシャツとパンツで良いんじゃない?」

「ユニ〇ロ?」

「か、GU?」

「下はハーフパンツな」

「なんで?ショーパンでも良くない?」

『ハーフパンツ!』

 急な二人のハモリに驚いた。仲良し?

「なんで?ちょっとでも布面積少ない方が涼しいじゃん」

「美脚見せつけないでもらってもいいかなぁ」

「なんだ美脚って」

 真面目な顔の沢渡に笑ってしまった。が、片桐も真面目な顔をしていた…。え?俺が間違ってる?


 三人でウダウダしゃべりながらのショッピングはすごく楽しくて、学校以外で楽しいと思える場所を見つけた気がした。後になって気付いたけど、「楽しい」と思えたのは「場所」じゃなくて「人」だった。

「そろそろ帰るかぁ」

 う~んと伸びをする沢渡の言葉に寂しさで胸がチクリと痛んだ。

「荷物どうする?大野だけじゃ持てるか不安…」

「俺が家まで運んであげるから大丈夫!」

「俺が行く」

「なんで邪魔ばっかすんの?」

「邪魔はお前だ」

「片桐は毎日好き好き言われて羨ましいんだからちょっとは譲れや」

「言葉と生身は違うだろ」

「なんなの?リカちゃんに返事もしてないくせに、すでに独占欲むき出し?」

「独占欲とか言うな、イメージ悪いだろ」

 スピード感のある言い合いに全く追いつけず、にらみ合う二人の視界に入るべく両手を振ってみる。

「もう!また!やめろよ、怖いから!圧がすごいんだよ!」

「悪い悪い」

 片桐に頭ポンポンされてしまった…。供給過多で俺の寿命は尽きてるかもしれない…。

「持って帰れるよ!って言ってもどうせ却下されるんだろ?じゃあ二人ともうち来てよ。宅配でご飯頼もう。今日のお礼させてよ」

「いきなり行って親は大丈夫なのか?」

「うん。ほぼ一人暮らしだから」

『え?』

 行きと同じく二人と腕を組んで引っ張って行く。行きのドキドキはないけど、なんだか仲が深まったような…雰囲気の変化がむずがゆくニヤニヤしてしまう。大好きな片桐だけじゃなくて、沢渡ともこのままの関係でずっと過ごせたらいいなぁと思った。



「入って入って~」

『お邪魔します』

 案外礼儀正しい二人に笑ってしまう。

「一人暮らしって言ったじゃん」

「マジで?」

「うん。親はこのすぐ上のぶち抜き最上階に住んでる」

 俺の住むマンションは地上6階建てでこのマンション自体父さんので、俺と姉ちゃんは5階に隣同士それぞれ一室与えられている。2LDKで一人で住むには大きい。姉ちゃんは趣味のグッズでパンパンになってるからうちの一部屋を狙われてたりする。俺自身はほとんどリビングで過ごしてるから貸してあげてもいいんだけど、プライバシーは守りたい気もするし姉ちゃんがうろうろ入って来るのもなぁとここ最近の一番の悩みかもしれない…。

「え?超金持ちじゃん」

「親がね。いろいろあってありがたく享受しております」

「その"いろいろ"を今日は聞かせてもらえるの?」

「別に隠してる訳じゃないからいいよ、話しても」


 ウー〇ーでピザとチキンとサラダと諸々注文して、届く間に片桐先生のシューズの合わせ方講座が開かれた。

 紐を調整する為に俺の前に跪く片桐に超ドキドキする。

 そういえば今日は「大好き」が言えてないことに気が付いた。いつもなら朝の挨拶と勢いで言えてたけど、こうして意識すると一気に恥ずかしくなって言えなくなる。

 でも言えてないことに気が付いてしまうと、気になって気になって仕方がない。

 どんどん顔が赤くなるのを感じる。

「あの…」

「ん?」

 片桐の視線がシューズから俺に移る。少し見上げる片桐の顔は優しく、それだけで胸がいっぱいになって泣きたくなる。

「あ…今日は…ありがと…」

「おう。改まってどした?」

 ふっと緩んだ眉に切なさが押し寄せる。やっぱり、俺…。

「好き…です。大好きです」

 片桐の目が驚きに見開かれて、そして顔が真っ赤になった。

 今までは華麗にスルーされてたのに、こんな耳まで真っ赤になった片桐は初めて見た。 

 何も返事はしてくれないけど、片桐の右手が俺の足首を掴んでそのままふくらはぎをするっと撫でた。

「よし、できた」

 何事もなかったように立ち上がった片桐を目で追う。片桐の大きな手が俺の髪をクシャっと撫でた。


 心臓が…爆発しそう…


「なぁにしてんのぉ~?」

 ムッとした沢渡が俺と片桐の顔を順番にのぞきこむ。

「俺がおうち探検してる間になにイチャイチャしてんだよぉ。俺もしよ~」

 言いながら沢渡はバックハグを仕掛けてきた。まただ。また片腕に収納される…。

「あれ?抱き心地が違う。少し筋肉ついた?」

「わかる?!朝晩走ってる効果が出てきたかなぁ」

『朝晩走ってる?!』

 お腹や脇をペタペタ触る沢渡の手を片桐が捕まえながらまたハモる。ホント仲良しだなぁ。

「何時ごろ?一人でか?」

「朝は6時で夜は10時ぐらい。まだまだ持久力ないから5,6キロぐらい」

「それぐらいの時間ならまぁ…」

「夜は9時に変更でルートは人通りのある道にしろ」

 過保護なお父さんみたいな片桐のセリフに笑ってしまった

「女の子じゃないんだから(笑)」

「いやぁ最近は男の子も危険だよ~。特にリカちゃんみたく可愛い系は気を付けないと」

「"リカちゃん"も"可愛い"も腹立つ!」

 しょーもないやり取りをしているうちにインターフォンがなって次々料理が届きだした。

 食べたい物食べて、どうでもいい話をして、盛り上げ上手の沢渡とツッコミが的確な片桐との漫才のような会話を聞きながら、生まれて初めて腹が捩れるぐらい笑った。顔の筋肉って攣りそうになるんだって事も知った。


「こんだけ食ってホントに割り勘しなくていいの?」

「うん。使ってあげるのが贖罪になるから。姉ちゃんにも言われた。親の罪滅ぼしだから破産するほど使ってやったらいいって。親の為にも負い目を解消させてあげないと」

「……何があったか聞いても?」

「何から話したらいいかな…」

 手持無沙汰で氷しか入っていないグラスを振って、カランと音がする氷を見つめる。




 物心ついたころ、俺の周りの大人は婆様と家政婦の幸子さんだけだった。父親は自分が代表を務める会社の為に外国を飛び回っていて、母親は元地方局のアナウンサーで華やかな世界から抜け出すことが出来ず出産後もフリーのママアナという名目で業界に身を置き続けていた。

 幼少期、俺と5歳上の姉ちゃんは父方の祖母の家に預けられていた。祖母は昔の考えが強く残っている人で、家の存続のため俺は跡取りとしての教育と躾を、姉ちゃんは良いお家柄の跡継ぎの嫁になるべく一昔前の花嫁修業を受けさせられていた。

 要領のいい姉ちゃんはうまい具合に家から抜け出したり、気の強さで反抗したりでほとんど被害には合っていなかったが、跡取りとなる俺は外へ遊びに行くことも許されず完全に婆様に縛られた生活を送っていた。

 婆様は0か100かの人で、何事も完璧に出来ないとそれは出来ていないのと同じ、テストでも100点でないなら99点でも0点と判断され、情けない出来損ないのダメ人間の烙印を押され、次に罰と折檻が待っていた。

 罰は1日蔵での軟禁と食事抜き。

 折檻は和裁用の竹製の物差しで背中や足を何度も打たれる。

  

 婆様と仲の悪かった母親は一度も会いに来ることはなかったし、父親は外国。たまに会いに来ても上辺しか見ず婆様の言葉だけを信じて満足そうに帰っていく。

 毎日の状況を把握してる家政婦も婆様の言いなりだったから、助けてくれる大人は一人もいなかった。

 唯一助けてくれたのは姉ちゃんで、閉じ込められた蔵に食べ物を投げ入れてくれたり、打たれてできた傷に薬を塗ってくれたりした。

 姉ちゃんも子供だったからできることは限られていたと思う。見つかったら今度は姉ちゃんが被害にあうから、小さかった俺たちは諦めて耐えることしかできなかった。

 結局、地獄のような毎日は婆様が倒れる中学1年まで続いた。

 そのころには俺の心は完全に折れてしまっていて、無気力で自己肯定感の低い何もない人間に成り下がっていた。

 

 (今でも小柄なのはこの頃の食事抜きと軟禁による栄養不足のせいだと思う。

 太陽の光と食事はとても大事!)



