Academic of Nexnavi-8

 七月に入ると、蝉の声が一段と大きくなり、夏本番を迎えようとしていた。

 学校は期末試験期間に突入し、Academic of Nexnaviの授業にも、緊張感が否応なく漂い始める。

 佐藤千詠子は、各生徒たちを様子や注意深く観察しながら、それぞれの状況に合わせた指導を心掛けていた。

 この試験結果は、夏休みの過ごし方を大きく左右する。

 夏期講習で苦手科目を克服するか、それとも得意科目をさらに伸ばすか。

 あるいは、試験の結果次第では、進路の見直しも必要になるかもしれない。

 だからこそ、夏休み前の総まとめであると同時に、新たなスタートを切るための重要な試金石なのだ。


松下知貴とのマンツーマン授業


 「先生……」

 松下知貴が、俯き加減でコワーキングスペースに現れた。

 「どうしたの、知貴くん?何かあった?」

 千詠子が優しく問いかけると、知貴は少し戸惑いながら「算数と理科は、まあ何とかなると思うんですけど、国語が無理ゲーでした」と、試験結果を素直に答えた。

 相変わらず、苦手な国語を「無理ゲー」というあたりは、彼のらしい素直さの表れと思い、微笑ましく思うがしかし、彼の悩みは、真剣そのものだった。

 「国語は、文章を読むのも書くのも苦手で、漢字も全然覚えられないんです」

 知貴は、そう言いながら、机の上の参考書を開く———そこには、重要な箇所に引かれた赤線、理解を助けるための青い補足、さらに無数の書き込みと、消しゴムで消した跡が残されていた。

 彼なりの、努力の痕跡が伺える点については、苦手ながらも頑張っているのがハッキリとわかる。

 だからこそ、彼の努力を認め、しっかりと褒めてあげることが大切だと感がる。

 「知貴くん、この参考書を見ればわかるよ。こんなに書き込みがあって、消しゴムの跡もたくさん… 一つ一つ丁寧に、何度も向き合って、本当に頑張ってるんだね。でもね、元々苦手なものが、急に出来るようになるなんてなかなかない。だからこそ、結果が出ないかもしれないけど、知貴くんのこの努力は、しっかりと続けていかないとだめなんだよ。この努力を続けていく先に、国語の苦手意識の克服に繋がるって、先生は信じてるから。だから、こんなことで諦めないで、夏休みも一緒に頑張ろう」

 千詠子の励ましの言葉に、知貴は少し気持ちを切り替え、しっかりと頷いた。


 「じゃ、今日は、算数と理科の復習ね。こっちも試験問題の復習もしながら、実際に間違えた問題の見直しと、その問題に近い内容の応用問題を、集中的にやってみようみよう。」

 千詠子は、そう言って、知貴にテスト用紙と問題集に目を向けた。

 知貴は、さっきまでの落ち込んだ表情から、明らかに変わったが、それでも苦手意識の強い科目や、試験問題に対しては、少し渋い顔を見せる。

 だけど、この三カ月ほどで、彼の勉強に対する意識はだいぶ変わったのは、最初の大きな成長だ。

 千詠子は、そんな彼に寄り添い、夏休み前の意識改善に加え、彼自身の学習スタイルを尊重しながら、授業終わり前に、じっくりと耳を傾ける時間を作った。

 また、夏休みの方向性が定まったこともあって、志望校については「とりあえず、このまま(麻布海城中学校、九段一橋中学校)で頑張ります」とだけ答え、来る前の元気のなさが嘘だったかのように、しっかりとした足取りで教室を出ていった


芝山伸一郎とのマンツーマン授業


 「こんにちは、先生」

 少し遅れてコワーキングスペースに現れた芝山伸一郎は、以前よりも表情が明るく、だいぶ緊張感も解れてきたように見える。

 それでも、相変わらず口数は少なく、会話の距離感は、まだまだあるといった感じだ———しかし、四月の頃と比べると、少しずつ苦慮しながらも、コミュニケーyソンを取れるようになってきたのは、良い進展だと思う。

 「期末試験の結果は、どうだった? 「全体的にテストが難しかった」って言ってたけど、実際に結果が出てみて、どうだった?」

 千詠子がそう尋ねると、伸一郎は視線を外し、少しだけ考えを巡らしてから「…あんまり、良くなかったです」と、小さな声で答えた。

 相変わらず、そっけない反応だ。

 「何か困っていることはある? 特に苦手な科目とか…」

 千詠子が優しく問いかけると、伸一郎はしばらく俯いた後「現代社会が、やっぱり…全然だめですね」と、素直に答えた。

 「現代社会は、範囲が広いから、何から手を付けていいか分からなくなることもあるよね。そんな時は、インターネットを活用してみるのも一つの手だよ。例えば、教科書に出てくる用語を検索して、その用語が生まれた背景や、関連するニュース記事を調べてみるとか。そうすることで、用語が単なる文字の羅列ではなく、生きた情報として頭に入ってくると思うよ」

 千詠子は、自分が普段から習慣づけている、知識や記憶の積み重ね方や、忘れないような実践法を伝えつつ、アドバイスを送り、彼を励ました。


 「折角だし、現代社会の教科書を一緒に読みながら、気になったり、分からない用語を、実際にネット検索して、調べてながら勉強してみようか?調べ方とかで、分からないところがあれば、遠慮なく質問していいからね」

