アカデミック・オブ・ネクサナビ(R-15指定)

皇さん

Academic of Nexnavi-1


 「どうしてそんな気になったんだろう?」


 千詠子は、都心の一等地にあるマンションの、少しばかり手狭なダイニングテーブルに肘をつき、温もりの残るコーヒーカップを、所在なさげに見つめていた。

 琥珀色の液体からは、まるで過去を映し出すかのように、穏やかな湯気が立ち上っている。

 その湯気は、彼女のくすんだ心の奥底を、そっと撫でるように漂っていた。

 窓の外はどんよりとした曇り空で、時折、冬の冷たい風が窓を叩き、室内の静寂を際立たせる。


 新卒で地方から憧憬を抱き上京し、華やかな東京の中規模企業の秘書として働き始めたあの頃。

 右も左も分からず、ただひたすらに目の前の仕事をこなす日々。

 そこで、穏やかで優しい雰囲気を持つ祐二と出会い、まるで運命に導かれるように、25歳という、少しばかり早すぎる春に結婚。

 それから29歳の手前までその会社に務め、退職後は三年更新という、どこか不安定な契約でいくつかの企業を渡り歩き、気が付けば秘書畑一筋で、キャリアを築いてきた。

 しかし、それも束の間……二年ほど前に、まるで糸が切れた操り人形のように、あっさりと辞めてしまい、今は肩書きのない、自由気ままな無職という名の元に、日々を過ごしている。

 時間に追われることもなく、好きな時に起きて、好きなものを食べる。そんな生活も、最初は新鮮だったが、次第に退屈さを感じるようになっていた。


 夫の祐二は、五年くらい前に接待で知り合った、千詠子よりも十歳も若い、可愛らしい女性と“よろしくやっている”ようだ———しかし、離婚の二文字を口にしないところを見ると、そのお相手は計算高く、したたかで、利口な女性なのだろう。

 千詠子も、二度ほど彼女に会ったことがある。

 あどけなさの残る笑顔の裏に、遊びと本気をきちんと弁えた、クレバーな精神を宿している。

 そんな、若さ溢れる女性とよろしくやってはいるけれど、祐二はまるで義務のように、きちんと家賃や生活費も振り込んできている。

 別に文句を言うつもりもない。

 そもそも、無職だからといって、生活に困っている訳でもない。


 そんな千詠子が、マンションのポストに差し込まれていた「家庭教師センター・講師募集」のチラシに興味を持ったのは、十二月のクリスマスまで一週間と迫った、冷たい雨の降った日のことだった。


 「Academic of Nexnavi…」

 チラシを手に取り、千詠子は誰に言うでもなく、小さく呟いた。

 品のある落ち着いたフォントで書かれた塾名の下には、「未来を拓く、個別指導の最前線へ」という、まるで成功を約束するかのような、どこか胡散臭いキャッチフレーズが、目に飛び込んでくる。

 普段なら、こういった類いの広告は目もくれずにゴミ箱行きだった。

 しかし、その日に限っては、まるで何かに導かれるように、その安っぽいチラシから、どうしても目が離せなかったのだ。

 チラシの背景色は、目に優しい淡いグリーンで、子供たちの笑顔の写真が、無機質なマンションのエントランスで、異彩を放っていた。

 確かに、仕事を辞めてから早二年。

 有り余る時間を持て余しているからか?

 それとも、あの頃の様に、日常に刺激を求めているのか?

 あるいは、単純に社会との繋がりを求めているのか?

 いや、違う……このチラシを見た時に思い出したのだ。

 かつて大学時代に、取得単位の関係で、教員免許を取っていたことを。


 しかし…しかしだ。

 コーヒーを一口飲み、千詠子は考える。

 教員免許を取ったとはいえ、あくまで大学卒業のための理由付けに過ぎない。

 そもそも大学の在学中も含め、一度たりとも、教員免許を必要とする場面に遭遇した事はないし、なによりも教育実習すらいっていない。

 大学卒業後に培ってきた秘書としてのスキルは、家庭教師とは明らかに縁遠い上に、ハッキリ言ってしまえば、畑違いである。

 それでもなお、彼女の心は騒めき始める。


 相手の些細な変化を敏感に察知し、まるで優秀な秘書のように、的確なサポートをするという点においては、共通項があるはずだ。

 子供たちの個性を見抜き、それぞれのレベルに合わせた教え方をすれば、秘書としての経験も活かせるかもしれない。

 二年間のブランクというよりも、全くの未経験ではあるが、教員免許や、その取得のために受けた講義などで得た、埃を被った知識も、ほんの少しや役に立つかもしれない。

(それに、もしかしたら……新しい出会いがあるかもしれないし……)

 そう考えた瞬間、彼女の脳裏には、まるで禁断の果実のように、甘美な妄想が広がった。生徒の保護者との交流、あるいは、同じ塾で働く講師との出会い……そんな、刺激的な可能性が、彼女の心をくすぐる。

 「まぁ、話を聞くだけなら、別に損はしないわよね……」

 まるで運命に導かれるように、千詠子は覚悟を決め、少しばかり震える指先で、チラシに書かれた電話番号に手を伸ばした。



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