第26話 優しい男

 光に名前を呼ばれた雅音は、どきりとした。


 比呂からの虐めは、自分で何とかする気でいた。だが、三葉を筆頭とした友人たちが雅音の知らないところで動いてしまった。そして、絹枝議員や校長や教頭まで巻き込んでしまっている。


 これは、もはや雅音一人の問題ではなくなってしまった。校長を巻き込めば学校を巻き込んだ問題になるし、議員である絹枝を巻き込めば地域の問題になるかもしれない。


 この状況は、三葉たちが作り出してくれたものだ。


 三葉は、他校に通っているにもかかわらず証拠集めを頑張ってくれた。


 その頑張りを隠すために、光は必死に雅音を引き止めてくれた。


 萌黄は書類を作ってくれた。


 一丸となって雅音を守ろうとしてくれた友人たちに、雅音は応えなければならない。


 けれども、三葉たちが動いていると知れば、雅音は本気で三葉を止めたであろう。


 三葉と萌黄。光だって、大切な友人だ。


 特に、三葉と萌黄は女子だ。男子の雅音と違って、圧倒的に弱い存在だ。だから、危ないことはしてほしくない。


 なのに、友人たち雅音のために動いてくれた。比呂を追い詰めて、雅音が有利な状況を作り出してくれたのである。


「三葉、光、あと萌黄……。俺のために動いてくれてありがとう。でも、俺は自分で……。いや、もうそういう時期も過ぎているのか」


 雅音は、息を吐く。


 昔からの友人は、いつだって雅音に優しい。


 その優しさに甘え続けるのは良くないと思って遠ざけてしまうこともあるというのに、友人たちは何時だって雅音のために全力でいてくれる。


 今回の虐めについてもだ。


 自分は限界だったのだろうか、と雅音はぼんやりと考える。


 もう少し頑張れたのかもしれない、という後悔が胸を苛まれていたがもう遅い。三葉たちは、雅音はもう限界だと分かっているから動こうとしたのだ。


「壊れたら、遅いんだ」


 雅音の考えを読んだかように、光は口を開く。その瞳には、悲しみがあった。


「もしも、雅音が壊れたら……。誰にも直せないかもしれない。だから、壊れるまで頑張るのは止めてくれ」


 光は、雅音のことを誰よりも知っている自信があった。雅音は誰よりも負けず嫌いで、真っ直ぐだ。けれども、それが常に良い結果に繋がるとは思えない。


「俺は、壊れた雅音なんて見たくはない。泣いている雅音も見たくはないんだ」


 苦難に立ち向かう姿勢は立派だ。


 けれども、それで雅音が傷つくのは光は嫌だった。光だけではない。三葉や萌黄だって、嫌なはずである。


「俺は……」


 その先を進めようしたのに、雅音は言葉が喉につっかえる。なかなか先に進めず、段々と苦しくなる。


 虐めを受けていたという報告をするのは、大したことがないと雅音は思っていた。


 自分で解決ができるものだと思っていた。


 けれども、どうしても雅音は言葉が出ない。


 苦しい、と思った。


 まるで、溺れてしまったかのようだ。


 ひゅぅ、と空気が漏れる音が喉の奥から聞こえる。目の前の光景が、少しずつ暗くなっていく。


「雅音!深呼吸をしろ!!」


 光の言葉に、雅音は驚く。


 気がつけば、雅音は過呼吸を起こしかけてい。


 それに気がついた光は、雅音のことを心配そうに見つめている。そして、落ち着けとばかりに背中をゆっくりと撫でてくれた。


 雅音は、意識して呼吸をする。やっとのことで呼吸を整えて、光改めてを見た。


 光は、ほっとしているようだった。


「辛いんだったら、保健室にでも行くか?ここまでやれば、後は雅音がいなくとも何とかなると思うし」


 光の言葉は、正しいのであろう。


 比呂の悪あがきのような反論は、意味をなさないだろう。けれども、雅音は離れることを拒否した。


 雅音は、落ち着いて周囲を見た。


 ここにいるのは、ほとんどが雅音の味方だ。


 三葉に光、萌黄。そして、絹枝。


 こんなにも御膳立てされた舞台はないだろう。雅音が虐めはあったと言えば、比呂は間違いなく糾弾される。


「……ここまできて、逃げるわけにはいかないだろ」


 雅音の言葉に、光はゆっくりと頷いた。


 そして、少しだけ雅音から離れる。


「雅音。俺たちは、お前の味方だ」


 光は、三葉と萌黄に視線をやる。彼女たちも真剣な顔をしていた。


「これで足りないというのなら、もっと証拠を集めてやる。これ以上は喋れないと言うならば、無理やりにでも先に進める」


 光が、雅音の耳元で囁く。


 その声は、どこまでも優しかった。そういえば、光という男は友人たちの中で一番優しいのであったと雅音は思い出す。


「だから、お前の好きにやれ」


 それが、光の言葉だった。


 雅音は、目を瞑る。そして、この舞台に一人の罪人を呼ぶことにした。


