探さないでください

ウニぼうず

消えた女優

カフェの窓際で、北川春菜はノートを開き、ボールペンを指で回していた。カップの中のコーヒーはすっかり冷めている。ノートには昨夜まとめた取材メモが並んでいたが、どうにも集中できなかった。


店内には軽快なジャズが流れ、コーヒーマシンの蒸気音が微かに響く。いつもなら心地よい空間のはずなのに、今日はなぜか落ち着かない。仕事の合間によく訪れるカフェだが、妙に視線を感じる気がした。


その違和感の正体を探る間もなく、肩越しに人の気配を感じた。


「真琴さん……ですよね?」


驚いて顔を上げると、そこには見知らぬ女性が立っていた。


年の頃は自分と同じくらい、二十代後半。シンプルなワンピースに落ち着いた雰囲気の女性は、じっと春菜の顔を見つめている。


「え……?」


彼女の表情には驚きと戸惑いが入り混じっていた。まるで旧友と再会したような親しげな雰囲気がある。しかし、春菜には彼女の記憶がまるでなかった。


「すみません、人違いじゃないですか?」


軽く微笑みながら答えると、女性は一瞬戸惑ったようにまばたきをした。


「……あ、ごめんなさい。でも……」


それでも、納得できない様子で、もう一度じっくりと春菜の顔を見つめる。


「本当に……白石真琴さんじゃないんですか?」


その名前を聞いた瞬間、春菜の心に微かな違和感が広がった。聞き覚えがあるような、ないような。しかし、確信を持って言えることがひとつあった。


「いえ、私は北川春菜です。白石真琴さん……って、どなたですか?」


女性はますます困惑したように視線をさまよわせたが、やがて気まずそうに笑った。


「ごめんなさい……本当にそっくりだったから、つい……。失礼しました」


軽く会釈をすると、彼女は足早にカフェを出て行った。


春菜はその後ろ姿を目で追った後、ふと胸の奥に広がる不穏な感覚を振り払うようにスマホを取り出した。


「白石真琴」


検索窓に打ち込む。画面に表示された画像を見た瞬間、息をのんだ。


――そこには、自分と瓜二つの女性の写真があった。


驚きながらスクロールすると、いくつものニュース記事が目に飛び込んできた。


「舞台女優・白石真琴、突如SNSに『探さないでください』と投稿し失踪」

「関係者も困惑、ストーカー被害の可能性も?」


次々と表示される見出しを食い入るように見つめる。


――探さないでください?


その言葉が脳裏に焼きつく。思わず呟いた声は、冷めたコーヒーの苦みとともに喉の奥へ溶けていった。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

カフェを出た春菜は、スマホの画面をスクロールしながら歩いていた。

白石真琴の失踪に関する記事は、数日前からネット上で話題になっているらしい。


「人気舞台女優の突然の失踪」

「ストーカー被害の可能性も?」


いくつものニュースサイトが似たような記事を掲載していた。そこに添えられた彼女の写真を見た瞬間、春菜は息をのんだ。

髪型も、目元の形も、笑ったときの雰囲気まで――瓜二つだった。


「……こんなに似てる人がいるなんて」


画面越しに見つめるうちに、言いようのない不安が胸を締めつける。まるで、自分がもう一人存在しているような錯覚。彼女の名前は、白石真琴。記事を読み進めると、小劇場を中心に活動する舞台女優で、最近では主演舞台も務めるほどの実力者だということが分かった。けれど、ある日突然、彼女はSNSに「探さないでください」とだけ投稿し、行方をくらました。


「……探さないでください?」


春菜は思わず呟いた。逃げているのか? それとも、誰かを避けているのか?記事には、失踪の直前、彼女がストーカー被害に悩まされていた可能性があると書かれていた。劇団関係者の証言では、真琴は最近ずっと落ち着かない様子だったという。


「誰かに見られている気がする」


そう漏らしていたらしい。春菜は、立ち止まった。


「……ストーカー?」


背筋をぞくりと冷たいものが走る。

ストーカーに怯えた女優が、ある日突然姿を消す――ミステリーの定番のような話だ。けれど、現実にそういうことが起こると想像すると、単なる噂話では済まされない。


「……これは記事になるかもしれない」


そう思った瞬間、フリーライターとしての好奇心が動き出した。春菜の仕事は、ネットニュースや雑誌向けの記事を書くこと。これまでにも事件やスキャンダルの取材を手がけてきた。失踪した舞台女優、ストーカー被害の疑惑、そして――自分と瓜二つの顔。これだけの要素が揃えば、十分に記事のネタになる。


