第7話「雨の日の傘」


梅雨の季節はまだ続いていた。窓の外は一日中どんよりとした雲に覆われ、時折激しい雨が降って校庭に水たまりを作る。そんな六月のある日の朝。


「今日も雨か...」


家を出る前、私は玄関で傘を手に取りながら呟いた。あの日の相合傘以来、毎日欠かさず傘を持ってくるようになっていた。もう星奈に迷惑はかけたくなかった。


いつもの時間に玄関を出ると、星奈がすでに家の前で待っていた。彼女も水色の傘を持っている。


「おはよう、陽花」


星奈は明るく笑った。朝の挨拶。いつもと変わらない日常。でも、私の心はいつもと違っていた。


「おはよう...」


小さな声で応える私。最近、星奈と二人きりになると、なぜか緊張してしまう。視線を合わせるのも難しく、会話も弾まなくなってきた。


「また雨だね」


「うん...」


無理に話題を作ろうとする星奈。それに適当に相づちを打つ私。このぎこちない会話が、私たちの新しい日常になりつつあった。


学校への道を歩きながら、私は星奈との距離を意識していた。近すぎず、遠すぎず。友達として自然な距離。でも、その「自然」を装うことに、疲れを感じていた。


「ねえ、陽花」


星奈が突然立ち止まった。通学路の途中、小さな公園の前だった。


「なに?」


「最近、私に何か言いたいことある?」


予想外の質問に、私は息をのんだ。星奈の眼差しは真剣だった。彼女は私の変化に気づいていたのだ。


「別に...何もないよ」


視線を逸らしながら答える私。嘘をつくことに慣れてきている自分が嫌だった。


「そう?」星奈は納得していない様子だった。「なんか最近、陽花が遠くに感じるんだ」


その言葉に、胸が痛んだ。星奈も私との距離の変化を感じていたのだ。彼女の表情には、心配と少しの寂しさが混ざっていた。


「気のせいだよ」


強引に笑顔を作る私。星奈はまだ何か言いたそうだったが、それ以上は追及しなかった。


「そっか。ごめんね、変なこと言って」


彼女は無理に明るく振る舞おうとした。その姿に、申し訳なさでいっぱいになる。星奈に心配をかけたくない。でも、正直になることもできない。


再び歩き始めた私たち。小さな水たまりを避けながら、黙って歩く。雨音だけが二人の間に流れる。


「あ!」


急に星奈が声を上げた。彼女の傘が強い風にあおられ、反対側に裏返ってしまったのだ。


「大丈夫?」


「うん、でも...壊れちゃったかも」


星奈は裏返った傘を直そうとするが、骨組みが曲がってしまっていた。ちょうどその時、雨足が強くなってきた。


「どうしよう...」


困った顔をする星奈。迷わず、私は自分の傘を彼女の方に差し出した。


「私のを使って」


「え?でも陽花は?」


「私は大丈夫だよ。走れば濡れないし」


嘘だった。このままでは確実に濡れる。でも、星奈を雨に濡らすよりはましだと思った。


「そんなの無理だよ。雨、強くなってきてるし」


星奈は首を振った。「一緒に入ろう。この前みたいに」


その提案に、心臓が早鐘を打つのを感じた。もう一度、相合傘。近すぎる距離。でも、他に選択肢はなかった。


「...わかった」


私の傘の下に、星奈が入ってきた。肩がぴったりとくっつく。彼女の体温と香りが伝わってくる。雨音が大きくなる中、私の心臓の鼓動はさらに大きく感じられた。


「ごめんね、陽花」


星奈が小さな声で言った。息遣いが耳元で感じられる。


「いいよ...気にしないで」


言いながらも、私は星奈との近さに意識が集中していた。歩幅を合わせようとする二人。時々肘が触れ合う。そのたびに、電気が走るような感覚。


学校までの道のり。いつもなら十分ほどの距離が、今日は永遠に感じられた。一つの傘の下で、私たちは無言で歩いていた。


「あの...」


星奈が何か言いかけた時、後ろから声がした。


「おはよう!佐倉さん、望月さん!」


振り返ると、田中さんが水玉模様の傘を差して近づいてきていた。彼女の明るい声が、緊張した空気を破った。


「おはよう、田中さん」


私たちは揃って挨拶をした。田中さんは私たちの相合傘を見て、意味ありげに微笑んだ。


「仲良いね、二人とも」


その言葉に、私は顔が熱くなるのを感じた。星奈は自然に答えた。


「望月の傘が壊れちゃって。仕方なく一緒に入ってるだけだよ」


「そっか。でも似合ってるよ、相合傘」


田中さんの言葉に、星奈は笑うだけだった。彼女にとっては何でもないことなのだろう。友達同士の自然な助け合い。でも、私の心はそんな単純ではなかった。


三人で学校まで歩く間、田中さんは気を利かせてか、会話を続けてくれた。授業の話、テスト勉強の話、週末の予定の話。普段なら何でもない会話が、今日は救いのように感じられた。


「あ、学校に着いたね」


校門が見えてきた。田中さんは私たちに軽く手を振って先に行った。「教室で待ってるね」


再び二人きりになる。しかし、学校という公共の場所に近づくにつれ、周囲の目が気になり始めた。みんな私たちを見ている。一つの傘の下にいる二人を。


「陽花、気にしないで」


星奈が小さく囁いた。彼女は私の不安を察したようだった。


「う、うん...」


でも、気にならないはずがなかった。登校中の生徒たちの視線。時々聞こえる「仲いいね」という言葉。それらすべてが、私の神経を刺激した。


教室に入る直前、星奈が突然足を止めた。


「陽花、ありがとう。傘、貸してくれて」


彼女は真っ直ぐに私の目を見た。その瞳に映る私の姿。友達?それとも...


