第十二話
列車がスイスの国境駅に滑り込むと、車内に微かな緊張感が漂った。乗客たちはそれぞれに荷物を手に取り、身分証や旅券を確かめ始める。外はすっかり暗くなり、ランプの明かりに照らされた駅のホームがぼんやりと浮かび上がっていた。
「さて、いよいよスイスね」
燈瑠はそう言いながら、上着のポケットに手を入れ、旅券を確かめる。隣では宗介も同じように自分の書類を確認していた。アナスタシアは少し面倒そうな顔をしながら、荷物をまとめて立ち上がる。
「国境越えなんて慣れたものだけど、夜は気が滅入るわね」
「手間がかかるのは確かね。でも、ここを越えればしばらくは落ち着けるわ」
燈瑠がそう言うと、宗介は苦笑しながら「そうだといいが」と小さく呟いた。
乗客たちは次々と列車を降り、駅舎にある検問所へと向かう。石造りの建物の中はひんやりとしており、明かりが薄暗く揺れていた。
燈瑠たちが列に並ぶと、前の方で何やら揉めている様子が見えた。制服姿のスイスの検査官が、書類を広げながら何かを指摘している。その相手は若い男で、興奮した様子で何かを訴えていた。
「何か問題があるみたいね」
アナスタシアが小声で呟く。
「どうやら身分証の確認に時間がかかっているようだな」宗介も様子を窺いながら言った。
それでも列はゆっくりと進み、やがて燈瑠たちの番が来た。
「旅券を」
検査官が淡々とした口調で言い、燈瑠は手渡す。宗介とアナスタシアも同じように旅券を出した。
検査官はそれをじっと見つめた後、顔を上げて燈瑠に視線を向ける。
「あなたは……日本の外交官?」
「ええ、農商務省の者です。こちらの滞在は公務の一環です」
燈瑠は落ち着いた口調で答えたが、検査官は少しだけ眉をひそめた。
「確認のため、少しお待ちください」
そう言うと、彼は旅券を持ったまま、奥の事務室へと姿を消した。
「……あまり良い兆候じゃないわね」
アナスタシアがため息交じりに呟いた。
「別にやましいことはない。すぐに済むだろう」
宗介が腕を組みながらそう言うが、その視線はどこか警戒していた。
燈瑠は静かに微笑みながらも、手袋を外し、そっと指先を揉む。冷たい空気がじんわりと肌に染み込むようだった。
そして数分後、検査官が戻ってくると、その表情には僅かな硬さがあった。
「お待たせしましたが……少し確認したいことがあります。こちらへ」
燈瑠はちらりと宗介を見た。宗介も目を細め、何かを察したようだった。
「わかりました」
燈瑠はゆっくりと頷き、宗介とともに事務室へと足を踏み入れた。
事務室の中はさらに冷えており、簡素な木の机と椅子が並んでいた。燈瑠と宗介が席につくと、検査官は旅券を開き、もう一度それを見つめる。
「確認のためにお聞きしますが、今回のスイスへの滞在目的は?」
「主に視察です。今後の貿易に関する調査と、現地の産業状況を確認するために来ました」
燈瑠は淡々と答えた。検査官はそれを記録しながら、宗介にも視線を向ける。
「あなたも同じ目的ですか?」
「彼は私の随行員です。日本政府の職員として、私の補佐を務めています」
宗介は無言のまま頷いた。
検査官はしばらく書類を確認した後、小さく息をついた。
「実は、最近この国境で、不審な動きが報告されているのです。特に、東洋人の動向には注意を払うよう指示されています」
「それは……私たちに関係のある話なのかしら?」
燈瑠が静かに問い返すと、検査官は少し考えた後、「いえ」と首を振った。
「ですが、念のために、滞在先や行動計画をもう少し詳しく教えてもらえますか?」
燈瑠は表情を変えぬまま、予定している宿泊先や移動ルートを丁寧に説明した。検査官はそれを聞きながら、一つ一つ書類に記入していく。
「……なるほど。特に問題はなさそうですね。失礼しました、手続きは完了です」
ようやく旅券が返され、燈瑠と宗介は立ち上がる。
「ご協力ありがとうございました。気をつけて滞在をお楽しみください」
検査官がそう言うと、燈瑠は微笑みながら「ご丁寧にどうも」と返した。
事務室を出ると、アナスタシアが待っていた。
「大丈夫だった?」
「ええ、ただの確認だったみたい」
燈瑠が答えると、アナスタシアは軽く肩をすくめた。
「まったく……国境越えはいつも面倒ね」
「まあ、これも旅の一部だ」宗介が言うと、アナスタシアは苦笑した。
ホームに戻ると、列車はすでに再出発の準備をしていた。燈瑠たちは再び自分たちの車両に戻り、席に着く。
「これで、無事にスイス入りね」
燈瑠がそう言うと、宗介はふっと息をついた。
「やれやれ……次はもう少し穏やかな旅になるといいがな」
窓の外には、すでにスイスの大地が広がっていた。彼らの旅はまだ続いていく。
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