 婆様が倒れて真実を知った両親は俺たちに泣きながら謝っていた。

 けど、許すとか怒りをぶつけるとか、どうでもよく思うぐらい無気力になっていた。

 せっかく地獄から抜け出したのに起立性調節障害に罹ってしまい貧血と眩暈と吐き気に毎日襲われその苦痛もあって、自室に閉じこもるようになった。

 カウンセリングに通ったり薬物療法を受けてみたりしたけど、何も変わることは無かった。

 中学はほとんど不登校でテストだけ受けて成績を残した。

 無表情で何を考えているのかわからない息子はさぞかし気持ち悪かっただろうと思う。そんな息子がいきなり外部受験を言い出したから母親はパニックを起こしていた。「お受験頑張ったのに」「学歴大事なのに」と泣いていたが、そんな母親を父親は宥め、俺の希望を受け入れてくれた。

 高校合格と同時に一人暮らしすることを願い出た。今さら仲良し家族は無理があり負担になっているとハッキリ伝えた。

 負い目のある両親は相当不安があったようだが、下の階に住むという条件付きでOKが出た。ついでに姉ちゃんも乗っかってきて今お隣さんになっている。

 

 母親は根っからお花畑の住人で、自己愛が強く母親が幸せなら子供も幸せ♪と本気で思っている人だから、未だに苦手だ。

 父親はしっかり祖母からの虐待と受け止めてくれていて、現在は俺の心身の回復に全力で向き合ってくれていると思う。未だ負い目から抜け出せずにいるみたい。最近は父さんとは色々話すようになってきた。今の高校の弁当も実は父さんが作っていて、前に沢渡から"ママ弁"と言われたが本当は"パパ弁"だったりする。



 ここまでを何とかかんとか話し終え、グラスの中で溶けてしまった氷から生まれた水を飲みほした。

「だからうちは今の状況になってるんだよね」

 空のグラスにオレンジジュースを注いでくれながら、沢渡がぼそりと言った。

「なんか…すごいな…」

「ふふ、すごいでしょ。自己肯定感上げるためにもっと褒めてくれていいんだよ」

 片桐は俺の頭を撫でて優しく微笑んでくれた。その笑顔に鼻の奥がツンとして視界がぼやけてしまう。

 痛くて寂しくてお腹が空いて寒くて悲しかったあの頃に、こんな風に微笑んで頭を撫でてくれる人がいたらよかったのに…と思わずにいられない。

「お前がすぐ遠慮するのは肯定感の無さから来てんのかもな」

「たぶんね。俺なんかの為にって申し訳なくなる」

「頼ればいいから、なんでも」

「俺にもガンガン頼ってよね。頼って甘えてくれたら超嬉しい」

「あ、ずりぃ。俺にも甘えていいぞ」

 しょーもないことで張り合ってる二人が面白くて、二人が今一緒にいてくれることが嬉しくて、笑いながらも涙が止まらなくなってしまった。


 毎日をただ無意味に無気力に過ごしていた俺を変えたのは、高校1年の時に見た片桐の姿だった。

 何度も何度もバーに挑戦する姿は、全てを諦め乾ききっていた俺の心に1滴の雫を落とした。

 お前も諦めるなと勝手にエールを送られた気になって、あの日から徐々にだけど変わっていく自分に気が付いた。

 毎日を一生懸命生きること。何かに挑戦すること。人を好きになること。

 俺にだってまだまだできることがあった。



 昨日の夜はたくさん食べて走らずに寝てしまったので、今日は少し距離を伸ばそうと6時前に家を出た。

 昨日片桐におススメされて買ったウィンドブレーカーを着てマンションの階段を下りたらなんと、そこに片桐がいた。

 しかも同じウィンドブレーカーを着てる。絶妙にイロチ。切り替え部分が片桐が青で俺が水色。なにこのペアルッ…ゲホゲホ。

「何してんの?」

「おはよ。一緒に走ろうと思って待ってた」

 俺の顔は見ずに朝独特の少し枯れた声で答えた。

 そんな片桐に笑ってしまった。

「アハハ!過保護過ぎだってば!(笑)」

 笑いすぎて呼吸困難になってる俺に片桐はムッとした顔で言った。

「今日の挨拶は?」

「アハハハ!おはよ!大好き!」

 片桐は満足そうに左手のスマートウォッチの準備をし始めた。

「何キロ?」

「8?10行けたら行きたいかな」

「ん。スタートからゴールまで同じペースで」

 頷いてからアドバイスをくれた。

 俺もストレッチしながら会話を続ける。

「1キロ6分から6分30秒ぐらいで」

「遅すぎん?」

「10キロで大野の体力だとそれぐらいが妥当」

「うー…了解です、コーチ」

 俺もスマホのアプリを立ち上げる。

「じゃあ…行くぞ」

 朝の爽やかな空気の中、大好きな人と並んでスタートを切った。

  

「リカちゃんさぁ、この先はどうしようと思ってんの?」

 パックのオレンジジュースのストローをガジガジと噛みながら、沢渡悠貴が俺リカちゃんこと大野利佳をじっと見つめ聞いてきた。

 昼休み、食うのも終わって片付けもせずウダウダとくっちゃべってるいつもと同じ日常の風景。

「この先って?」

「お、ついに"リカちゃん"スルーだね」

「いくら言っても聞かねーじゃん」

「この先はもちろん片桐との『この先』だよ」

「それこそ『この先』の意味がわからん」

 キョトンと見つめる俺を沢渡もキョトンと見つめ返す。話の主・片桐伊織が委員会の用事でついさっき教室を出て行ったのをいい事に現在俺はよくわからない事を聞かれている。

 俺が走高跳の希望の星・片桐伊織を好きになったのが去年の夏休み。もうすぐ今年の夏休みが始まるので片思い歴も1年になる。毎日朝の挨拶と同時に「大好き」も伝えていて、クラス公認の立派な片思いだ。


「だからこの先もしかしたら片桐が洗脳されてリカちゃんの事好きになるかもしんないじゃん?その時はどうすんの?付き合うの?」

 沢渡の突拍子もない発言に驚きすぎて言葉も出ない。まぶたがん開きで沢渡を見つめる。

「わ、チワワみたいで可愛い♥」

「ありえないっしょ!?『どうする』の前提の『もし』がありえんわ」

「なんで?これだけ毎日「好き好き」言ってもらえたら俺だったら余裕で好きになるけど」

「お前じゃなくてあの片桐だぞ?硬派で真面目な常識人の片桐が男の俺を好きになるとか…はっ」

 あまりにありえなすぎて鼻で笑ってやった。

「えーでも最近の片桐だいぶ変わって来たと思うんだけどなぁ…特に1年時と比べたら…」

「基本優しいから俺の事も突き放さず面倒見てくれてるだけだろ」

「そうかなぁ…リカちゃんにだけ特に優しいと思うけどぉ…最近俺への威嚇も激しいし」

「てか男同士で付き合うとか無理じゃん…」

 いじいじとパンの空き袋を小さく畳みだす…

「無理って?」

「常識的に考えてさぁ…」

「常識?!」

 沢渡が大げさに声を張ったせいで昼休みの穏やかな教室に緊張した空気が張り詰めた。

「2年の初日にみんなの前で同性に思いっきり告ったやつが今更常識とか語んな!」

 沢渡の叫びにビクッと肩をすくめる。教室に残るクラスの奴らは男女問わずうんうんと頷いている。

「あ…あれは、勢いでっていうか、感極まったっていうか…」

「それ以後毎日告るのも常識的ではないと思うけど」

 いちいち沢渡の指摘はグサグサと心に刺さる…

 完全に落ち込んでしまった俺に沢渡がため息をつく。

「まぁ今のところ片桐からの返事は貰えてないみたいだし、お前がそのままでいいなら俺がとやかく言うことはないんだろうけど…お年頃の男女が集まる今の状況はいつどこから爆弾が飛んできてもおかしくないって事だけは覚えとけよ。もしかしたら俺が爆弾になるかもしれないしな」

