第4話 「波のささやき」

 エメラルドグリーンの海が、太陽の光を受けて揺れていた。

 白保海岸の砂は白く、さらさらとしていて、指で軽くすくうと、すぐに指の間からこぼれ落ちる。


 ヨーコは、手に持っていたリストを確認する。

 ドレスの状態、ヘアメイクの最終チェック、撮影場所の確認。

 風の向きや日差しの強さを見ながら、カメラマンのコージとカップルの立ち位置を調整していく。


 「新郎さん、もう少し右へ。新婦さんの肩に手を……そう、そのまま」


 レンズ越しの二人は、緊張していた表情がほぐれ、柔らかい笑顔を浮かべていた。

 コージがカメラのシャッターを切る。


 「いいね、そのまま」


 波打ち際を歩く二人の足元が、白い砂に沈み込む。

 さっきまで寄せていた波が、一度引くと、すぐに新しい波がまた押し寄せる。

 海は、絶えず動き続けていた。


 「次は、新婦さんが後ろから新郎さんに抱きつく感じで……そう、少し照れた感じがいいですね」


 カップルの姿が、青い海と空に映える。

 雲はひとつもなく、日差しがカップルの重なり合う影を作る。

 ヨーコは、風の流れを読んで、レフ板の位置を変えた。

 カメラのシャッター音が、リズムよく響く。


 ヨーコは撮影の様子を見ながら、ふと、遠くの水平線に目をやった。


 波の音が、どこかおかしい。

 ざわついている。

 波の音に混ざる、かすかな「何か」。


 撮影は順調に進み、無事に終わった。

 カップルにはワンボックスカーで待機してもらい、ヨーコたちは機材の片付けを始める。


 そのとき、不意に風が強くなる。

 潮の匂いが濃くなり、空の色が微かに変わった。

 水平線の向こうに、一瞬、黒い影が見えた気がした。


 突如、風が吹き荒れる。


 「——っ!」


 青空が、一瞬で曇る。

 影が海面に落ち、白い波が荒々しく砕ける。


 それと同時に、沖で大きな波が立ち上がった。


 こんなに急に天気が変わることはない。

 まるで——何かが彼女を試しているような、そんな気配。


 「ヨーコ! 離れろ!」


 コージが叫ぶ。

 その瞬間、沖の観光ボートが大きく傾き、バランスを崩した。

 そして、ひとりの男性が海に投げ出された。


 ヨーコの足が、反射的に動いていた。


 「ヨーコ!」


 コージの声が響く。

 けれど、止める間もなく、ヨーコは水の中へと飛び込んだ。


 水が冷たい。

 それでも、心の奥のざわつきがすっと消えていく。


 最初は普通にクロールで泳いでいた。

 だが、気づけば違っていた。


 腕を使うわけでもなく、腰から下をほんの少しだけ動かしている。

 それだけなのに、驚異的なスピードで水を切って進んでいた。


 自分自身が、一番驚いていた。


 コージは浜からその様子を見つめ、息を呑む。


 まるで、魚が海を滑るように。

 信じられないスピードで、波の間を縫っていく。


 その時、ヨーコの耳に、遠くから声が届いた気がした。


 波の奥の深い場所。


 海の底で、何かが動いた。


 水の中、人影のような、魚のような——。

 ゆらゆらと揺れるそれが、静かにこちらを見ていた。


 ヨーコの心臓が、一瞬跳ねる。


 次の瞬間、その影は海の奥へと消えた。


 波の中、男性の姿が揺れる。

 沈みかけている。


 手を伸ばすと、男性の指先がしっかりと彼女の手を掴んだ。


 ヨーコは、驚くほどの速さで岸へ戻る。

 まるで水が後押しするように、滑らかに——。


  助け出した男性が砂浜に膝をついた瞬間、コージが駆け寄ってきた。


 「大丈夫か?」


 驚きと安堵が混じった声だった。


 ヨーコは荒い息を整えながら頷く。


 「なんとか」


 男性はまだ震えていたが、意識ははっきりしているようだった。

 コージは車に走り、後部座席からタオルを取り出すと、ヨーコと男性、それぞれに差し出した。


 タオルを受け取りながら、ヨーコはコージの顔を見た。

 彼は何も言わない。

 ただ、その目の奥には明らかに動揺があった。


 けれど、何も聞かないまま、コージは静かに言った。


 「カップルをホテルまで送ってくる」


 それだけ言い残し、車に乗り込むと、そのまま砂浜を後にした。


 観光船が戻るまで、ヨーコは砂浜に座って待機していた。

 濡れた服が肌に張りつき、潮の冷たさが残っている。


 観光船の乗組員たちが駆け寄り、助けられた男性を確認すると、何度もヨーコに頭を下げた。


 「本当にありがとうございました! こんなに早く助け出してくださって……!」

 「どこで泳ぎを習われたんですか?」


 ヨーコは曖昧に微笑むしかなかった。


 しばらくすると、コージが戻ってきた。


 その瞬間、ヨーコは自分の体がすっかり乾いていることに気がついた。


 午後は休みを取ることにした。


 家に戻り、ソファーに座りながら、ずっと考えていた。


 あの時、波の奥に見えた影。

 あの速さで泳げたこと。

 海の声のようなもの——。


 母親に確かめなくちゃいけない。

 ホームへ引っ越すとき、段ボールに詰めた書類のことを思い出す。

 あの中に、何か手がかりがあるかもしれない——。

 母親は認知症だけれど、何か聞き出すことができるかもしれない。


 夜、コージが帰宅したとき、ヨーコは口を開いた。


 「……コージ、ちょっと母親のところに行ってきたいの。確かめたいことがあるの」


 自分は、一体何者なのか確かめるために、動き出さなければならない気がした。

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