金木犀(6)

 翌朝、目覚めたときから身体が重かった。人と関わると必要以上に心と身体に負担がかかるらしい。なんとか頑張って身体を起こしてみたけど、朝ご飯を目の前に全く食欲が湧かない。とりあえず炊き立てのご飯を口に入れてみる。飲み込むタイミングがわからなくてしばらく口の中に粉々のご飯が残った。箸を持つ手が小さく震えている。

「今日は休んだら? 実家に連絡して、学校に電話してもらいなさい」

 見かねたばあちゃんが言う。朝ご飯にほとんど手をつけないまま、ばあちゃんの言うとおり学校を休むことにした。

 自室にしている奥座敷に敷いた自分の布団にくるまりながら、ゆっくりと目を瞑る。昨日の今日だから小野田が自分のせいだと気にしているかもしれない。そう思ったから一応小野田にメッセージを送る。

『ただ単に体調が悪いだけだから。小野田のせいじゃない』

 それだけ送って再び目を瞑った。

 久しぶりにこんなふうになったなと思う。人と関わると自分の心が落ち着かないことが多い気がする。だからこそ人を避けて生きているし、その方が自分の精神にも良いと思っている。自分の思い通りに動く人なんていないし、自分の気持ちを丸ごと理解してくれる人もいない。人の意見はぶつかり合うのが当たり前で、あくまで自分の心はその対立を受け入れられる状態じゃないという、ただそれだけのことだ。それを理解して諦めてもらうにはどうしたらいいのだろう。突き放すような言葉を並べただけでこんなにも心が不安定になるのに、これ以上なにをしたらいいのかわからない。

 エアコンが効いた涼しい部屋で静かに眠った。昼ご飯も食べないまま、いつの間にか辺りはオレンジ色に染まっていてすっかり夕方になっていた。茶の間の机を見ると、ばあちゃんの書き置きがある。近所でお茶をしてそのまま買い物に寄ってくるらしい。

 最初はばあちゃんと二人だけで生活するのが不安だった。自分がこういう身体というのもあるし、ばあちゃんに過度に心配をかけたら申し訳ないと思っていた。でもそれは杞憂で、ばあちゃんは必要以上に俺の身体を案じることはなく、それが逆に一緒に住む自分にとって気が楽だった。それでいて病気にも理解があるからありがたい。たまに無理やり夏祭りに連れ出されるみたいなこともあるけど、そういう強引な行動も引きこもりがちになってしまう俺に対するばあちゃんなりの気遣いだった。

 インターフォンが鳴る。玄関の古い引き戸を開けると、肩で息をしている小野田が立っていた。茶色く長い髪を後ろで一つにくくっている。

「立山、体調大丈夫⁉︎」

「大丈夫……。そっちこそ、大丈夫? 汗すごい」

「学校終わって走ってきたから。立山連絡しても返ってこないし、倒れてんじゃないかと思って」

 そう言われてスマートフォンを見る。たしかに小野田から五件ほどメッセージが届いていた。

「もしかして、ただ見てなかっただけ?」

「……ごめん」

「なーんだ。またあたしの心配し損じゃん」

 そう言って汗だくの小野田が笑う。

 思わせぶりな行動はやめようと思っていても、こんなふうに自分のために走ってきてくれる人を邪険にはできない。自分のことを諦めてほしいとは思うけど、必要以上に冷たくできないところが自分の弱いところだ。

「少し上がっていけば」

 そんな複雑な思いを抱えた俺とは異なり、小野田が嬉しそうに「やった!」と言った。

 とりあえず小野田を茶の間に通して古いエアコンに電源を入れる。あまり効きは良くないけど、ないよりはましだろう。小野田は遠慮することなくローテーブルの下で足を伸ばしている。

 冷蔵庫を開けると、ばあちゃんが買っておいてくれたオレンジジュースを見つけた。来客用のグラスを二つ用意してそれを注ぐ。なにかお菓子もと思ったが、あいにく今どきの女の子が好きそうなものはなかった。

 ジュースを持っていくと、小野田は半分ほどを一気に飲んで「生き返るー」と言った。美味しそうに喉を鳴らす小野田を見て、自分もオレンジジュースを口にする。それはいつもと変わらない味だった。

「昨日はごめんね」

 グラスに触れたまま差し向かいに座った小野田が言う。

「あたし、立山の病気のこととかなんにも知らないで自分の理想を押しつけてた」

「いや、別に。病気のことは俺自身が言いたくなくて言っていなかっただけだし、知らない人がああ言うのは当然だろうから気にしていない」

 むしろ小野田からそんなの答えが返ってくるとわかっていてあえて聞いたとは言わなかった。

「パニック障害っていつからなの?」

「中学三年からかな。ちょうど一年前の今の時期くらいに体調を崩すようになったんだ」

 本当は他人に詳しく自分の病気の話はしたくない。思い出すという行為によって、今の自分ごと過去に戻されるような感覚になって気持ちが悪くなるからだ。現に今、お腹の辺りがぐちゃぐちゃにかき混ぜられているような感じがする。