 そう言って千詠子は、自分のタブレットを胸に抱いて示した。

 伸一郎は、黙って教科書を目で追い始める。

 分からない用語にあたると、彼女に目配せをし、それでタブレットを開いて、自分で検索をしていく———確かに時間はかかるが、その苦労した分だけ、脳を刺激し、記憶と知識は確かなものになる。

 千詠子も、彼の様子や教科書の内容に、注意深く視線を注ぎながらも、適宜解説や補足、タブレット操作の補助を行った。


 授業も終わり間際……。

 一郎の視線が千詠子のワンピース首元から覗く胸元に走った。

 しかし、それはほんの一瞬のことで、すぐに視線は逸らされたが、確かに彼は佐藤千詠子のプロポーションを見ていた。

 しかし、彼女はその一瞬の視線には気づいてはいなかった。

 帰り際、個室内が少し暑かったのだろうか?芝山伸一郎の頬は少し赤くなっていた。

 「夏休みの学習スケジュールや、夏期講習については、次の授業で相談したいです」と、千詠子に視線を合わせないように言うと、少し恥ずかしそうに、そそくさと教室を出ていった。

 その様子に不自然な感じがしつつも、やはり彼も年頃の男の子といった部分が垣間見え、可愛く、微笑ましいと思った。


早田英輔とのマンツーマン授業


 「こんにちは、先生。今日もよろしくお願いします」

 最後にコワーキングスペースに現れた早田英輔は、いつも通りの爽やかな笑顔見せて笑った。

 四月の頃と比べると、彼ともずいぶんと打ち解け、親しくなったと思う。

 冗談を言い合ったり、松下君、芝山君よりも、やはり大人な分、社交辞令な所があるにしても、ニュースなどの一般的共通性の高い、話題を話すことも増えた。


 「早田くん。期末試験お疲れ様。どうだった?手応えはあった?」

 千詠子がそう問いかけると、英輔は少し気まずそうに笑った。

 「それが…数学がやっぱりダメでした。他は大きな間違えもなく順調だったんですが、数学で苦戦して、足を引っ張った印象ですね」と答えた。

 「数学は、私も苦手だったから、気持ちはよく分かりなぁ。私は特に、公式は覚えられても、どの場面で使えばいいかの判断が上手く出来なかったりしてた。でも、早田君の場合、公式の使い方よりも、そのあとの計算ミスによる誤答があるから、そこをもう少し注意深く問題と向き合えれば、大丈夫だと先生は思うけどなぁ」

 千詠子は自分なりに、彼の数学に対する苦手意識を分析しつつ、克服への取り組み方のアドバイスも添えて、英輔を励ました。


 「今日は、何をしようか? 数学の復習でも良いし、他に何か気になることとか、聞きたいこととかありますか?」

 千詠子が、彼の教科書や開かれた問題集覗き込みながら問いかけた。

 その覗き込む姿勢に、距離感が近かったのか?

 英輔はすぐに、恥ずかしそうに顔を背け、少し考えてから、気を取り直して答えた。

 「えっと…。先生、現代文の読解についてですが良いですか?最近、文章を読むのが遅くなっている気がして、先生の視点から、読解のコツとかあったら、教えてもらえませんか?」

 「現代文ね、良いわよ。現役の時は結構、得意科目だったし、私なりの勉強法とか、ポイントでよければ、参考にしてくれていいからね」

 千詠子はそう言って、彼の現代文の教科書に目を落とした時、英輔は彼女に向け、先ほどの数学の件について触れた。

 「数学は自分で一度復習してみます。そのあとで、いくつか相談しても良いですか?」

 「もちろん、いつでも大丈夫よ」と、千詠子は笑顔で答えた。


 英輔の視線もまた、伸一郎同様に、彼女のプロポーションを捉えた。

 彼が覗き見たのは、ワンピースの裾越しに覗く太もものラインだった。

 ワンピースの生地に覆われているので、直には見えないものの、座った拍子に出来たシワから浮かび上がった、そのラインに視線が注がれた。

 しかし千詠子は、まったく気付いていなかった。


 「とりあえず、上智大学 外国語学部と法政大学 社会学部のままで行くつもりですが、もう少しだけ、自分の実力と大学レベルとを、改めて見直してみたいと思います」と、しっかりと自分なりの考えを述べ、千詠子もそれに頷いた。

 以前は、ただ親に言われたから、偏差値的に手が届きそうだから、という理由で志望校にしていた印象が強かったが、一緒に授業をやるようになって、彼なりの自主性や自立心が、確実に向上していることが、自分事のように安心感を覚える。


 無事に、三人の生徒との授業を終えた千詠子ではあったが、これから迎える夏休みと、夏休み期間中に開催される、夏季集中講習のことを考えると、まだまだホッとしてはいられなかった。

 しかし、それぞれ個性的な生徒たちとの交流や、その成長を身近で見て知って感じられる今の環境は、自分にとっても、刺激的でやりがいがあった。

 この仕事を選んだからこその、醍醐味だと思うし、秘書の業務では、決して味わうことのできない経験だと言える。

 千詠子は、彼らとともに駆け抜けた、最初のシーズンを振り返りながら、大きく伸びをして、その疲労感をほぐした。

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