藤色の檻におちて

メルナス

第一部 『帝都編』

第一話

帝都の春は、まだ冷たさを残した風の中に淡い花の香りを織り込みながら、ひそやかに訪れる。


米内宗介よねうち そうすけは畜産課の資料室で帳面を広げ、蝋引きの筆をとっていた。前日の牧場視察の報告書をまとめるため、午前中から机にかじりついているが、なかなか筆が進まない。罫線の上を走る文字は乱れがちで、要点は綺麗にまとまらず、紙面に散らばる訂正の跡がその迷いを映していた。


「──そこは、この表現のほうがいいでしょうね」


すぐ背後からそっと差し挟まれた声音に、宗介はわずかに肩を震わせた。穏やかながら湿り気を帯びた声。耳に馴染み始めた、その声の主は深澤燈瑠ふかざわ とおるだった。


宗介の肩越しに、ふわりと藤色の髪が揺れた。ほどけた香油の匂いが微かに鼻をかすめる。燈瑠の細い指が帳面の端に触れ、滑るように紙面をなぞった。


「この一文は……もう少し具体的に。たとえば、草の状態や、牛の反応を書き添えるとよろしいでしょう」


宗介は唇を噛みながら、筆を握り直す。燈瑠の指先はあくまで淡々と紙の上をなぞるばかりで、直接的な圧は加えてこない。それでも彼女の気配がすぐ隣にあることに、意識が支配されていく。


カチリ、と微かな音がした。振り返ることなく、宗介は背中越しに資料室の扉が施錠されたことを察した。


「……鍵を?」


「ええ。集中できるように、と思いまして」


燈瑠は柔らかな微笑を浮かべながら、何気ない仕草で懐中から小さな鍵束を収めた。


外の廊下を行き交う職員たちの足音が遠く聞こえる。しかし、この狭い資料室の内側は別世界のように静まり返っていた。煉瓦造りの壁に囲まれた空間は、まるで音すら吸い込んでしまうかのようだった。


燈瑠は宗介の後ろに立ったまま、細やかな手つきで頁の隅を折り、また戻す。扇子で払うように軽く紙を撫でる仕草は、どこか遊ぶようでもあった。


「あなたは……やや、文章に迷いが出るのですね」


「すみません……」


「謝ることではありません。丁寧に仕事をなさる証ですから」


言葉は優しく、声音も穏やかだった。それでも宗介の心の底にひやりとしたものがじわりと広がっていく。燈瑠の手は宗介の筆を持つ指の上にそっと重なり、そのままほんの僅かに力を込めた。


「けれど……少し手を貸せば、もっと上手くまとまるはずです」


肌に触れる指の冷たさは、氷のようでもありながら、その内側に隠された温もりをわずかに感じさせた。


宗介は息を詰める。逃れようと思えばできたかもしれない。けれど、燈瑠の手はあまりに自然で、まるで親愛の情の表れのように柔らかかった。


「……ほら、ご覧なさい。こうすれば簡単です」


燈瑠の声に導かれるまま、宗介の手元の筆が動いた。わずかな補筆が加えられた報告書の文字は、不思議と整って見える。まるで宗介自身の筆跡が燈瑠の意志に溶け込んだかのように。


「お出来になりますのに」


「……ありがとうございます」


燈瑠は微笑しながら、宗介の耳元にかすかに息を落とした。


「いえ。あなたのためですから」


穏やかな声音の中に含まれる微かな響きが、じわじわと心の奥を侵食していく。燈瑠が何を考えているのか、宗介にはわからなかった。ただ、彼女の手のひらが離れた瞬間でさえ、その残滓が肌に焼き付いて離れなかった。


鍵のかかった資料室の中で、外の陽光は窓硝子を通してぼんやりと揺れていた。閉ざされた空間に溶け込んでいくような温もりと、決して逃れられない気配の狭間で、宗介はただ筆を走らせるしかなかった。


その手を導くのが誰の意思なのかを知りながら。


昼の鐘が遠く響いたとき、燈瑠はようやく宗介の肩から手を離した。


「そろそろ、お昼にいたしましょうか」


いつの間にか帳面の頁はほとんど埋まり、乱れた文字も最初よりいくらか整っている。宗介はこわばった手をそっと開きながら、どこか息苦しさを覚えていた。


「……行ってよろしいのでしょうか」


「ええ」


燈瑠はあくまで穏やかに微笑むだけだった。


「よく頑張りましたから、今日は少し甘いものでもご褒美にしましょう。果物の入った焼き菓子が売店にあったはずです」


自分に向けられる柔らかな声音に、宗介はほんのわずかに胸を締め付けられる。燈瑠の言葉は優しく、けれどどこか逃げ道を塞ぐような響きを孕んでいた。


小さな鍵束がまた懐にしまわれる音がした。


カチリ、と施錠が解かれる音が響き、資料室の扉が開け放たれる。燈瑠が先に立ち、光の中へ歩き出す。その後ろ姿を追いながら、宗介は自らの手のひらに残ったかすかな冷たさをそっと握りしめた。


燈瑠は廊下を歩きながら、時折振り返っては微笑む。その微笑みの裏に隠された真意を探ろうとするたび、宗介の胸の奥にはじわじわと名状しがたい熱が渦巻いていく。


けれど、それが何に繋がる感情なのかを言葉にするには、まだあまりにも早すぎた。


資料室の鍵は、すでに燈瑠の懐の奥に隠されている。


宗介の知らないうちに、ほんのわずかな支配の糸が絡まり始めていることに気づかぬままに。


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