第15話

エドガーが言った『幸運の妖精』という言葉に、レインリットは聞き覚えがなかった。兄からは『いたずら妖精』とばかり言われていたので、違和感しかない。それは一体誰のことなのか、と疑問に思う。もう一つ、『妖精』と呼ばれる所以はあったが、それを兄が口外することは思えなかった。


「あの、それは本当に兄が言っていたのですか?」


 レインリットの戸惑いが伝わったのか、エドガーもきょとんとした顔になる。


「ファーガルはこのチャームのことを教えてくれた時、『幸運の妖精がくれたお守り』と言っていたが。彼の話にはその妖精が度々出てきて、紅い髪に緑色の瞳をしたとても可愛い妖精だと」


「わ、私は、聞いたことがなくて……いつも『いたずら妖精』とばかり言われていましたので。私は、子供の頃はとてもお転婆だったのです」


 兄が自分のことをそんな風に話していたのは意外だった。ほんの小さな頃は一緒になって遊んでいてくれた兄は、レインリットが十を数える頃になると「もう少し淑女らしくなりなさい」とお小言が多くなっていったのに。するとエドガーは何かを思い出したように手を打ち、意味ありげな顔で見つめてきた。


「そういえば、ドレス姿で雪まみれになったり、その冷えた身体で後ろから飛びついてきたりと、すばしっこい妖精だったとも言っていたような」


「それは! お兄様が背負ってくださったからで、好きで飛びついたわけではありません」


 エドガーの目は弓なりになると、真っ赤になって頬を膨らませているレインリットを見て吹き出した。


「少々活発だと言っていたのは……そうか、だから君は木に登っていたんだね」


「それは忘れてください! エドガー様は、一体兄からどんな話を聞かされたのですか。もう、お兄様ったら……」


 レインリットはそのまま押し黙った。その兄に、もう会えないことを思い出したのだ。もう一度手のひらに目を落とし、妖精のチャームを撫でる。


「エドガー様は本当に、兄とお知り合いだったのですね」


「ああ、ファーガルは最高の戦友だった。まさか君が、彼の妹だったなんて」


 エドガーの感極まったような声音に、レインリットの脳裏に浮かぶ兄の姿は涙で滲んでよく見えなかった。




 ◇




 偶然というには出来すぎた奇跡に、エドガーの心臓は痛いほど鳴り響く。潤んだ目でチャームを大事そうに撫でるレインリットを、思わず抱きしめて慰めたくなる手を抑えた。


「ファーガルは馬の扱いがとても巧みだったから、それがきっかけで仲良くなったんだ」


 重装騎兵として、乗馬の技術は命に関わる大事なものだ。ファーガルの手綱捌きや馬との意思の疎通方法の巧みさには目を見張るものがあり、同じく乗馬を得意としていたエドガーとすぐに意気投合した。


「そうだったのですね。兄は昔から乗馬が得意で、海軍ではなく陸軍を選んだくらいなのです。海軍には騎馬部隊はありませんから」


「それは彼から聞いたことがあるよ。ソランスター伯の称号を受け継ぐ者は海軍をまとめなければならないが、自分は船酔いするから向いていないと。お父君の反対を押し切ったのだったね?」


「はい。それで、戦争に……」


 エドガーは、ファーガルが「半ば仲違いをして出兵してきたことを悔いている」と言っていたことを思い出した。二つ年下の彼を、エドガーは兄のような立場から諭したこともある。正義感に溢れ、馬を可愛がり、戦場でも人懐こい笑顔を見せていた彼。そんな根が優しい彼が溺愛していた『幸運の妖精』が今、一人必死で家を守ろうと足掻いている。エドガーは益々、レインリットを助け、そして守りたくなった。


「でもどうして、このチャームをエドガー様が持っておられるのですか?」


 目の縁が赤くなり、泣き笑いのような顔でエドガーを見上げてきたレインリットの頬を、エドガーはほぼ無意識のうちに撫でる。その柔らかな感触を手袋越しに感じながら、エドガーの心はあの戦場へと飛んでいく。


「突撃の時、ファーガルが忘れていったんだよ。私が彼の天幕に戻った時には、彼の私物はほとんど何もなかったんだ。このチャームが唯一、故郷に繋がるものだった」


 エドガーは、ティルケット砦の野営地の酷い有り様をありありと思い出した。


 知らず内頬を噛み締めたエドガーの手が、わずかに震えて止まらなくなる。


 決死の突撃によってバルタイユ王国軍をくだした部隊は、人も馬も酷い状態で命からがら戻ってきた。戦場で散ってしまった仲間たちの亡骸を拾えるだけ拾って、それができないくらいに酷い状態の者もいて。ファーガルは多分後者だったのだろう。彼のいた天幕はもぬけの殻で、荷物が散乱していて、いくら待っても戻って来なかった。天幕の状態から、何者かに荒らされたのだとすぐにわかった。戦場では、そんなことがよくあったから。