「結構、大変そうだよね」

 小野田がローテーブルの上にグラスを置く。オレンジジュースは三分の一ほどに減っていた。

「あたし、正直パニック障害っていう病気あまり知らなくてさ。立山に色々言われたけど、ピンとこなかったんだよね」

 まあそうだろうなと思う。パニック障害というと、大抵の人が名前を聞いたことがある程度だ。最近こそ芸能人の影響で積極的に知ろうとする人が出てきたけど、それでも正確に理解している人は多くないだろう。その病名を聞いて突然暴言を吐いたり暴れたりなど、自分を制御できなくなる病と勘違いしている人もいるくらいだ。それゆえに病気の話をしたくないというのもある。

 昨日小野田にわざわざ病気の話をしたのは、それが自分のことを諦めてくれる一因になりそうだからというただそれだけの理由からだった。付き合ったとしても自分がやりたいと思っていることはなに一つ一緒に楽しめない。それだったら諦める。そんなふうに思われたなら、それは本望だった。

「ジャーン!」

 そう言ってテーブルに乗り出すように小野田がスマートフォンを掲げた。なにやら画面がたくさんの文字でびっしりと埋め尽くされている。

「昨日、家に帰ってからパニック障害について調べて勉強したの。だから今日めっちゃ寝不足だし、肩もごりごり」

 小野田が重そうに肩を回す。

「病名くらいで詳しいことはなんも知らなかったからさ。立山がどんなもんを抱えているか少しでも理解したかったんだよね」

「別に、そこまでしなくても」

「好きな人のことを知りたいっていうその延長なだーけ! あたしの自己満だから、そこはほっといて」

「まだ好きなんだ、俺のこと」

「なにその言い方。あたしこんなんじゃ全然立山のこと諦める気にならないけど」

 小野田が眉を吊り上げて言う。失礼だとは思うけど、これは自分の本音だった。俺がもし小野田と同じように普通側の人間で昨日の話を聞いたら、わざわざ好き好んでこんな人間と一緒にいたいとは思わないと思う。それは別に差別とかそういうのではなくて、ただ普通に自分自身が今の自分とそばにいたいと思わないからだった。

「昨日普通って言ったけど、なんでもいいんだよ。あたしは立山だったらなんでもいいの。そばにいて、こうして喋っているだけでも充分」

 そう言った笑顔が眩しくて、自分にとってはどうしようもなく苦しかった。

「俺、好きな人がいる」

「だからそんなのもわかった上で──」

「病院の先生なんだ」

「え」

 俺を振り向かせることに対して自信満々だった小野田が初めて動揺したように見えた。グラスに触れた彼女の親指が落ち着きなくその表面を上下に動く。

「俺の担当医で半分一目惚れみたいなもの。俺のことをなんでも理解してくれて、話もよく聞いてくれる。優しくてあたたかくて穏やかで……一緒にいるだけで安心するんだ。去年自分が一番つらかったときに俺の気持ちに寄り添って、自分でも気づけなかった自分の欲しい言葉をかけてくれた唯一の人なんだ。先生と話をしているその間だけは自分が病気だってことを忘れられる。自分が普通の人間でいられる気がするんだ。先生には心から感謝しているし、これが俺にとっての好きってことなんだと思う」

 カチ、カチ、と規則正しく茶の間の壁掛け時計が時を刻む。グラスの上を滑るように動いていた小野田の指が止まる。彼女がゆっくりと息を吸う音がした。

「そんなんあたし、病気の理解度とかで勝てるわけないじゃん」

 小野田が諦めを含んだ笑みを浮かべる。その声は昨日とはまた違う弱いもので、なにか冷たさを感じた。

「あたしが昨日バカなりにたくさん調べて、それで立山のことを少しでも理解した気になって……それってほんとにただのバカじゃん。病院の先生って、あたしが調べたことも全部当たり前に知ってんでしょ? 最初から無理じゃん。一番つらいときに話を聞いてくれたから好きって、そんなんずるい。じゃあ例えばそれがあたしだったら立山はあたしのこと好きになった? 先生じゃなくて他の誰かだったらその人を好きになったわけ? それってタイミングが早いか遅いかの違いだけじゃん。今だったらあたしだって話くらい聞けるよ。立山がつらくて苦しくてどうしようもないときはそばにいられるっての」

