第2話

柚香の目にじわっと涙が滲んだ。


「無事だったんだね……。あなたを轢かなくてよかった……」


 柚香は手を伸ばして、犬の顔を撫でるように窓ガラスに触れた。

 犬は心配そうに鳴き声を上げて前足でガラスをこすった。ガリガリと耳障りな音がする。


「私は……いいんだ。恋も仕事も……なにもかもうまくいかなくて……。もう……生きる意味が……見つからないんだ……」


 視界が涙で曇っていった。それとともに頭の中に黒いもやが広がって、意識が薄れていく。


「私が死んでも……広翔ひろとさんは……悲しむわけないか……。せいせいしたって思うだろうな……」


 一ヵ月前まで恋人だった十歳年上の男性の甘く整った顔を思い浮かべて、柚香の目尻から涙がこぼれた。思えばたったの二十三年、短い人生だった。子どもの頃からの夢が叶ったと思ったけれど、その夢も恋人の裏切りとともにあっけなく砕け散った。なにもかも失ってしまったからか、死を目前にしても、悲しいとも悔しいとも思わなかった。

 だんだん寒くなってきた。どこまでも沈んでいきそうなくらい全身が重く感じる。


「体に……力が……入らない……」

(お父さん、お母さん、お姉ちゃん……)


 実家にいる三人の顔が脳裏に浮かんだ。口うるさいことを言われて、逃げるように実家を出てきたことが悔やまれる。こんなことになるのなら、もっとちゃんと向き合っておけばよかった。


(仕事を辞めた理由をちゃんと説明しなくてごめんなさい。親孝行……できなくてごめんなさい。いつかしようって思ってたのに……。私は本当にダメな娘で、妹だね……。先に死ぬのを許してください……)


 両親や姉に対して申し訳ない気持ちになりながらも、苦しみから逃れられるかもしれない、という淡い期待が脳裏をかすめ、柚香はそっと目を閉じた……。

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