 いつものお調子者の沢渡とは違う顔でニヤリと笑った。最後の言葉は俺の背後を見て言った気がした。

「爆弾て物騒だなぁ…、てか片桐遅くね?そろそろ予鈴鳴りそうだけど」

「帰って来てるけど?」

 後ろから突然声を掛けられて心臓が口から飛び出そうなほど驚いた。振り返ったすぐそばにイケメンの顔があって今度はそれにドキドキする。

「びっ…くりしたぁ…気配消すのやめてよ…てか、なんか怒ってる?」

 いつもの無表情の中でもわかるようになってきた不機嫌さをあからさまにしてる片桐は、じっと俺の顔を見つめている。

「お前…」

「ん?」

 片桐が何かを言おうとしたとき、ちょうど予鈴のチャイムが鳴り始めた。

 片桐は一つ溜息をついて

「部活終わってから少し話がある」

 真剣な顔でそれだけ言って自分の席に戻った。

「お、おう」

 そんな俺たちを沢渡がじっと見てることにこの時の俺は全く気付かなかった。

 

 数時間後、俺は沢渡の言った爆弾の意味を理解することになる。爆弾のせいでこの日、片桐の話を聞くことはできなかった。



「陸上部集合~」

 顧問の前田先生(前先)の呼びかけに、各々柔軟やら走り込みやらダベっているやらしていた部員たちがわらわらと集合する。

 部長の西崎の号令で整列する。

 前先の横にはそれはそれは小さな可愛らしい女子生徒がもじもじと立っていた。

「紹介するぞ~、新しくマネージャーになってくれた1年の川原さんだ。あんまり迷惑かけすぎないようになぁ」

 今までマネージャーは2年の麻生さん一人だったみたいで、俺も一年生の新入部員たちと共にいろいろお世話になっていた。毎日忙しそうだったから少しでも楽になったらいいけどなぁと麻生さんの方をチラッと見たら、なんだか憮然とした表情をしている。愛想がいい方ではないけど、真面目で誰にでも平等に接してくれる頼れる姉御タイプの女の子で、俺や1年でも接しやすいし片桐なんかも普通に話しかけている。そんな彼女の今の表情は、嫌な予感をさせるには十分だった。

「えっとぉ、1年の川原夢香です!クラスでは夢ちゃんと呼ばれてるのでぇ、ここでも夢ちゃんって呼んでください!えとえと、片桐センパイにあこがれてます!でもでもみなさんのお世話もぉちゃんとしてあげるので、安心してくださぁい。よろしくお願いしまぁす!」

 効果音をつけるなら『きゅるるん♡』って感じの川原氏。

 男子部員の反応は「可愛い♥」が4割「(うわぁ…)」が3割「(どうでもいいからはよ練習させろ)」が3割といった感じだった。もちろん片桐と俺は3番目。さっきせっかく身体が温まってきてたのに…あのきゅるるんなスローテンポの演説は申し訳ないが正直時間の無駄としか…

 女子部員の反応は麻生女史と同じような何とも冷ややかな目で見ている感じだった。

 片桐に憧れてるって部分は、そんな新入部員が多すぎて(俺もそうだし)、今更気にするようなことでもないし、当人である片桐も何も感じてないと思われる。その証拠に

「大野、柔軟やり直すぞ」

 と、声をかけてさっさと先に行ってしまった。俺も慌てて追いかける。



 開脚した片桐の背中を体重をかけてグイグイ押す。ほぼべったり上体が地面についている。痛がりもしないのが面白くない。この柔軟さがあの美しい背面跳びを作り出しているのだろう。

 と、筋肉質な背中にドキドキしてしまう…

 交代して俺の番…。

「いだだだだだっ!ちょっ、片桐!もちょっと、優しく!」

「骨盤しっかり立てて、膝曲がってるぞー」

「ヒィィィィ!鬼!」

 ひとしきりのストレッチが終わる頃には、身体中痛いわ顔は真っ赤だわ変な汗は出てるわでボロボロに…。

 最初のころは片桐とのスキンシップにドッキドキ♥とか思ってたのに、今では地獄の時間に成り果ててしまった。本当に鬼なんじゃないかと思う。でもこの後走ると伸びが全然違って来るんだよねぇ。

「おつかれ」

 片桐が優しく(?)頭に濡れたタオルを乗せてくれる。いつの間に取りに行ったのか…、こーゆー所だよホントに。ドキドキ止まらねぇ。

「片桐センパーイ!お疲れ様ですぅ♥」

 さっきまでは男子部員たちにチヤホヤされていた川原マネージャーが、こっちの様子を見つつ近づいてきた。

 俺は甲高い声の女性が苦手で、出来ればお近づきになりたくない。川原氏の目的は片桐なので、外野の位置に移動。見守るスタンスから何とかこの場を離れようと計算する。が、予想外の展開が!

 なんと!片桐、川原氏を無視した!!

 チラリとも見ない!何なら俺を見てる?!

 しかし川原さんも負けなかった!

「初めまして!夢香です♥センパイは特別にユメって呼び捨てで呼んでもいいですよ♥」

 キュルルン攻撃だ!

 しかし片桐これも無視!!サッサとその場を後にして行ってしまった!

 なにこれ。

 現場には何故か俺と川原マネージャー。

 その時の空気の冷たさは過去イチだったと思う。


 流石硬派な片桐クン!そんな姿もカッコイイ!

 なぁんて言ってる場合ではなく、沢渡が言っていた爆弾の恐ろしさをこれから体験することになる。


「片桐~、ちょっと!」

 前先の呼びかけに、帰ろうとしてバッグを抱えた俺と自転車を押す片桐が立ち止まった。

 昼に片桐が言っていた「話」をするため、コンビニでなんか買って(腹減った)公園にでも行こうかと話していた時だった。

「片桐お前方向一緒だから川原さん駅まで送ってやれ」

「は?俺今から用事あるんですけど」

「お前今大野とコンビニ行くって聞こえてたぞ。その用事がそんな大事か」

 前先のツッコミが的確過ぎて泣ける。ですよねぇ。俺なんか川原マネより優先順位下ですよねぇ。くそ。

 片桐も憮然とした表情でいる。前先からの指令じゃ断るわけにもいかないしねぇ。

 片桐は申し訳なさそうに俺の方をチラっとみた。俺は気にすんなの意味を込めてニコッと笑っておく。

 仕方ないね…話は明日の帰りにでもできるかぁと思っていたが、それはとても甘い考えだった事を後で思い知ることになる。



「あぁ~、知ってるわそいつ」

 すっごく嫌そうな沢渡の顔に思わず笑ってしまった。

「イケメン台無し(笑)てか、なんでうちの新マネの事沢渡が知ってんの?」

「先週サッカー部のマネしてたもん」

「は?」

「その前は軟式テニスだったっけ?」

「えぇ?!」

「前の前はどこだっけ?男子バスケだったかな?」

「何それ…なんで?マネージャーの体験入部?」

 川原マネの放浪っぷりに唖然としてしまう。

「好みの男求めて渡り歩いてるみたい」

「マジか…。一応陸上部には1週間以上いるけど…」

「どうも片桐に狙いを定めたらしい。どうするリカちゃん?」

 沢渡のいたずらっぽい笑みが腹立つ。けど、思い当たる節はしばしば…。

 川原マネの片桐贔屓は本当に凄くて、飲み物もタオルも記録も片桐が最優先で後は勝手にどうぞ状態。

 そしてやっぱりというか、俺の事を敵対視している…。いや、敵対視というか蔑まれている…。

 片桐はいつもと変わらず無視まではしないけど、そこにいるのか見えてるのかわからないような対応。タオルや飲み物は必要に応じて受け取るし、記録は勝手にさせている状態。てか、記録係は『跳』より『走』の方が必要じゃないか?!と、走のメンバーのイライラが溜まってきている。

 が、俺にとっての一番の問題は…初日以降駅までの送りを片桐がずーーーーっとしている事だ!それまでは帰りは俺のマンションまで片桐が一緒に歩いてくれてたのに!そこから自転車に乗って帰っていく片桐の後姿を見送るのが楽しみだったのに!!

