第9話「揺れる心」


七月の蒸し暑い午後。体育の授業が終わり、女子生徒たちが更衣室に集まっていた。汗ばんだ体育着から制服に着替える間、教室では様々な会話が飛び交っていた。


「ねえねえ、聞いた?」


加藤さんが興奮した様子で声を潜めて言った。私はロッカーの前で制服のボタンを留めながら、何気なく耳を傾けた。


「何が?」


誰かが返事をする。加藤さんは周りを見回してから、さらに声を落とした。


「望月さんが告白されたんだって」


その言葉に、私の手が止まった。心臓が一拍飛んだような感覚。


「マジで?誰に?」


「三年の佐藤先輩だって。陸上部の部長の」


周囲の女子たちから小さな驚きの声が上がる。私は静かに制服を着続けたが、耳は完全にその会話に集中していた。


「佐藤先輩って、すごくかっこいいじゃん!どうしたの、その後は?」


「それがね...」加藤さんは声を更に落とした。「断ったって聞いたんだけど...」


少しだけ安堵する私。でも、すぐに罪悪感が襲ってきた。星奈の恋愛事情に一喜一憂する自分が情けなく思えた。


「なんで断ったんだろう?好きな人がいるのかな」


その推測に、思わず彼女たちの方を見てしまう。すると、加藤さんと目が合った。


「あ、佐倉さん。望月さんと仲良いよね。何か知ってる?」


突然話を振られ、私は焦った。


「え?いや...聞いてないよ」


正直に答える私。確かに星奈からは何も聞いていなかった。それが少し寂しかった。以前なら何でも話してくれたのに。


「そっか...」加藤さんは少し残念そうだった。「でも望月さん、男子からの人気すごいよね。陸上部に入ってからさらに目立つようになったし」


確かにその通りだった。星奈は元々明るく人気があったが、陸上部での活躍が噂になり、さらに注目を集めるようになっていた。


更衣室を出る時、私は複雑な思いを抱えていた。星奈が告白されたこと。それを私に話してくれなかったこと。そして、何より自分の中の嫉妬心。友達として喜ぶべきなのに、胸がざわつく。


教室に戻ると、星奈はすでに席についていた。いつもの笑顔で友達と話している。その姿は何も変わっていない。でも、私の中では何かが確実に変わっていた。


「陽花、お疲れ様」


席に着くと、星奈が振り返って話しかけてきた。普段通りの明るい声。秘密を抱えているようには見えない。


「お疲れ様...」


小さく返事をする私。星奈は少し首を傾げた。


「どうしたの?元気ないね」


「ううん、何でもない」


またしても嘘をつく。でも、今回は仕方なかった。「あなたが告白されたって聞いたよ。なんで私に話してくれなかったの?」なんて、直接は聞けない。


授業が再開し、英語の時間が始まった。教科書を開きながら、私は心ここにあらずだった。頭の中は星奈のことでいっぱい。佐藤先輩の告白。断った理由。そして、なぜそのことを私に話さなかったのか。


「佐倉さん、この文章を訳してください」


突然名前を呼ばれ、私は慌てて立ち上がった。指された部分を必死に読むが、全く頭に入ってこない。


「えっと...」


周囲がざわめく。そんな時、いつもなら星奈が助け舟を出してくれるのに、今日は違った。彼女も困ったような表情で私を見ている。


「すみません、分かりません」


正直に答えるしかなかった。先生は少し厳しい表情になったが、次の生徒を指名した。席に座る時、星奈が心配そうな目で私を見ていた。


放課後、星奈は陸上部の練習があるという。部室に向かう彼女を見送りながら、胸に重い塊を感じた。


「陽花、大丈夫?」


田中さんが声をかけてきた。彼女は私の顔を見て、すぐに何かを察したようだった。


「ちょっと図書室に行かない?」


田中さんの優しい誘いに、素直に頷く私。図書室は人が少なく、静かに話せる場所だった。


「星奈のこと?」


席に着くなり、田中さんが切り出した。鋭い洞察力だ。


「うん...」小さく頷く私。「星奈が三年の先輩から告白されたって聞いたんだ」


「ああ、噂になってたね」田中さんは穏やかに言った。「それで、心配なの?」


「心配というか...」言葉を探す私。「なんで私に話してくれなかったんだろうって」


田中さんはしばらく考えてから言った。「もしかしたら、佐倉さんを心配してのことかもしれないよ」


「え?」


「望月さんも、佐倉さんの気持ちに気づいてるかもしれない。だから、そういう話をするのを避けてるのかも」


その可能性に、心臓が早鐘を打った。星奈が私の気持ちに気づいている?そんなはずはない。でも、もしそうなら...