「どういたしまして」


固い言葉で返す私。星奈は少し意外そうな表情をしたが、すぐに笑顔に戻った。


「放課後、傘が直るといいけど。直らなかったら、また一緒に帰ろうね」


その提案に、複雑な感情が湧いた。一緒に帰りたい気持ち。でも同時に、あの距離の近さに耐えられるだろうかという不安。


「うん...」


曖昧な返事をする私に、星奈は少し寂しそうな表情を見せた。もしかして、彼女も何か気づいているのだろうか。私の気持ちの変化に。


教室に入ると、すでに何人かのクラスメイトが集まっていた。田中さんも自分の席で本を読んでいる。彼女は私たちに気づくと、小さく手を振った。


「佐倉さん、望月さん、また相合傘?」


加藤さんが声をかけてきた。冗談めかした口調だが、その言葉に私は身構えた。


「うん、私の傘が壊れちゃって」星奈が代わりに答えた。「陽花に助けてもらったよ」


「いいなぁ、そんな風に頼れる友達」


加藤さんは羨ましそうに言った。「友達」という言葉が、私の耳に引っかかる。もう私の中では、星奈は「ただの友達」ではなかった。でも、周りからはそう見えるのだろう。そう見えるべきなのだろうか。


席に着いた後も、私は窓の外の雨を見つめていた。あの相合傘の時間。近すぎる距離。高鳴る心臓。それらは友情の範疇なのだろうか。


授業が始まり、表面上は普通の一日が流れていく。でも、私の心の中は晴れることなく、雨が降り続けているようだった。


昼休み、星奈は陸上部の友達と一緒に食事をすると言って教室を出ていった。少しほっとする私。緊張の糸が切れたように、肩の力が抜けた。


「佐倉さん、一緒にお昼食べる?」


田中さんが誘ってくれた。彼女の優しい微笑みに、心が救われる思いがした。


「ありがとう」


私たちは空いている席で向かい合った。田中さんは自分のお弁当を開けながら、さりげなく聞いてきた。


「今朝の相合傘、大変だった?」


質問の意図を察して、私は小さく頷いた。


「うん...近すぎて、胸が苦しかった」


正直に答える私。もう嘘はつきたくなかった。田中さんは理解したように微笑んだ。


「想いが強まってるんだね」


その言葉に、否定する気力もなかった。ただ黙って頷く。


「望月さんはどう思ってるんだろうね」田中さんが言った。「私から見ても、あなたたちの関係って特別だよ」


「特別...」


その言葉を噛みしめる。特別とは、どんな意味なのだろう。友情を超えた何か。でも、星奈にとってはどうなのだろう。


「でも、怖いんだ」私は小さな声で言った。「この気持ちを伝えて、もし嫌われたら...十二年の友情が壊れるかもしれない」


田中さんはしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「雨の日の傘みたいなものかもしれないね」


「え?」


「壊れるかもしれない危険を冒して、それでも一緒に入る傘。それが二人の関係なんじゃないかな」


その比喩に、私は考え込んだ。一つの傘の下。近すぎる距離。でも、その距離が心地良くもあり、怖くもある。


放課後、星奈が私の席に来た。


「陽花、傘、直ったよ。部室に予備があったんだ」


「そっか、良かったね」


安心したような、少し残念なような、矛盾した感情。もう相合傘はしなくていい。でも、あの近さがもう味わえないのは、少し寂しかった。


「でも...」星奈は少し照れたように言った。「もし良かったら、また一緒に帰らない?」


その誘いに、心臓が跳ねた。


「でも、傘あるんでしょ?」


「うん、でも...」星奈は言葉に詰まった。「その...別に理由なんていらないよね。一緒に帰りたいだけ」


正直な言葉に、胸が熱くなる。星奈も私との時間を大切にしてくれているのだ。


「うん、一緒に帰ろう」


迷わず答える私。星奈の表情が明るくなった。


外に出ると、雨は上がっていた。傘は必要なかった。でも、二人で並んで歩く時間は、それはそれで特別だった。


雨上がりの空気が新鮮で、地面には小さな水たまりがところどころに残っている。その一つを避けようとした時、星奈が私の手を取った。


「気をつけて」


その一瞬の接触。小さな親切。でも、私の心には大きな波紋を広げた。


手を離した後も、その温もりが残っていた。雨の日の傘の下で感じた近さとはまた違う、静かな親密さ。


これが友情なのか、それとも恋なのか。まだ答えは出せないけれど、少しずつ自分の気持ちに向き合う勇気が湧いてきた気がした。

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