 まさかあれ以降ずっと片桐を取られるとは思ってなかった。

 ちょうど選手権の地方予選が近くて、朝のジョギングも学校での朝練に乗っ取られていて二人きりで過ごす時間が全くと言っていいほど無くなった。

 俺より川原マネの方が片桐と一緒にいる時間は長いかもしれない…。

 片桐からの「話」も聞けないまま、今の状態は俺のメンタルもヘショヘショになってしまっている…。


 


 学校にあるスロープを使っての坂道ダッシュを繰り返す練習は、太ももが攣りそうになるぐらいキツくてインターバルの間は太もものマッサージは欠かせない。

 スロープに座って太ももを叩いていた時、

「せーんぱーい。大野せんぱーい、今いいですかぁ♥」

 珍しく川原マネが俺に近づいてきた。身体が触れそうなほどの距離にいる川原マネからは香水みたいな匂いがして、過去のトラウマでその匂いが苦手な俺は汗を拭くふりでシャツの裾を鼻にあてた。

「何?俺になんか用?」

「えー…これ言ったら大野センパイ傷ついちゃうかもなんですけどぉ…」

「?」

 粘っこい甘えた喋り方は男受けするからやってるのか、それとも常にこんな喋り方しかできないのか、俺は苦手だなぁと思いつつ聞いている。

「片桐センパイに付きまとうの辞めてもらっていいですかぁ。好き好き言うのも。片桐センパイ迷惑だって言ってましたよぉ。今私といい感じで進展してるのでぇ、片桐センパイの為にも邪魔しないでもらえません?」

 何を言われたのか理解できずにいると、川原が内緒話をするように口元に手を当て俺の耳に近づいた。

「男なのに男が好きとかキモいから」

 それだけ言うとにっこり笑って立ち去って言った。呆然とその可愛らしい背中を見送る。


 ……………えー…と、……なんていわれた?

 キモいって?

 やっぱりそうか……そりゃぁ、そうだよね……。

 片桐優しいから……俺に直接は言えなかったのかな……

 こないだの「話」って、この事だったのかな……

 流石に両想いになれるなんて思ってなかったけど、受け止めてはくれてると思って…

 そか…俺はただ俺の気持ちを一方的に押し付けてただけなんだ…

 片桐が迷惑だったなんて…せめて態度に出してくれてたら…

 違う…それは逆切れ思考だ…

 川原と一緒に帰るようになって2週間以上経ってるし、「いい感じ」なのも頷ける…。

 そりゃ「女の子」の方が良いよな。小さくて柔らかくていい匂い(俺は苦手だけど)だし、俺は…

 スンスンと嗅いだシャツはそりゃもう汗臭くて…片桐のシャツとかいい匂いなのに…


 鼻の奥がツンとして、視界がゆるゆると滲んでくる。なんとか堪えないと…。緩む視界に片桐がいる。

 腰に手を当てて、川原マネの記録ノートを覗き込んでいる。二人が並んだ姿はお似合いだと言わざるを得ない。小さい彼女はすっぽりと腕の中に入ってしまうだろう。片桐の…腕の中に……。


 その日は俺の脳内で今までの行いについての反省会が開かれ、朝まで寝ることができなかった。

 地区予選が近いのに、俺のコンディションはボロボロになってしまった。

 そして…いつもの朝の挨拶が出来なくなった。


「お…はよ…」

 それだけ絞り出した。申し訳なさ過ぎて片桐の顔を見るのもしんどい。


 男の俺が、こんな俺なんかが、好きになってごめんなさい。


「あれ?リカちゃんどしたぁ?」

 朝練が終わり教室で担任の前先が来るのを待つ間、俺は机に突っ伏して寝てるふりを決め込んだ。

 片桐の顔を見れないからなのだが、いつもはニコニコと後ろの片桐に話しかけてるのに、こんな状態じゃ周りが気にするのも当たり前だと思う。

 やっぱりというか、声をかけてきたのは沢渡だった。

「体調悪い?風邪ひいた?だいじょぶ?」

 矢継ぎ早の質問に俺はゆっくり顔を上げた。腫れた目を隠すため前髪を下ろし気味にしている。そんな頑張って下ろした前髪を上げて額に手が置かれた。

「熱はないみたいだけど」

 てっきり沢渡だと思った手の主は、なんと片桐だった!優しい声と共に覗き込まれた片桐の瞳と合ってしまった俺の目はみるみるうちに潤んでしまう。

「だ、大丈夫!ちょっとトイレ行って来る!腹が痛いかも!」

 慌てて立ち上がって、沢渡と片桐の間をすり抜け、トイレへと駆け込んだ。

 

「うっ…うぇ…ひっく…」

 涙が止まらない。なんで優しく声なんかかけるのか、なんで心配したような瞳で俺を見るのか…

 迷惑なんじゃないの?出会ったばっかりの川原に愚痴るほど、俺の事が迷惑なんでしょ?

 なんで…

「うー…つらいよう…」

 今まで人を好きになったことなんて無かったから、人を好きになるのも初めてだと失恋ももちろん初めてで…こんなにつらいモノだとは思ってなかった。片思いのままでいた方が幸せだったかもしれない…心臓が引き裂かれるような痛みがする。

 

 ただ、毎日好きだと言えたのも幸せだったし、苦笑いしながらも優しくしてくれた片桐と一緒に過ごす時間も幸せだった。

 好きの気持ちを消すことなんてできない…これから…どうやって毎日を過ごせばいいのか…

 片桐に…どう接すればいいのか…気持ちの整理の仕方がわからない…



「なんかあった?」

 走って行った利佳を見送って、沢渡が聞いた。

 同じように利佳の背中を目で追っていた片桐は追いかけるべきか悩んでいた。

「わからん。今日は告ってもこなかったし」

「は?マジで?それは何かあったに決まってるじゃん」

「そういえば昨日から様子がおかしかった気もする…ここんとこずっと、川原を駅まで送んないといけねぇから大野と話する時間が取れねぇんだよ」

「はぁ?なんでお前が送んなきゃなんだよ」

「前先の指令」

「断れよ!お前やばい状況だぞそれ」

「?」

「ロックオンされてるの気付かねぇの?あの女、やりやがったかも」

「何を?」

「利佳になんか言ったんだろ。利佳の態度が急に変わるなんてありえねぇ。あいつは本気でお前が好きだったんだから」

「………。」

「言っただろ爆弾に気をつけろって。お前がはっきりしねぇからこーなるんだろ」

「話しようと思ったけど、タイミングが…」

「はっ!タイミングは作れよ自力で!あー、でもこれチャンスかも~♪」

 片桐を睨んでいた沢渡がニヤリと笑った。

「まあまあ、恋愛慣れしてない鈍感な片桐君はこのままご退場いただこうかな♪」

「何?」

「そのまま流されて川原と付き合っちゃえば(笑)」

「はぁ?あんなケバくて臭いのと付き合うわけねぇだろ」

「ひど!女子に向かってひど!」

「俺あのニオイ嫌いなんだよ。不自然な作り物のニオイ」

「だったらサッサとハッキリしろよ。利佳泣かしてんじゃねぇぞ」

「泣いてたのか?!」

 片桐の胸倉をつかんで沢渡は顔を近づけた。

「お前がグズグズしてるなら俺が爆弾になってやるよ」

 自信に溢れる沢渡の表情は片桐にとって焦燥感を駆り立てるものだった。



 何とか涙を引っ込めて教室に戻る。前髪もしっかり下ろして。

「大野前髪長いな。次の検査までに切れよ」

 前先の言葉に「へへっ」としか返せない。かき上げたら大丈夫です!って言いたいのに…。言葉を発すると一緒に涙も出そうだから。何もしゃべれない。

 片桐を見ないように席に座る。

 出欠を取り終え教室を出る前先を片桐が追いかけた。廊下で何やら話しているが、内容は聞こえない。

 まぁなんでもいいや…。俺はまた机に突っ伏した。

「リカちゃん、何かあったら話聞くから。何でも愚痴っていいからね」

 沢渡の声と頭を撫でる手がすごく優しくて、今はその感触にも泣きそうになる。

「教室うるさいからどっか行く?泣きたかったら俺の胸を貸してあげよう」

「1時間目始まる…」

「サボっちゃおうぜ」

 明るく言う片桐を前髪の隙間から腫れた目で見上げた。泣いたのバレてるんだ…。俺の事よく見てるな…。

「行くぞ」

 沢渡に手を引かれ立ち上がる。

「リカちゃん体調悪いから保健室連れていくって先生に言っといて~」

 誰とはなしに言う沢渡に、何人かの「おっけ~」や「了解~」の声が聞こえた。教室を横切る時「大丈夫?」という言葉もあり、その優しさにまた泣きたくなる。だめだ俺…。

 廊下に出たら片桐はおらず前先の後姿だけが見えた。上手く行き違いになったみたいで助かった。

 沢渡はさっき教室で言った通り保健室に向かった。

「今の時間、会議で保健室の先生いないはずだから」

 本当にいなかった。てか、そんな事まで把握してる沢渡に驚く。

「こっちこっち」と俺をベッドに誘導して、自分は椅子をベッドのすぐそばに置いてそこに座った。

 俺を寝かせて布団を首元までかけて、布団の上からトントンとあやすように叩く。

「何があったか聞いてもいい?」

 優しい声色にすぐまた涙が零れた。すすり泣くだけで言葉が出ない…。始業のチャイムが聞こえたけど、沢渡が立ち上がる気配はなかった。


「片…桐が…、俺のこと…め…迷惑…って」

 布団で顔を隠してしばらくグズグズと泣いて、待ってくれてる沢渡に申し訳ない気もしたし、俺自身も自分の胸の内だけに仕舞っておける状態じゃないことを感じていたから、何とか声を絞り出した。

