金木犀(2)
始業式のあとの大掃除は養護の先生の気遣いで保健室の掃除を任された。そのあと行われた三教科の実力テストでは、担任の先生に保健室での受験を許された。
手ごたえありのテストを終え、帰路へ着く。下駄箱からローファーを取り出して、一つ息を吐いた。発作が治まった心臓の音は嘘みたいにゆっくりと耳に響く。久しぶりの学校で発作が起きたのは一回だけだった。
自分は本当に恵まれていると思う。病気に理解のある先生でなかったら、俺は今頃不登校になっていただろう。
昇降口で黒い傘を開く。少しでも気温の影響を受けないための日傘だ。今の所帰りの道中で発作が起きたことはないけど、夏というだけで不安が顔を出してくる。用心することに越したことはない。
学校の門を出るまでは部活に向かう生徒や下校する生徒の物珍しそうな視線が何度か向けられたけど、気にしない。相手が自分のことを知っていても、自分は知らない人たちだ。その人たちにどう思われようと関係ない。
「たーてーやーまっ」
その声とともに傘を持っていない左腕がずしりと重くなる。腕を掴んだ主は小野田だ。
「日傘いいね。最近めっちゃ暑いし、日差しなんかもう暴力だよね。かっこいいじゃん、それ」
そう言いながら、小野田が自分から離れていく。ちょうど日傘に入らない程度の距離を取って隣を歩き始めた。
うわー、あっつーい、だるーい、学校出る前に日焼け止めを塗り直しゃあよかった。そんな言葉を並べてながら、当然のように小野田が隣を歩いている。
「小野田、電車通学じゃないの? こっち駅から真逆だよ」
「別にいーの。あ、コンビニあんじゃん。立山アイス買ってこーよ」
「寄らない、買わない」
「ケチ!」
「小野田は寄ればいいんじゃない」
「ひとりで寄っても意味ないし」
そう言って小野田が口を尖らせる。
コンビニみたいな涼しいところに寄ってしまったら、外との気温差にきっと心臓が耐えられない。せっかく帰り道は発作が起きたことがないのに、もしこれがきっかけになってしまったら、俺は小野田のことを一生恨んでしまうかもしれない。──なんて、さすがにそれは冗談だけど。
でも、今はそれくらい神経質になってでも自分の身体には細心の注意を払いたい。周りの人たちにこれ以上負担をかけたくない。
学校から徒歩七分ほど、木造平屋の古い自宅には小野田のおかげもあり、あっという間に到着した。自宅の生垣の前で小野田が立ち止まる。
「そんじゃ、立山。また明日ね」
「待って。小野田、こっちになにか用があったんじゃないの?」
来た道を戻ろうとしている小野田を思わず呼び止めた。振り向いた小野田が何度も瞬きをする。
「あるわけないじゃん。立山が保健室に行ってたから心配で送っただーけ」
じゃーね、と何事もなかったようにその場を立ち去ろうとする小野田を再び呼び止める。
「今度はなに」
「ちょっと、こっち」
身体が勝手に動いて、気づいたら小野田を玄関に招き入れていた。
「待ってて」
玄関で小野田を待たせて、台所へと向かう。途中で雑にリュックを茶の間に放り込む。ばあちゃんがいたら、物をこんなに雑に扱ってと叱られそうだけど、幸い今は踊りの習い事で留守にしていた。
それにしても、あれだけ暑いとか怠いとか言っていたのに小野田はわざわざ遠回りして自分をここまで送ってくれたのか。小野田の自分に対する好意には応えられないけど、彼女の真っ直ぐな気持ちからくる気遣いや優しさは純粋に嬉しかった。お礼くらいはと思って、冷凍庫を漁る。ばあちゃんがこの前追加していたスイカの棒アイスが一本余っていたから、それを持って小野田の元へと戻った。
「これ、よかったら食べてって」
「
「やった! じゃあもらう」
小野田が玄関に足を投げ出して廊下に腰掛ける。そのまま勢いよく棒アイスにかじりついた。口に含んだアイスのせいで、彼女の頬がまん丸に膨らんだ。
ふと夏休みのことを思い出す。
「ほっぺた、綺麗に治ったんだね」
その言葉に小野田が苦そうな顔をして「あれから三日くらい腫れ引かなかったけどね」と笑った。
そのあと小野田は子供みたいに黙ってアイスを食べ切った。
「ごちそうさまあ」
「ゴミもらうよ」
「ありがと。あ、帰る前に日焼け止めだけ塗らしてもらっていい?」
小野田がポーチから取り出した日焼け止めをカチャカチャと鳴らす。陶器みたいに白い肌にそれを伸ばしているのを見て、その場を離れた。自室の衣装ケースからタオルを一枚引っ張り出す。今年まとめ買いした冷感タオルだ。
「なにソレ」
目の前に差し出した黒いタオルを見て、小野田が首を傾げる。
「冷感タオル。外暑いから、ないよりはましだと思う。大量にあるから別に返さなくていいし、そのまま捨ててもらっても構わない」
事務的に言葉を並べていたら、目の前の小野田が吹き出した。
「なに」
「いやあ、立山は立山のおばあちゃんそっくりだなーって。立山のおばあちゃんも夏祭りんとき、こうやって色々と世話焼いてくれたから」
そう言って、小野田が塗り直し終わった日焼け止めをポーチの中へしまう。
「あ、そういえば、おばあちゃんに伝えといて欲しい。浴衣、クリーニングに出したら綺麗になりましたーって」
「それはよかったね」
「めっちゃ時間かかったし、もう着ることはないだろうけどね。でもほんとに助かったから。ありがとうございましたって、よろしくね」
コレもありがと、と小野田が首に巻いた先ほどのタオルに触れた。玄関の引き戸に手を掛けた彼女が再び「あ、」と言って振り返る。
「そーだ、立山。連絡先教えてよ」
「なんで」
「なんでって、好きになっちゃったもんだからさ、夏休み中立山のこと知りたいなーって、あたしのこともアピールしたいなーって思ってたけど、連絡手段なかったんだもん。さすがに家を知ってるからっていきなり押しかけたら嫌われるかもじゃん」
「俺、SNSやってない」
「じゃあ電話番号でいいから」
そう言われて半ば押し切られる形で連絡先を奪われた。
「よしっ。連絡先もゲットできたことだし、大人しく帰るわ」
小野田が古い引き戸に手を掛ける。
「小野田、今日はここまで送ってくれてどうもありがとう」
その言葉に振り返った小野田が満面の笑みを浮かべた。
「やっぱりあたし、立山のことめっちゃ大好きだ! じゃーね、また明日っ」
応えることも頷くこともせず、手だけを振って見送った。
また空振りを増やしてしまった。自分の行動がただの世話焼きと捉えられるならいいけど、それが小野田にとっては喜ばしい思わせぶりな態度になってしまうなら、これからはそういう行動は控えようと思った。
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