幕間一『自動車』

療養院の白い建物を背に、燈瑠は静かに歩を進めた。藤色の長髪は帽子の下にまとめられ、外套の下で彼女の腕に抱かれた小さな命は、穏やかな眠りの中にいた。


「寒くないか?」


宗介が先に歩き、停められた自動車のドアを開いた。黒光りする車体に、燈瑠は興味深げに目をやる。


「自動車…あなたが手配したの?」


「馬車より揺れないし、燈佳にもいいだろう」


言いながら、宗介は燈瑠の手を取って、車内へと誘った。シートの感触を確かめるように腰を下ろし、燈瑠は軽く燈佳を揺らす。赤子は薄布にくるまれたまま、何事もなかったように小さく寝息を立てていた。


エンジンが静かに唸りを上げ、運転手がハンドルを握る。車輪が滑らかに路面を転がり、療養院を後にした。


宗介は窓の外に視線を投げつつ、ふと呟く。


 「……日本にもあればなあ」


燈瑠はゆっくりと宗介を見やる。彼の言葉には、ただの感想以上の響きがあった。


「あなたが望むなら、深澤家から出しましょうか?」


さらりとした口調だったが、宗介は思わず燈瑠を見た。


「冗談じゃないんだろう?」


「ええ、もちろん本気よ」


燈瑠は少し微笑み、燈佳の小さな額にそっと指を這わせる。


「未来のために動くのも、悪くないわ」


宗介はしばし考え込んだ。自動車——それは新時代の象徴であり、遠くない未来、日本にも波のように押し寄せるはずの技術だった。しかし、それを深澤家が率先して導入するとなれば、話は別の次元へと移る。


燈瑠は静かに彼を見つめていた。宗介がどう答えるのか、試すように。


***


車内に満ちる微かなエンジン音のなか、運転手の隣に座っていたアナスタシアが、ルームミラー越しに燈瑠を見て微笑んだ。


「やっぱり、いつもの燈瑠ね」


「いつもの?」


燈瑠が穏やかに聞き返すと、アナスタシアは肩をすくめた。


「何か新しいことを始める時のあなた。ほんの少し、目が楽しげになるわ」


燈瑠は答えずに、軽く目を伏せた。


一方で、宗介は腕を組み、窓の外を眺めながら考え込んでいた。


「……日本に登記するか?」


ぽつりと呟くと、アナスタシアが興味深そうに振り向いた。宗介が続ける。


「――車を日本に持ち込むだけじゃなく、製造や整備も考えるなら、正式に名義を決めないとな」


燈瑠は微かに笑う。


「あなたの姓で米内製作所にする?」


「いや、それだと工房めいてるしな……かといって、燈瑠の名を使うのも……」


宗介は唸るように言葉を濁し、ますます思案に沈んだ。


「米内自動車?」


アナスタシアが面白がるように口を挟むが、宗介は首を横に振る。


「燈瑠の……いや、深澤の家名を冠するのも手か……?」


悩み込む宗介を、燈瑠は静かに見つめていた。


——彼がここまで深く考えるようになったのは、いつからだったろう。


かつては与えられた仕事に黙々と打ち込んでいた彼が、今は未来を見据え、新しいものを生み出そうとしている。その姿が、燈瑠にはどこか微笑ましくもあり、誇らしくもあった。


「あなたなら、どんな名前を選んでもきっとうまくいくわ」


慈愛に満ちた眼差しでそう告げると、宗介は一瞬目を丸くしたが、すぐに目を逸らし、わずかに頬をかいた。


***


フランスへと移動して数カ月。燈瑠と宗介は落ち着いた日々を過ごしつつも、遠く離れた日本から届く書類の山に目を通していた。


机に積まれた封筒を手に取り、宗介は一つずつ開封する。


「役所関係の書類、日本での登記、輸入手続き……それに深澤家の使いの報告書か」


彼は眉をひそめながら、綴られた文字を追った。


「日本では、早くも試験走行が始まってるらしいぞ」


燈瑠は燈佳を抱きながら静かに聞いていた。


「深澤家の者たちが先んじて動いてくれたおかげね」


「……華族の家ってのは、こういうときに頼もしいな」


苦笑しつつ、宗介は次の書類を手に取る。そこには、輸入された自動車の第一便が横浜港に到着したこと、各部品の精査が行われていること、そして試験走行を担う技術者たちの様子が細かく記されていた。


「向こうで試作車の評判は悪くないみたいだ。最初のモデルは改良点も多いが、走行性能は予想以上に安定してるらしい」


「そう」


燈瑠は淡々とした口調で応えつつ、書類を覗き込んだ。


「日本での受け入れは?」


「好奇の目はあるが、まだ懐疑的な声が多いな。馬車が主流の中で、新しいものを受け入れるには時間がかかる……まあ、それは予想通りだが」


宗介は手紙の端を指でなぞりながら、ふと窓の外を見た。フランスの街並みを走る自動車が当たり前のように行き交っている。


「日本に帰る頃には、もう少し状況が変わってるかもしれん」


燈瑠は頷き、燈佳の頬をそっと撫でた。


「私たちが帰る頃には、燈佳もきっと自動車に乗るのが当たり前の時代になっているかしら」


「……ああ。そうなるといいな」


書類を閉じ、宗介は未来を見据えるように静かに目を細めた。


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