「片桐が言ったの?」

 ブンブンと首を振ると目に溜まった涙がたくさん零れた。

「マネー…ジャー…の…子…。最…近、片桐…と、一緒に…帰ってて…。やっぱ…可愛い女の子…の方が…いいに決まってるし…」

「リカちゃんの方が可愛いよ。あれメイクでだいぶ誤魔化してるし」

「?メイク?してなく…見える…」

「そーゆーメイクなの。騙されちゃダメだよ」

「そう…なんだ…。けど…女の子は、女の子だし…。男の…俺なんか、より…そっち、選ぶの、が、普通、って、言うか…、俺は…女が、苦手、だから…けど、片桐は…きっと、普通、に、女の子が、好き…だろうから…、俺、なんか、より……。うえぇ…」

 涙が止まらなくて呼吸困難になりながらたどたどしく説明するのを、沢渡は根気よく聞いてくれた

「はいはい、泣きたかったら泣いたらいいよ。我慢したら余計止まらなくなるよ」

 沢渡が俺の頭を抱きしめてくれた。

「うあぁぁぁ……」

 ひとしきり泣いて、泣きながら川原に言われた事を説明して、沢渡は俺の背中を撫でながら「うん、うん」と聞いてくれて……。本当に少し落ち着いた気がした。

 片桐への気持ちが無くなった訳じゃないけど、少し整理された気がする。


 泣いてる間抱きしめてくれた沢渡の学ランの胸元は俺の涙で染みになってしまった。たぶん、鼻水もついてる…。

「ごめん、めっちゃ汚した…クリーニング代出すよ」

「いいよいいよ、リカちゃんが落ち着いたなら。それに明日から学ラン脱ごうと思ってたから。」

「そういうわけには…鼻水もついてるし」

「じゃあさ、お願い1個聞いてくれない?」

「お願い?俺にできることなら何でも…」

 沢渡のニコニコした笑顔に一瞬ビビったが、こんなに世話になってしまったから仕方ない。どうか無理難題ではありませんように……。

「利佳って呼んでい?」

「へ?」

「ついでに俺の事も悠貴って呼んで欲しい」

「へ?」

「やっぱダメ?」

 叱られた犬みたいな沢渡が可愛く見えた。

「いや、そんな事でいいなら全然…」

「いいの?!」

 ブンブン振ってるしっぽが見える気がする。

 根っから優しい沢渡の存在のおかげで、だいぶ気持ちが落ち着いた。

「これからもよろしくね、悠貴」

「こちらこそ!大好きだよ利佳!」

 大好きの言葉にズキンと胸が痛んだ。こんな風に自然と言えてたのに…。

 整理はできたけど、傷が治ったわけじゃないから。

「あー…しばらくは片桐の顔見れねぇよー…」

 ふざけ気味に頭を抱えるふりをした。軽い悩みだという様に。

「席が前後だしねぇ。避けようがないよねぇ。……。そだ!今日のロングホームルームで席替え提案してみる?」

「その手があったか!今より離れられたらどこでもいいわ」

「利佳は今日はもうここで帰っちゃえば?保健の先生には説明しといてあげるよ、酷い腹痛って事で」

「いいのかな…」

「いいって、今教室戻ったら本当にお腹痛くなっちゃうよ。後ろからの視線で」

 片桐の鋭い眼光を思い出して身震いする。

「じゃあ、さわ、違う、悠貴の言うこと聞いとく」

 よくできました。というようにニッコリ笑って俺の頭をポンポンして立ち上がった。

「そうと決まれば動き出しますか。後は俺に任せて。先生呼んで来るからめっちゃお腹痛がっといて。利佳の荷物取って来る」

 いたずらな笑みを見せる沢渡はなんだかかっこよく見えた。

 ひらひらと手を振って保健室のドアからでようとする

「悠貴!」

「ん?」

「あの…、色々とありがと」

 身体は廊下に出ちゃってて顔だけこっちに覗かせている沢渡の顔が自然に綻んだ。

「利佳のためなら♡」



 失恋で早退とか…。自嘲気味な笑いが出る。

 なんとなく本当にお腹が痛くなってきた気がして、ベッドでうだうだしている。

 沢渡のおかげ(?)で俺の中の涙は枯れ果てたのか、これ以上出てくる事はなかった。

 学校からの連絡で父さんから電話があって、迎えに来るというのをなんとか阻止して歩いて帰ってきたけど、無意識に頭に思い浮かぶのは片桐の事で。

 迷惑も顧みず自分の気持ちを押しつけてしまったことを心から謝りたかった。

 けど、迷惑かけたことを謝りたいだけで、好きになった事は否定したくないしされたくもない。

 他人から見たらキモいかもしれない。けど、好きになってしまったら性別とか関係なくないか?

 片桐が跳ぶ姿に一瞬で堕ちた。片桐の顔が違っても好きだったと思う。

 まぁ今の顔だからもっと好きになった事は否定できない。だってかっこいいんだもん。仕方ないじゃん。


 反省したり開き直ったりしてる時、玄関からガチャンと音がした。

 無言で入って来るのは父か姉しかいない。案の定、寝室のドアが開いて姉の雅恵(かえ)が入ってきた。

「早退したって?最近調子よかったのに…」

 姉ちゃんは弟である俺からみても美人の枠に入ると思うのに、色々と残念なところがあって未だ彼氏を作った事がない。

「熱はない感じ?」

 俺の額にあてた姉ちゃんの爪は推し色である青を基調にデコられている。

「ほぼサボりだよ」

「何かあった?」

 過去の苦難を一緒に乗り越えた姉ちゃんは家族の中で一番大事で一番頼りにしてる人で、隠し事はほとんどしたことはなかった。片桐のことも話してあった。一方的な片思いだってことも。

 それを話した時に「リアルはやっぱすんなり上手くはいかないか…」っていう言葉は気になったが、偏見なく受け入れてくれた。

「失恋した」

「は?ホントに?片桐君に?」

「うん。迷惑だって」

「はあ?!今さら?!」

 やっぱりまだ視界が潤んでくる。枯れてなかったのか…。けどこれじゃ脱水症状になりそうだなぁとぼんやり考えてたら、姉ちゃんがヒートアップしていた。

「毎日の告白、受け入れてくれてたんでしょ?!今さらなんなの、迷惑って言ったの?!」

「最近片桐と仲のいいマネージャーから聞いた。あとその子とイイ感じらしい」

「なんだそいつ?!マネージャーなら女?なんなの?何言ってんの?なんて言われた?」

 ヒートアップしすぎて俺の胸倉を掴む勢いだ。

「片桐が迷惑してるからつきまとうなって。あと男が好きとかキモいって」

「はあ?!BLの尊さを解ってないど素人が!あたしの可愛い利佳になんて事を…!」

「姉ちゃん?」

 吐き捨てるように放送事故レベルの暴言を吐き続けている…。もったいないなぁ、黙ってれば美人なのに。

「あんたねぇ!あたしを「美人」って言うのは自画自賛してるのと同じだからね!あたしたちそっくりなんだから!」

 どうやら「黙ってれば~(以下略)」は声に出てたらしい…。よくわからん主張で怒られる羽目になってしまった…。似てないと思うんだけどなぁ…。


「とりあえず!片桐君が直接言った訳じゃないのね?」

「うん。片桐は優しいから直接傷つけるような事は言わないよ。今まで我慢してくれてたんだと思う」

「だ~か~ら~!」

 イライラしながら長いウェーブの髪をガシガシかき上げる

「その発言自体、その女の嘘かもしれないってこと!」

「?」

「片桐君が人の悪口を…、特に利佳の事をそんな女に気安く言うと思う?!」

 姉ちゃんの言葉がなかなか頭に入ってこない…。

「あんたの愚痴を言うなら沢渡君でしょ」

「そうかもしれない…。てかなんで姉ちゃんが二人のこと詳しく知ってんだよ!」

 姉ちゃんは「ヤバい!」って顔になりゆっくりと俺から遠ざかって行こうとした。

「姉ちゃん!」

 逃がすまいと手首を掴む。

「ねぇ、なんで?」

 姉ちゃんは諦めたのか、俺のベッドに腰掛けていじいじと髪を触りだした。

「うー…、こないだ二人がここにきたでしょ?買い物一緒に行ったとかで…」

「うん」

「その時に帰り際の二人をうちに拉致って1時間ほど話した」

「はあ?!なんでそんな事すんの?!」

「利佳が心配だったから!家に呼ぶほどの友達なんて初めてじゃん!だからもし悪い奴だったらって、あんたがまた傷付くような事がないようにって……」

 涙目で真剣に俺を見つめる姉ちゃんに、心配かけすぎな弟として申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