 エドガーがそんな中見つけたのが、小さなチャームだ。ファーガルが肌身離さず身につけていたはずの妖精のチャーム。バルタイユ王国軍の奇襲のせいで、つけ忘れていったようだった。


「私はいつか、ソランスターの家族の元へ届けようと思っていた」


「エドガー様」


 レインリットがエドガーの手に手を重ね、頬をすり寄せた。手袋に涙が染み込み、エドガーの心を揺さぶる。


「ああ、お願いだ、レイン。レインリット」


 エドガーは空いた手でレインリットの肩を掴む。この折れてしまいそうなほど華奢な肩に、何というものを背負っているのか。


「私と一緒にシャナス公国へ行ってはくれないだろうか」


 レインリットの身体が、ビクリと跳ねる。見開いた目からさらに涙が溢れ、嗚咽を漏らすまいとしてか、その唇を白くなるまで噛み締めていた。


「エドガー様と一緒に、シャナス公国に……」


「君を守りたい。一人で全てを背負わないでくれ。私がいる。私が、君の憂いを晴らしてみせるから」


 先ほど、決意を秘めた顔で自分に助けを求めてきたレインリットは、ハッとするほど美しかった。その緑色の瞳に囚われてしまったと言っても過言ではないくらいに引き込まれて、見惚れてしまった。そして今も、抱きしめたい衝動を必死に抑えている。


 ――そうか……好きとはこういうことなのか。


 スケィル・クラブでマックスから指摘されたことが、ここにきて完全に腑に落ちた。エドガーはゆっくりと腰を屈めると、レインリットの手の甲にキスを落とす。


「私と君で、ソランスターを取り戻そう。そしたら、もう一度だけ考えてくれないか」


 エドガーは瞳に熱を込め、レインリットに思いをぶつける。気づいてほしい、知ってほしい、そして同じ気持ちを返してほしい。今まで付き合ってきた女性には感じなかった衝動が、エドガーを突き動かす。


「ソランスターを取り戻したら……もう一度?」


 よくわからないのか、レインリットがおうむ返しに呟いた。そのことがもどかしく、エドガーの心を急かす。何故伝わらない、何故わからない、と焦るが、そういえばまだ何も伝えてはいないことに気づいた。

 エドガーは今度は両膝をつき、レインリットに視線を合わせると、その小さな両手を自分の両手で包み込む。


「そう、今度は大丈夫。あんな酷い提案じゃなくて、本当に君に結婚を前提として申し込みたい」


 大きく息を吸い込んだエドガーは、ゆっくりと吐き出して緊張をほぐすように目を瞑る。そして腹をくくると、一気にその胸にくすぶる思いを告げた。


「私の腕の中に落ちてきた時から、私は君に目を奪われている。レインリット・メアリエール・オフラハーティ」


 これ以上ないくらいに目を見開いているレインリットに、エドガーはなんてザマだと自嘲する。彼女よりも随分と大人であるはずの自分が、高揚する気持ちを抑えきれずに年下の彼女を困らせてしまっている。何もこんな時にとは思ったものの、エドガーの口は止まってはくれなかった。


「君がメアリでもレインリットでもどちらでもいい。どうやら一目惚れらしいが、私は一目惚れなんて初めてだから自分の気持ちに気づくのが遅れたようだ」


「伯爵様が、私に、一目惚れを」


「ああ、間違いなく。君が好きだ、君を守りたい、君とこの先ずっと一緒にいられたら、と願ってやまないんだ」


 エドガーの突然の告白に、レインリットの緑色の瞳がこぼれ落ちそうになっていた。宝石のようにキラキラと輝くその瞳は、最初に出逢ってた時に見惚れてしまうくらいに美しかった。嫌悪の感情は見られない。ただただ、驚きと、少しの羞恥を伝えてくる瞳に、らしくなく緊張した自分の姿が映っている。一度言ってしまえば何度でも言いたくなり、反応が欲しくて「好きだ」と言うと、その度にレインリットの華奢な身体がびくりと動いた。


「君がまだ大変なことはわかっている。今はこのままでもいい、努力して我慢する。でも、逃すと思ったら大間違いだと覚えておいて……私は諦めが悪い男だからね」

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