「俺は虐めを受けていました。しかし、その虐めを助長させた人間がいます」


 雅音は、絹枝の顔を見た。


 少年というには柔らか過ぎる美貌を持つ少年の瞳に、絹枝は消えない炎を見たような気がした。


 見た目だけなら弱いだけの子供だと思っていたが、なかなかに雅音という少年は豪胆そうである。


 虐めのターゲットとして会わなければ、雅音の第一印象は変わっていたであろうと絹枝は思った。


 そもそも自分が虐められていた証拠が集まっていたというのに、それでも比呂を救おうとした少年だ。その精神は理解が不能だが、芯がある。


「クラスの担任教師。そして、校長および教頭同罪だと思っています」


 雅音の言葉に、校長と教頭は虚を突かれたような顔をした。今まで比呂だけを責める流れであったから、自分たち被害は被らないとでも思っていたに違いない。


 愚かしい、と絹枝は思った。


 校長と教頭は、大慌てで雅音の言葉を否定する。その姿は、誰が見ても保身に走る人間そのものであった。


「私たちは虐め問題など知らなかったんだ。知らなかったものには対処のしようがない!」


 校長の言葉に、教頭は何度も頷いた。


 自分は悪く無いと何度も繰り返す。その姿だけで、校長と教頭が小者であると知らしめているようなものだ。


「悪いのは担任教師だ。クラスで起きていることを知っていたにも関わらずに、対処せずにいた。しかも、上に報告することす怠った!」


 教頭は、この場にいない担任教師に罪を擦り付ける気らしい。たしかに担任教師は虐めを見て見ぬふりをしたという大罪がある。


 しかし、これほどの噂が流れていたにも関わらず、校長も教頭は虐めをないものにした。これもまた大罪であった。


 三葉たちが、絹枝を巻き込んだ理由は校長と教頭のためだった。いくら生徒が虐めがあると叫んだところで、校長も教頭も相手にはしないだろう。


 ましては、三葉は他校の生徒である。話すら聞いてもらえないことは、簡単に予想ができた。


 こういう手合には、より社会的地位が高い人間をぶつけるべきだ。そう思ったからこそ、三葉は絹枝を呼んだのである。


 絹枝の議員という肩書は、思った通り校長や教頭を引っ張り出すのに役立った。


 一方で、絹枝はため息を内心つく。


 校長と教頭は、考えていた以上に低能だったからだ。これだけ広まっていた噂を知らなかったで通すのは、自分は無能だと言っているようなものである。


 担任教師も気づかなかったと言うのだろうか。


 それには無理があるか、と絹枝は考える。


 雅音が受けていた虐めは、陰湿なものよりも暴力的なものが多かった。良くも悪くも派手な虐めで、担任教師が知らなかったというのは無理がある。


 そして、生徒の間でも有名な虐めは、教師の耳にも届いたであろう。担任教師であれば、なおさらに。


 そんな虐めの話を知らないで通そうとする愚かさは、子供でも分かるであろう。絹枝は、この学校で酷い虐めが発生してしまった原因を理解した。


 生徒に注意をはらわない校長や教頭が、暴力を隠せるという錯覚を生徒たちに植え付けてしまったのである。


 校長や教頭が生徒たちに対して興味を示し、適切な動きが出来る人間であれば雅音の虐めは激化しなかったであろう。


「あなた方のことは、教育委員会に報告させてもらいます。無論、担任教師も。これは教育委員会の判断になりますが、事によっては学校全体の調査をするかもしれません」


 マスコミは、学校で起った過激な虐めに好奇心を持つだろう。


 子供たちには過剰は取材はできないから、大人である教師たちにマスコミの目はいく。責任者である校長と教頭には、より一層の注目が集まるはずだ。


「工藤議員。ここは、穏便にすませませんか?」


 教頭が冷や汗をかきながら、絹枝に話しかける。穏便にすませるという言葉に、絹枝は嫌悪感を覚えた。


「それは、つまりは被害者である雅音君を見捨てろということですか?」


 そんなことは出来ない、と絹枝は思う。


 可愛い姪っ子たちが頑張ったということもあるが、絹枝は雅音という少年を気に入り始めている。彼のために諦めたくない、と思うのだ。


 そう思わせるだけの魅力が、雅音にはあった。


 雅音の中身を知れば知るほどに、美しい容姿はおまけなのだと思い知らされる。素直で率直すぎる性格が、不思議に愛おしく感じるのである。


「姪御さんは証言を集めるために学校に忍び込んだという話も出ていますし、そういうことは周囲に知られない方がいいでしょう」


 校長は、絹枝と三葉を見比べる。


 絹枝にとって、姪っ子が他校に忍び込んだというのは良い噂にはならないはずだ。姪の悪評が政治生命を絶つとは思えないが、潔癖を求められる議員には気になる染みになると校長は考えたのである。