「過保護すぎでしょ」

「だって、あんたを守れるのはあたしだけだもん……」

 優しすぎる姉の存在にいつも助けられてるなぁと思う。

「で?その結果二人は姉ちゃんの審査に通ったわけ?」

「うん。二人ともいい奴だと思う。沢渡君の方はまだまだ裏がありそうだけど、利佳に危害を加えるとかの心配はないかな」

「うん。今日凄い世話になった。あ、沢渡とは名前で呼び合うようになったんだよ」

「え?!片桐君を差し置いて?!」

「あ、そういえばそうだな」

「ほほぅ、これは荒れるかもねぇ」

 急に姉ちゃんがニヤニヤしだして気持ち悪い。けど、姉ちゃんのおかげ(?)で段々気持の整理ができてきた。

 川原の言うことが嘘だったとしても、俺の行動が片桐に迷惑をかけてたのは事実で、「好き」だからって何をしても良いわけない。

 今までずっとあからさまに拒否されないのをいいことに毎日一方的に気持ちを押しつけてた。

 片桐は優しいから俺が傷付くような態度はとらなかったけど、逆に進展することもなかったのが現実で、その関係性が俺にとっては居心地が良かったからずっと続けてきた。


 今回、川原が間に入ってきたことで俺の中にある嫉妬心に気付いたし、俺の気持ちの異常性にも気付いた。男が男を好きになるなんて「普通」では受け入れてはもらえないものなんだということを改めて自覚させられた。


 俺の気持ちは「片桐が好き。だから毎日好きと言いたい」、実はここで完結している。

 両想いになりたいとか、付き合いたいとかは思っていなくて…。

 前に沢渡に聞かれたことがある

「片桐とキスしたいとかそれ以上のこと考えてる?」

 これに俺は

「ありえない。想像もつかない」

 と答えている。

 片桐が俺なんかとキスするはずない。

 という確固とした考えがあったから。

 だから毎日好きと言っても流してくれる関係が、俺には一番良かったのかもしれない。


 姉ちゃんと二人でつらつらと想いを並べて組み合わせてパズルのように組み立てる作業で、もう涙が出る事はなかった。

「とりあえず、片桐に謝りたい」

「そっか…。で?これからはどうするの?」

「今までみたいに…今度は友達として一緒にいたい。だから片桐への恋愛感情は無くす」

「それでいいの?」

「うん。それでも傍にいたいから…」

「よし、ちょっと待ってて。あんたみたいな一途で一生懸命な子たちの漫画貸してあげる!」

「は?いきなり何事?」

 一陣の風のように消え去った姉ちゃんは、5分後、10冊ほどの漫画を抱えて戻ってきた。

「なにこれ?」

「BL。女が苦手なあんたに丁度いいかも。フフフ、お前を腐男子に育ててやろう、ケケケケ」

 気持ち悪い笑い声と共に姉は去っていった。うちの姉ちゃんはやっぱり変だ。


 せっかく落とし処に落ち着いた考えがこれ以上迷走しないように、考える隙を与えないようにするには他のことに集中するのが良い。

 姉ちゃんが置いていった本をパラパラめくってみる。

「ビーエルとかフダンシとか言ってたな…。……。なんだこれ?!」



 結局深夜1時まで集中して読み耽ってしまい、電気が点いたままなのに気付いた姉ちゃんに怒られた。

 

  

 チリン!


 沢渡からのラインの通知音に俺は、姉に押し付けられた漫画の世界にどっぷりハマっていたところをいきなり現実に引き戻された。

 スマホに表示された時間は20時すぎ。

『席替え成功!利佳の席は廊下側の後ろから2番目だよ~。ちなみにお隣さんはなんと、俺!しばらくよろしくね♥あ、片桐は廊下から3列目の前から3番目だよ』


 沢渡からの報告に一安心した。教室は全部で6×5の配列だから、片桐の視界に入ることは無さそう…。

 後ろから視線を感じるのは正直ツライものがある…。後ろから見つめる方が良い。見つめたい。



 違う違う。

 諦めたんだろ!片桐は友達。片桐は友達。片桐は友達。片桐は…。呪文のようにブツブツと声に出して呟く。

 明日は普通に…普通の友達として自然な対応をするんだ。

 片桐は…友達だから…




 食欲はやっぱりあんまり無くて、姉ちゃんがおススメだと置いていった温めるだけのうどんを啜っていると、チリンっとまたラインの通知音が鳴った。

 またどうせ沢渡だろうと置いてあるスマホをチラッと見たら、通知画面には「♥片桐♥伊織♥」の文字が見えた。

 心臓が跳ね上がる!

 ダメだダメだと心臓を撫でて落ち着かせ、「♥も消さないとなぁ」と思いながらメッセージを確認した。

『体調はどうだ?』

 それだけなのに、心配してくれてるのが嬉しくてまた泣きそうになる。

『もう大丈夫!心配してくれた?』

 ガッツポーズのスタンプと一緒に返事を送る。すぐに既読になった。返事を待っててくれたのかな…

『当たり前だろ』

 心配してくれた事実が嬉しくて、当たり前だと言ってくれたのが嬉しくて、これは泣いても仕方ないんじゃない?だって俺の心はまだ傷だらけだもん。

『ありがとう!明日はちゃんと学校いくから!』

『おう、待ってる』

 絵文字も何もない文字だけのメッセージだけど、短い文字すら嬉しくて、愛おしくて…

「やっぱり好きだぁ……」

 顔を覆って天を仰ぐ。

 どうかこの想いがなくなりますように。片桐の負担になるようなことがありませんように。


 姉ちゃんに読まされた本の影響じゃないけど…明日目が覚めたら異世界だったらいいなぁ…と思ってしまった。スパダリ騎士に溺愛される王子様の話は羨ましかったなぁ…。DK物は現実味がありすぎて切なくなった。みんな自分の想いに振り回されて大変だ…。オメガバースとかもあったな、俺は平凡なベータだろうな…。

 いかん!姉ちゃんの思惑通りになってないか?!

 てか、男同士でもあんなに身体ででも愛し合えるんだって事を知った。リアルに考えたらあんなのがお尻にとか無理だろうとも思うけど…。凄く下半身にクるキスシーンとかあってドキドキした。キスってあんなに噛みつくみたいななの?!片桐に当てはめちゃいけないと思いつつ、反応する下半身が可哀そうになる。


 でも、実は過去のトラウマのせいで俺は射精できない体質になっている。勃つのは勃つけどいくらこすってもイケない。凄く苛立たしい状況になるので、いつもは勃っても放っておく。そのうちおさまるから。

 誰しもが迎えるはずの精通。要は初めての射精をまだ経験したことがない。これは姉ちゃんだけが知っている一番の秘密かもしれない。


 過去の事件というのは、俺自身がまだ性に関心もない10歳のころ、俺を育てていた婆さんに計画された性的虐待の事だ。

 江戸時代から続くらしい大野家を繁栄させるため、元華族様やら元爵位持ちのお家柄のお嬢様との婚姻を狙っていたらしく、ちょうどいいお相手が当時30手前だったためとりあえず先に俺の種を仕込ませて未婚で生んでもらい俺が16歳になったら結婚させる計画を相手方と話し合い、無理矢理実行しようとしていた。