「……ちょっと調べてみようかな」


春菜はスマホを片手に、白石真琴のSNSを遡り始めた。

日常の出来事、舞台の告知――何気ない投稿が続いている。

しかし、ある時期を境に、雰囲気が変わった。


「最近、嫌な気配を感じる」

「気のせいかもしれないけど、誰かに見られている気がする」

「家に帰ると、微妙に物の位置が違う……怖い」


春菜の指が止まった。


「……本当にストーカーがいたの?」


その言葉を最後に、白石真琴の投稿は途絶えていた。最後に残された言葉は、たったひとつ。


「探さないでください」


画面を見つめるうちに、春菜は不思議な感覚に襲われた。

まるで、白石真琴の感じていた「嫌な気配」が、スマホの画面を通じて自分の中に入り込んでくるような気がする。

そして、ふと気がついた。


――この言葉、どこかで見たことがある。


ストーカーからの手紙に関する記事を読んだとき、何かが引っかかっていた。

文体、言い回し、表現のリズム……それらが、妙に馴染み深い。

まるで、自分がどこかで読んだことがあるような。


いや――

まるで、自分が書いた文章のような気さえする。


「……そんなはず、ないよね」


春菜は小さく呟き、スマホを閉じた。

このままでは、ただの妄想になってしまう。


もっと確実な手がかりを得るために、直接話を聞くべきだ。

彼女の劇団の関係者や、住んでいた部屋を調べれば、何かわかるかもしれない。

春菜はスマホをポケットにしまい、改めて歩き出した。


「まずは……彼女の部屋を調べてみよう」


自分に似た顔を持つ女優の失踪。興味本位で始めた調査だった。

しかし、春菜は気づいていなかった。


この違和感の正体を突き止めることが、自分自身の運命をも変えてしまうことに。


―――――――――――――――――――――――――――――――――――――

翌日、春菜は白石真琴が住んでいたマンションを訪れた。


彼女が失踪した今、その部屋はしばらくの間、劇団関係者が管理しているという。春菜は事前に劇団に連絡を取り、事情を説明したうえで、特別に部屋を見せてもらえることになった。


応じてくれたのは、劇団のスタッフ・中村だった。


30代後半くらいの落ち着いた雰囲気の男性で、春菜が事情を説明すると、渋い顔をしながらも鍵を取り出した。


「正直、あまり気が進まないんですけどね……真琴が戻ってこない限り、ここは空き部屋ですし、何かの手がかりになるなら」


鍵が回り、静かにドアが開く。

部屋の奥から、微かに古いコーヒーの香りが流れてきた。


「じゃあ、失礼します」


春菜はそう呟き、足を踏み入れる。室内は、驚くほど整然としていた。

彼女が突然失踪したとは思えないほど、生活の痕跡がそのまま残っている。

リビングのテーブルには読みかけの本。キッチンには、洗い終えたコップが伏せられていた。まるで、今もそこに住んでいるかのようだ。


しかし――違和感があった。


空気が、淀んでいる。家具の配置、小物の位置、些細なものすべてが妙に不自然に感じる。


春菜はゆっくりと歩を進めた。リビングを抜け、寝室へ向かう。

そこで、異変に気づいた。

机の引き出しが、少しだけ開いている。


「……?」


春菜はそっと手を伸ばし、引き出しを開けた。

そこには、何枚もの封筒が雑然と詰め込まれていた。

宛名はない。代わりに、封筒の表には、たった一言だけが書かれていた。


「君のことをずっと見ている」


その瞬間、背筋が凍るような感覚が広がった。恐る恐る中身を取り出す。

封筒の中には、すべて同じような内容の手紙が入っていた。


「いつも見ている」

「君のそばにいる」

「逃げても無駄だよ」


ぞっとするほど統一された文体。震える手で手紙をめくるうちに、春菜は奇妙な違和感に気づいた。


この文章、どこかで読んだことがある――


「……まさか」


春菜はバッグの中から自分のノートを取り出し、記事のメモと照らし合わせた。

似ている。

文のリズム、単語の選び方、句読点の打ち方――まるで、自分が書いた文章のようだった。


「そんな……」


手が震える。だが、そんなはずはない。

自分は白石真琴に会ったこともなければ、もちろんストーカーなどしていない。


……なのに、なぜ?


「……私が、書いた?」


頭を振る。そんなはずはない。しかし、手紙を握る手は、確かに震えていた。


――ブッ――


突然、スマホが震えた。


「っ……!」


心臓が跳ね上がる。慌ててポケットから取り出し、画面を確認する。

劇団関係者からのメッセージだった。


「ストーカーの件ですが、警察が捜査を進めていますが、特定の人物の影は見つかっていません。

彼女は誰かに怯えていましたが、周囲の誰も不審者を見ていないんです」


春菜は息をのんだ。


――不審者が、見つかっていない?


そんなはずがない。

これだけの手紙が届いているのに、誰も怪しい人物を見たことがないなんて――。

彼女は、無意識のうちに手紙を握りしめた。


「……待って」


ふと、頭をよぎる仮説。

もし、白石真琴が怯えていたストーカーが、実在しないとしたら?


いや、正確には――

ストーカーが、彼女自身だったとしたら?


その考えに至った瞬間、部屋の温度が一気に下がったような錯覚に襲われた。

耳鳴りがする。心臓の鼓動が大きく響き、手元の手紙が微かに震えた。


「……そんな、わけ、ないよね」


掠れた声が、静かな部屋に染み込む。だが、その違和感はもう消えなかった。

まるで、何かが心の奥で囁いているような気がした。


「君のことをずっと見ている」


その言葉が、頭の中でこだました。

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