「ちょっと……」


 三葉は思わず校長の近づこうとしたが、それを光が止める。光は、笑っていた。


「俺にやらせろ。せっかく来てもらったのに、工藤さんに迷惑をかけるわけにはいかないだろ」


 その言葉に、三葉は光がやりたい事を察した。それは、三葉がやりたい事だった。光だけが泥を被るのはことはない。


 三葉が何かを言う前に、光は黙るようにサインを送る。唇の前に人さし指を立てる仕草は、光には似合わない。


 光は、校長と教頭の前に立つ。身長の高い光が目の前に立つことは、それだけでちょっとばかり怖いであろう。拳を鳴らしているのだから、なおさらに。


「歯を食いしばれ!」


 光は、力いっぱい校長を殴った。


 ついで、教頭を殴る。


 初めて人を殴った光の感想としては、思ったよりも痛くはないなというものだった。てっきり、もっと拳は痛いと思っていたのに。


 拳は殴っている方も痛いと聞いたことがあったが、その話は嘘だったらしい。光の拳は、まったく痛まなかった。


 光の暴力は止まらずに、校長と教頭の腹を蹴った。光の突然の暴力に、三葉を除く周囲は唖然としていた。


 今までの光は、その優しい性格ゆえに暴力ごとは苦手だった。けれども、今だけは腹の底からわいてくる怒りに身を任せたのだ。


「た……助けてくれ」


 光は、助けを求める校長と教頭の手を踏み付ける。助けを呼ぶことも許せないとばかりに。


「人をこんなに殴って……。どうなるか分かって……」


 校長の言葉に、光は苛立ちを覚える。


 雅音は痛みを感じていたのに、誰も救ってはくれなかったのだ。その事を忘れてしまったかのように、校長と教頭は助けを求めた。愚かすぎて、光は笑ってしまった。


「殴られたら痛いだろ?蹴られたら痛いだろ?なのに、雅音は誰にも助けてもらえなかったんだよ」


 雅音の苦しみを理解させるには、これだけでは足りない。もっと思い知らせてやらないといけない。


「もういっそのこと死んでやり直せ」


 それは、光の本心だった。


 馬鹿は死んでも治らないと言うが、いっそのこと死んでしまった方が世のためになるだろう。校長や教頭の事なかれ主義は、雅音だけではなく多くの学生を苦しめたかもしれないからだ。


「光……駄目だ。何を考えているんだ!!」


 雅音は、光の背中を抱きしめた。そのまま光を校長たちから引き離す。


「こんなことをやったら、お前の経歴に傷が付くだろ!なんで、こんな事をしたんだ!」


 雅音は、光を叱りつけた。


 その時の光は、嫌な笑みが浮かべていた。その笑みに、雅音は思わず震えた。


 光は、優しい男だ。


 優しすぎて、侮られる事すらある。それなのに、今は少しだけ光が怖いと雅音は思った。それは、萌黄も同じようだ。


 三葉だけが、静かに光を見つめている。


 三葉は、羨ましいと思っていたのだ。自分が光のように大きな身体を持っていれば、彼のように大暴れできただろうに。


 残念ながら三葉は、可憐な少女だ。


 人を殴ったところで、たかが知れている。とてもではないが、味方ですら怖がるような拳を振るうことなど出来ない。


「雅音が、俺を止めてくれて良かったな。雅音には、比呂を止めてくれる『誰か』はいなかったみたいだけどな」


 光は、大人たちに雅音以上の苦しみを与えたかったようだ。殴りたりない、という顔をしている。


「君……。こんなことをして、ただですむと思っているのか!」


 校長の叫びに、光はにたりと笑った。


「思ってなんかいないよ。ただし、箔はついたよ。俺の学校で、他校の校長と教頭を殴ったなんて英雄みたいな扱いをされるだろうからな」


 校長は、そのときになって光の制服が有名な底辺高校のものだと気がつく。粗暴な生徒が集まる学校の人間が、友人のために身体をはるなど校長は思いもしなかったのだ。


「比呂……。お前も、どうして雅音から庇われていたのか分かるか?」


 光は、比呂に尋ねた。


 名前を呼ばれるとは思わなかったらしい比呂は、一瞬だけ驚いた顔をする。彼の光の苛烈さに目を奪われて、わずかながら比呂は反応が遅れたようだった。


「雅音は……。お前が野球部に所属している時は、良い奴だったって言うんだよ。それだけで、雅音はお前に期待をしていた」


 光は、比呂の胸ぐらを掴む。


 光は、暴力に慣れていた。


 今の今まで拳を振るったことはないが、学校で腐るほど見てきたのだ。唖然として動けなくなった比呂程度なら殴れる。


 そうやって、すでに校長と教頭を殴っていたのだ。今更になって、後悔などはしない。


「お前は、雅音にこの上なく優しくされていたんだよ。お前が、雅音を殴っていたときもな」


 光の言葉に、比呂は言葉を失った。


 雅音は、輝いていた頃の比呂を見ていたのだ。


 怪我をして、どうにもならなくなった比呂ではない。


 野球部のエースとしてきらめいていた頃の自分を見て、その頃にいつかは戻れると信じていたのだ。


「お前は、その優しさに気づかなかった」


 なんて愚かなんだ、と光は言う。


「歯を食いしばれ……」


 光は、拳を振り上げる。


 力を込めて光は、比呂を殴った。


 今まで以上に力の入った拳だったからだろう。比呂は、校長たちとは違って奥歯が折れたようだった。


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