 婆さんの最側近だった家政婦の幸子は当時40代ぐらいだったと思う。

 その女の手で無理矢理精通を強制された。

 赤い唇とむせかえるような香水のニオイは未だにトラウマとして残っている。

 何度目かの行為の時の俺の泣き叫ぶ声に気付いた姉ちゃんに助けられたことで精通は未遂に終わった。

 結局それが発端となり、家政婦は性的暴行で有罪判決になった。過去にも似たような罪状での前科があったらしく、数年の懲役刑に処された。

 命じたはずの婆さんは白を切り通し、側近だったはずの女を簡単に見捨てた。

 

 そんな過去があるせいで、異性との交際やましてやそれ以上の事には興味も関心も持つどころか嫌悪感さえある。が、思春期の身体の成長は当たり前に訪れた。生理現象の一つとして朝勃ちもあるし今回のように漫画やなんかに反応することはあった。


 今までは片桐とそんな想像はしたこともなかったけど、漫画を読んでリアルに男同士でも可能なのだと分かった途端、妄想がどんどん膨らんでしまった。

 片桐の大きな手に触られたらどんな感じがするのか…片桐のキスは漫画のキャラクターみたいに熱く優しいのか…


 けど…それを経験できるのは俺じゃない…。可愛くも柔らかくもない俺なんかじゃない。あのマネージャーなのか、それとも他の片桐にお似合いな女子なのか…



 早朝のグラウンドにストレッチ中の片桐がいた。

「片桐、おはよー」

 好きだといえない現実に胸がギュッと痛む。それを隠していつものように挨拶できたんじゃないかと思う。

 朝練はマネージャー無しで行われるため、川原の顔を見る心配がないからまだ良かった。流石に二人が一緒にいる姿を見たくない。

「……。身体は大丈夫なのか?」

 いつもとは違う俺の挨拶に気づかないはずはなく、少し怪訝な表情をしながらも俺を気遣ってくれるのが嬉しい…。

「おう。全然大丈夫!あ、俺スタートダッシュの練習してくるわ!」

 片桐からの柔軟の誘いを阻止するため早口に言い訳して走り去った。

 そばにいるだけで気持ちがあふれそうなのに、身体的接触なんて無理でしかない。

 朝練中、何度も片桐の視線を感じたけど、何とか気づかないふりで練習を終える事ができた。


「利佳!おはよう!席ここだよ♥」

「おう、おはよ」

 朝からニッコニコの沢渡悠貴は昨日の保健室での約束通り俺を呼び捨てで呼んで来た。

「利佳、朝練だったの?利佳、1時間目古文だよ。利佳、今日も可愛い♥」

 どうでもいいことにいちいち利佳を付けて言って来るのが嫌がらせなのかと思えるほどだ。

「なんなの?何度も呼ぶなよ、なんかムカつく」

 カバンを机に置くついでに沢渡にぶつけてやった。

「痛い!利佳ひどい!痛いよ、利佳!」

「痛いほどぶつけてねぇだろ」

「だって、痛かった気がしたんだもん。くそー、なかなか呼んでくれないなぁ」

 ブツブツ言いながらカバンがぶつかった腕をさすっている沢渡は、恨めしそうな上目遣いで俺を見てくる。はあー仕方ないなぁ…。

「悠貴、大げさすぎ」

「やりぃ♪」


 この日の午前中は、必要以上に絡んでくる沢渡と不自然に何度も目が合う片桐のせいで、授業の内容がほとんど頭に入らなかった。

 今までのように自然に振る舞うことを心がけてはいるものの、片桐の視線には胸がギュッとなって目を逸らすことしかできなかった。

 いつもは目があったらどうしてたっけ…。


「どうした大野、タイム落ちてるぞ」

 ゴール地点で息を整える俺に顧問の前先が声をかけてきた。

「地区大会近いのに大丈夫か?こないだ早退してから調子戻らんのか?」

「はあ…すんません」

 シャツの裾で汗を拭いながら前先を見上げる。

「本番に備えて無理はするなよ」

「うぃっす」

 そのあとも何本か走ったがタイムは戻ることなく不調なままだった。ファイルで口元を隠した川原の目がゾッとするほどの嘲笑の形をしてこっちを見ていた。

 終始片桐とはお互い距離を保つような状態で、よそよそしい雰囲気のまま部活の終了時間になった。

 記録も落ちてるし、片桐ともこんなだし…もう、なんかやっぱ俺ってダメダメだ…

 落ち込んだまま練習が終わると、着替えの手もノロノロしてしまう。シューズを脱いで溜息。シャツを脱いで溜息。制服のカッターシャツを羽織って溜息。ボタンを留めながらため息。

 結局部室には俺だけが取り残された。

 最後になった奴の役目として部室のカギを職員室まで持っていかないといけない。それもノロノロと溜息とともに歩いていく。職員室までは結構距離があり、なんだか急にひとりぼっちの状況が途轍もなく寂しくなった。見上げた空は綺麗な夕焼け色なのに、俺の心は暗黒色に堕ちていきそうだった。


 片桐は今日も川原と帰ったんだろう…。そろそろ付き合うのか、もしかしてもうすでに付き合ってるのか…。


 職員室は部活の顧問をしている先生しか残っていなかった。鍵を収納ケースにしまって出ていこうとしたとき前先に見つかってしまった。

「大野、ちょっと」

 前先の横の空いた椅子に座るようちょいちょいと手招きされる。

「どうした?お前が元気ないのは珍しいな。タイムのせいか?初めての大会に緊張してんのか?」

「どうだろ…、緊張してんのかな…」

「それとも片桐となんかあったか?」

 飲んでた水を吹き出しそうになった。

「な、な、なにを言ってんの?!なんで片桐が出てくるわけ?!」

「お前が片桐を避けてる気がするんだけどなぁ」

 教師ってすげぇと思った。よく見てんなぁ。

「何もねぇよ。…好き好き言うの止めただけ」

「なんだ、止めたのか。もしかして…諦めるのか?」

 前先が腕を組み椅子の背もたれに身体を預けたら、ギシっと軋んだ音がした。

「片桐の迷惑になりたくねぇし…、それに友達なら毎日好き好き言うのもおかしいだろ…」

「2年になって大野効果で片桐の調子も上がってたのになぁ…。昨日から片桐も停滞気味だし」

「大野効果なんかねぇし!片桐が努力してただけだし!もう帰る!」


 カバンを引っ掴んで急いで職員室を後にした。

 片桐も調子を落としてるのは知らなかった。まあ、俺のことは関係ないだろう。

 トボトボとまた溜息とともに校門へ向かうとそこによく見知った人影があった。

「片桐…?」

「……」

 夕陽が逆光になって片桐の表情がわからない。ずっと見てきた感覚からはなんだか怒っている雰囲気を感じる。

「遅ぇ」

 それだけ言って片桐は自転車を押して俺の横を歩き出した。

「川原は?送らなくていいの?」

「昨日前先に断った。調子落ちてきたし」

 後から聞いた話だが、片桐の代わりに同じ一年の男子と帰るよう言われて相当ごねたらしい。帰り道が怖いからって理由で片桐の付き添いを希望したのに、一年男子に変わったとたん一人でサッサと帰ったそうだ。

 片桐と並んで歩くのは2週間以上振りで、前は何を話していたのか全く思い出せない。

 無言で歩く道はいたたまれなさと嬉しさがごちゃ混ぜになって、胸の奥が痛いような気がする。

「話あるから公園寄るぞ。ほら、信号変わっちまう」

 急かされて、言われた事を理解する前に横断歩道を渡り普通の公園より広く整備された緑地公園に足を踏み入れてしまった。


 逃げ出したい気持ちを抑えて片桐が示したベンチに座った。片桐は自販機で飲み物を買っていた。

「ん」

「あ…、ありがと」

 差し出された小さな缶のカフェオレを受け取って両手で持つ。缶の蓋はすでに開けられていた。

 半人分開けた場所に片桐がどさりと座った。

 しばらく無言の時間が続く。責められているような謝ってしまいたいような気になるのは何故だろう…。

「前に話があるって言ってから、タイミングが悪くてだいぶ経っちまって、その間にお前も俺も色々あって…今のこの状況は正直キツい」

 自分の足元を睨みつけながら言葉を選ぶようにゆっくり話す。

「…、ごめん…」

「なんで謝る?謝って欲しい訳じゃない。じゃなくて…一昨日からお前の態度が変わった理由を教えて欲しい」

 責められてる訳じゃないのは分かってても俺の行動がやっぱり片桐に迷惑をかけてしまったようで鼻の奥がツンとした。それを押し込んで、いつも通りの俺を意識しながら明るく返すことを心掛けた。