 やけくそみたいに小野田が残りのオレンジジュースをあおる。タン、と大きな音を立てて、空のコップをテーブルに置いた。睨むような上目と対峙たいじする。

「てかさ、立山のそれって本当に本当の好きなわけ? 恋愛の意味での」

 投げやりとも取れるその言葉で無神経に心臓を握り潰された気がした。

「だってさ、そもそも病院の先生はそれが仕事なんだから、話をよく聞くなんて当たり前のことだし、患者さんの話を否定することってなくない? 立山が言った好きなところって別に先生からしたら医者として当然のことしてるだけじゃん。それに今の言い方だって、なんか先生のことを好きだって自分に言い聞かせてるみたいに聞こえて、本当に恋愛の意味での好きかどうか伝わってこなかったんだけど」

 怖くて一番聞きたくない言葉たちが並んだ。感情が頭に上って顔を熱くする。握り潰された心臓がその言葉でさらに粉々にされた気がした。気づいたらその場で立ち上がって、小野田を見下ろしていた。立ちくらみで一瞬目の前が真っ暗になる。なにかに気づいたように目を見開いた小野田が「あ、ごめん」と呟く。その小さな声を遮った。

「恋愛の好きかどうかって、どうして小野田が判断するの。どうして小野田が全部わかったように言うの。好きの形なんてみんな違うだろうし、俺がそうって言っているんだから、それは本当の好き以外のなにものでもないでしょ」

 なにか自分が必死になって見ないようにしていたものに気づきたくなくて、それをかき消すように早口で言葉を並べる。

 目の前の小野田が再び口を開こうとする。頭の隅に隠したゴミ箱をひっくり返されるのが怖くて息を吸い込んだ。

「小野田はなんとか自分のことを見てもらいたくてそう言っているだけでしょ。申し訳ないけど、そういうの通じないから」

「はあ⁉︎ さっきも思ったけど、なにその自惚れた言い方! そんなんじゃないし」

「鬱陶しいんだよ。小野田のその好意からくる無理やりな理論とか言葉とか、そういうの全部が俺にとっては迷惑でしかないんだよ。好きかどうかなんて俺が自分で判断する。俺だって自分の気持ちを勝手に小野田に決められたくない!」

 鼓動が速くなって呼吸も荒くなる。自制のきかない言葉たちが脳のフィルターを無視して次々と声になっていく。

「俺は小野田がそばにいると苦しい。つらくてどうしようもなくなる。心が忙しなくて面倒で、正直悪影響でしかない。本当に俺のことを想うなら、そばにいないでほしい。放っておいてほしい。一人にしてほしい。もうここから出てって…………出てけよ!」

 そう声を荒らげたとき、小野田の肩が小さく震えたのを見た。彼女に染みついた恐怖を少しだけ知っているはずの俺が、それを思い出させてしまったのかもしれない。

 でもそんなことを気にする余裕なんてないほど、自分の中で大切ななにかが壊れてしまいそうになっていた。それを守るために俺は彼女を傷つけることを選んだ。

「ごめん、なさい」

 そんな途切れ途切れの消え入りそうな声を残して、足早に小野田が茶の間をあとにする。玄関の引き戸がガラガラと音を立てて静かに閉められる音がした。

 息が上がって倒れるようにその場に横になる。天井の木目が歪んで、そこに化け物が見えるような気がした。木目に浮かぶたくさんの節が全て人の目に見えてきて、瞬きもせずにこちらをじっと見つめているようだ。心臓と呼吸のリズムが少しずつずれていって、波のように発作が襲ってきた。胸をさすって大丈夫だと言い聞かせる余裕もない。ただただ怖くて、つらくて、勝手に涙が溢れてきた。這うようにして、なんとか奥座敷から薬の袋を取ってくる。本当は駄目だとわかっているけど、一刻も早く楽になりたくてオレンジジュースで薬を流し込んだ。喉が狭くなっていて、たった三ミリほどの薬がうまく飲み込めない。薬を飲むだけなのに全力で走ったみたいに息が上がっていた。仰向けになって茶の間の天井を見つめる。唇をどれだけ噛みしめても、何度瞬きしても、ぼんやりとした視界は晴れなかった。薬が効くまでの数分間が永遠のように感じる。喉元の脈が大きく鳴るたび、ないはずのなにかが心臓から喉へ湧き上がってくる気がした。

 やっぱり他人と関わると碌なことがない。自分が触れられて嫌なところ、見たくない部分を的確に踏み抜いてあらわにしてくる。他人に振り回されて苦しくなるくらいなら、一人でいる方がましだ。

 久しぶりに一年前の自分が顔を出してくる。あのときと同じように繰り返せばいい。煩わしいなら距離を置けばいい。学校での人間関係なんて苦しさしか運んでこないのだから捨ててしまえばいい。自分には藤原先生がいる。今日の出来事だって先生に話したら、きっと優しく寄り添ってくれるだろう。

 大丈夫、だいじょうぶ、ダイジョウブ──

 そう繰り返す言葉で、頭の中にあるゴミ箱をさらに奥へと追いやった。

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