「でも、確かめてみないと分からないよ」田中さんは続けた。「噂を信じるより、直接聞いてみれば?」


その助言は理にかなっていた。でも、どうやって切り出せばいいのだろう。


図書室を出た後、私は学校に残ることにした。星奈の練習が終わるのを待とうと思ったのだ。質問するかどうかはまだ決めていなかったが、少なくとも一緒に帰りたかった。


陸上部の練習を見学するために、グラウンドの端に座った。七月の暑い日差しが照りつける中、部員たちは懸命に走り込みをしていた。その中でも星奈の姿は輝いていた。伸びやかな走りは見ていて気持ちが良い。


「がんばれ、望月!」


誰かが声援を送った。振り返ると、グラウンドの反対側に数人の生徒が見学していた。応援しているのは男子生徒のようだ。星奈の人気を実感する瞬間だった。


練習の途中、星奈と背の高い男子生徒が話している場面があった。恐らく噂の佐藤先輩だろう。二人は普通に会話し、時には笑い合っている。告白と断りのやりとりがあったとは思えないほど自然な関係に見えた。


その光景に、胸が痛くなる。星奈は誰とでも自然に接することができる。それが彼女の魅力でもあるのに、今はその特性が私を苦しめていた。


練習が終わり、部員たちが更衣室に向かう。星奈も汗を拭きながら歩いていると、私と目が合った。


「陽花?どうしたの、こんなところで」


彼女は驚いたように声をかけてきた。


「えっと...一緒に帰ろうかと思って」


言い訳のような言葉。星奈は少し考え込むような表情をした後、優しく微笑んだ。


「ありがとう。少し待っててくれる?着替えてくるから」


「うん」


星奈が更衣室に向かう間、私は何を話すべきか考えていた。噂のことを聞くべきか。それとも知らないふりをするべきか。


十分ほど待った後、星奈が戻ってきた。制服に着替え、髪も整えている。少し湿り気を帯びた髪が、夕日に照らされて美しく見えた。


「お待たせ。帰ろっか」


星奈は自然に私の横に並ぶ。もう何日も一緒に下校していなかったことに気づく。お互いの部活や委員会で、放課後の時間が合わなくなっていたのだ。


学校を出て、いつもの道を歩き始める。初夏の夕暮れ、少し涼しい風が吹いていた。


「今日、授業中に具合悪かった?」星奈が心配そうに聞いてきた。


「ううん、ただ集中できなくて...」


「そっか...」星奈は納得していない様子だった。「何か悩みごとある?」


切り出すチャンス。でも、言葉が出てこない。


「陽花」星奈が突然立ち止まった。「最近、何か隠してる?」


その質問に、息をのんだ。隠しているのは私だけではないはずなのに。


「星奈こそ...」思い切って言った。「告白されたこと、どうして話してくれなかったの?」


言葉にした瞬間、後悔した。噂を聞いたと認めることになるし、それを気にしていることも露呈してしまう。


星奈は驚いたように目を見開いた。


「え...それ、どこで聞いたの?」


「みんな噂してたよ。更衣室で」


「そっか...」星奈は少し困ったように頭をかいた。「ごめん、話すつもりだったんだけど、タイミングを見計らってて」


「タイミング?」


「うん...」星奈は言葉を選ぶように慎重に話し始めた。「実は、佐藤先輩のこと、断ったんだ」


「うん、そう聞いた」


「断った理由が...」星奈は一瞬言葉を詰まらせた。「他に好きな人がいるって言ったんだ」


その告白に、私の心臓が激しく鼓動した。星奈には好きな人がいる。それは誰なのか。聞くべきか。聞かない方がいいのか。


「そ、そうなんだ...」


平静を装おうとするが、声が震えていた。星奈は私の反応をじっと見ていた。


「陽花、気になる?私が誰を好きか」


ストレートな質問に、言葉につまる。正直に答えるべきか。それとも、友達らしく振る舞うべきか。


「気に...なるよ」


震える声で答えた私。星奈の表情が少し柔らかくなった。


「そう...」彼女は空を見上げた。「今はまだ言えないんだ。ごめんね」


その答えに、胸が痛んだ。星奈には言えない理由があるのだろう。私にはその理由も分からない。


「大丈夫。無理に話さなくても...」


強がりの言葉。本当は知りたかった。知りたくなかった。相反する感情が胸の中で渦巻いていた。


その後の帰り道は、妙に静かだった。いつもなら会話が絶えない二人だが、今は言葉が見つからない。お互いの間に、言えない何かが横たわっているようだった。


分かれ道に着いた時、星奈が私の袖を軽く引いた。


「陽花、怒ってる?」


不安そうな表情に、胸が締め付けられた。


「怒ってないよ」正直に答える私。「ただ...少し寂しいかな」


「寂しい?」


「うん、前は何でも話してくれたのに」


星奈は申し訳なさそうな表情になった。「ごめん...でも、話せる時が来たら、真っ先に陽花に話すから。約束する」


その優しい言葉に、複雑な気持ちになる。嬉しさと、不安と、期待と、恐れが入り混じっていた。


「うん...」


星奈はペンダントに手を当てた。誕生日にプレゼントした星のペンダント。


「これ、ずっとつけてるんだよ」彼女は優しく微笑んだ。「友情と真実の象徴...いつか真実を話せる日が来るよ」


その言葉に、小さな希望を感じた。同時に、大きな不安も。星奈の「真実」は、私にとって幸せな真実なのだろうか。それとも、心を砕くようなものなのだろうか。


「待ってるよ」


精一杯の笑顔で答える私。星奈も少し寂しそうに笑い返した。


「じゃ、また明日」


別れ際、星奈は小さくペンダントを握りしめた。その仕草に、何か決意のようなものを感じた。


家に帰る道すがら、私の心は嵐のように揺れていた。星奈の好きな人は誰なのか。なぜ私に言えないのか。そして、私自身の気持ちは本当に「好き」なのか。


答えのない問いを抱えたまま、夕闇の中を歩いていった。

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