「何かあったわけじゃなくて…今まで毎日告ってたのが迷惑だったって聞いて、俺も納得したから止めただけ!」

「迷惑って、誰から聞いた?」

「マネージャー。ほら、片桐優しいから、言えなかったんだろうって代わりに教えてくれた感じ?」

「はあー」

 頭をガシガシ掻きながらイライラとしたため息をついた。

「それで俺の事避けてるのか?」

「避けてるつもりは…全然なかったんだけど……ごめん。俺の気持の整理ってか、やっぱそばにいると気持ちが揺らぐっていうか…、友達としての好きに持っていくのが難しくて、片桐に迷惑だって、男の俺なんかに好かれてもキモいだけだって、わかってるけど…。けどもう大丈夫!もう、落ち着きそうだし!だから…これ以上…、嫌いにならないで欲しい……」

 泣く前に言わなければならないことを言ってしまおうと早口で思った言葉を連ねる。ギリギリで言い切ったと同時に、まぶたに溜まった涙がぽたぽたと落ちた。


 しばらく無言だった片桐が、大きく息を吐いた。

「迷惑だなんて誰にも言ってないし、一度も思ったこともない。川原とは駅まで歩いただけで一言も喋ってない。向こうはずっと一人で喋ってたけど。俺は返事すらしてない」

 片桐の言葉に一瞬涙が止まった。

「え…?片桐が迷惑してるって言ってるから付き纏うなって……、あと二人がいい感じだから邪魔するなって……」

 涙でぐしゃぐしゃな顔を片桐に向けると、大きな手で頬の涙を拭ってくれた。片桐の手が触れた所が熱くなるのを感じる。

「お前のことは迷惑だと思ってないし、アイツのことこそウザいし迷惑だと思ってる。だからいい感じもクソもない」

 俺の目をしっかり見てゆっくり確実に伝わるように言ってくれた。

「てか、俺がお前を好きになってるのわかってると思ってた。なのに今勝手に友達に降格されてムカついた」

 優しく頭を撫でられ、俺を見つめる瞳も優しく細められる。

「…………。……好き?」

「おう」

「……誰が?」

「俺が」

「…誰を?」

「お前を」

「うそ…」

「嘘じゃない」

 会話の間、ずっと頭を撫でられていた。その手がゆっくりと下へ降りてきて、俺の頬をすっぽりと包む。

 片桐の整った顔が近づいてきた。やっぱり顔がいい。と思った瞬間、片桐の閉じたままの唇が俺のそれに軽く触れた。

 片桐の唇は想像してたより柔らかかった。初めてのキスの感想がコレってどうなん?てか、片桐が俺にキスをしてきたという事実を理解するまでに大分時間がかかって、目を閉じてうっとりする暇もなく片桐の唇は離れていった。


「ウソだ…。だって今まで何も反応なかったじゃん!」

「受け入れてただろ。嫌がった事もないし。それでわかるだろ」

「分かるわけないじゃん!俺は片桐が優しいから拒否も否定もできないだけで、俺の事好きになるなんて…あぁ分かった、俺が毎日言ってたから洗脳されてるんだ、絶対!」

 近付いていた片桐の身体を押すもビクともしない。缶コーヒーを持ったままだったから中身がはねて片桐のシャツに染みを作った。あ…!と思って押す力が弱まった瞬間を逃さず強い腕に抱き竦められた。

「拒否も否定もしてないし、洗脳もされてない。俺の意思でお前のこと…利佳の事が好きだ。ちゃんと言うのが遅くなってごめん。お前は?もう気持ちの整理ついたのか?」

「お、俺も。好きだって毎日言ってたじゃん」

「今日は言われてないし」

 拗ねたような声色が可笑しかったし、可愛いと思ってしまった。

「今日も好き。片桐が大好き」

 想いを込めてギュッと抱きしめ返す。なのに、パッと片桐が身体を離した。

「そうだ、なんで沢渡と名前を呼び捨てしあってんの?」

「そ…れは、昨日、凄い世話になって…、お返ししたいって言ったら、呼び捨てさせてって……」

 真正面から見据えてくる瞳に捕まって、しどろもどろで証言を強いられた。

「じゃあ俺も利佳って呼ぶ」

「いいよ、もちろん」

「今日から恋人なんだし、利佳も俺を呼び捨てな」

「こ……恋…人?」

「俺は結構前から付き合ってるつもりだったけど…、それはノーカンでいいや。ほら、呼んでみ」

 片桐の発言に顔が一気に火照るのがハッキリ分かった。コレ,耳まで真っ赤ってやつだ…。

「い……、いお……り…」

 あまりの恥ずかしさに両手で顔を覆った。もう、数々の爆弾発言にマジで爆発しそうだ……



 今度は両手で頬を包まれて、さっきよりしっかりと閉じた唇が重なった。さっきより長く。離れる時優しくチュッと啄ばまれた、その瞬間、俺の体が勝手にビクッと反応した。自分でもビックリしたが、片桐はそれを見逃さなかった。

「利佳…口開けて」

 わざと出してるであろうイケボで囁かれたら、従うしかない…。

 恐る恐る開けようとした唇が少し震えているのに自分で気づいた。言われた通り少し唇を開いてゆっくり目を閉じた。

 ぬるりと入ってきた片桐の舌は熱く、俺の舌に絡むように動く。それに答えようと動かしてみたら、腰のほうから背中にゾクリと震えるような感覚が走った。無意識に吐息が漏れる。

「ん…う、ん…」

 キスがこんなに気持ちいいものだなんて知らなかった。というか、片桐が上手すぎるのではないか?もしかして豊富な経験が…?!

 息をするタイミングが分からなくて、呼吸困難になりかけた時ようやく唇が離れて、どちらともわからない垂れた唾液をぺろりと舐め取られた。恥ずかしい。なんだか片桐のキャラが変わってる気がする…。

 片桐は俺をぎゅっと抱きしめて、満足そうなため息を吐き出した。

「キスって初めてだけど、すげぇ気持ちよかった…。やばい…」

 初めてだとは…。てか、やっぱキャラ変わったよね…。無口で無表情で無愛想な片桐は何処へ?

 片桐の変化に戸惑ってポカンと口を開いた隙にまた深く塞がれた。

 唇が離れたとき、片桐がニヤッと笑った片桐の小さな声が聞こえた。

「可愛いな…」

 軽くチュッと唇が触れ合って、片桐はベンチから立ち上がった。

「そろそろ帰ろうか。だいぶ遅くなった」

 俺のカバンも当たり前のように一緒に肩に掛け、空いた手を俺に差し出した。その手を取って立ち上がる。

 腰から下がフワフワして立ち上がれずよろけてしまった。またもや当たり前のように支えてくれて、その顔を見たらニヤッと笑っていた。俺は恥ずかしさで耳まで真っ赤になる。

 公園の出口で、片桐はキョロキョロと辺りを見回し、何かを確認すると普通に繋いでいた手を指を絡める形に繋ぎなおした。恋人つなぎというやつか…。そのための人目の確認だったのか…。

 恥ずかしがる俺を見て満足そうな片桐は、追い打ちをかけるようにつないだ手を持ち上げ、俺の手の甲にチュッとキスをした。異世界の住人か?



 大好きな片桐と付き合えるなんて思ってもみなかった。あの片桐が俺なんかを好きになってくれるなんて、想像もしていなかった。

 実際に付き合うことになって、初めてキスをして、初めてした大好きな人とのキスは驚くほどの快感に襲われ、もしかしたらキスだけで達することができるんじゃないかと思えるほどだった。

 過去のトラウマのこともいずれ片桐には告げなければいけない。

 子供のころに体験した恐怖と、それに影響された未精通のこと。イクことができない身体はこれからの付き合いの中で二人の間にどう影響するのか?その前に過去にされた性的虐待に対して片桐はどう思うのか?優しい片桐のことだから、あからさまに罵倒したりはないだろうけど、汚された身体は片桐に捧げる価値があるのか…。

 自分の汚さをこんなに恨めしく思う日が来るとは思わなかった。片桐には言いたくない。けど、黙ってこんな汚れた身体に触れさせるのは騙してるようなもので、そんなことを大事な片桐にさせたくない。

 どうしたらいいのか……

 幸せなのに……

 ずっと不安が付きまとう…。

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