第10話 嫉妬の炎、偽りのメッセージ

 蓮さんと正式に恋人同士になってから数週間が経った。

 私たちの関係は、まるで春の陽だまりの中をゆっくりと流れる小川のように穏やかでそして、着実に深まっている……。


 そう思っていた。少なくとも私は疑うことなど微塵もなかった。


 仕事の合間を縫って二人でランチに出かけるのが日課になった。会社の近くにある小さなイタリアンレストランがお気に入り。私はマルゲリータピザ、蓮さんは日替わりパスタを頼むことが多い。そして、二人で半分ずつシェアして食べるのがいつものパターン。


「陽葵さん、このパスタ、美味しいね」


 蓮さんはそう言って笑顔を見せてくれる。その笑顔を見るだけで胸がいっぱいになる。太陽みたいに明るくて、でも、どこか優しさを秘めた大好きな笑顔。


「うん、美味しい! 蓮さんのパスタも一口ちょうだい?」


 そう言って蓮さんのフォークに自分のピザを乗せる。ほんの少しの悪戯心と甘えたい気持ち、そして、もっと近づきたいという欲求。恋人同士なら当たり前のこと……だよね?

 蓮さんは照れくさそうにしながらも私のピザを口に運ぶ。少しだけ頬を赤らめて、でも、嬉しそうに。


「うん美味しい。陽葵さんのピザもやっぱり最高だね」


 微笑みかける蓮さん。そんな些細なやり取りが何よりも幸せな時間。こんな毎日がずっとずっと続けばいいのに……心の底からそう願っていた。


 休日は二人で色々な場所へ出かけた。映画館、遊園地、水族館、美術館。どこへ行っても楽しい。蓮さんと一緒ならどんな場所でも特別な場所に変わる。まるで魔法にかけられたみたいに。


 ある日、私たちは少し遠出して海へ出かけた。夕暮れ時、誰もいない砂浜を二人並んで歩く。ザザ~ザザ~と、波が寄せては返す音が心地よく耳に響く。空は茜色に染まり、一枚の絵画のように美しい。


「綺麗だね」


 そう言って空を見上げた。隣にいる蓮さんの横顔も夕日に染まっていつもより大人っぽく、そして、どこか神々しくさえ見える。言葉にできない感情が胸の奥から込み上げてくる。


「うん、本当に……」


 蓮さんも私の隣で空を見上げた。同じ景色を一緒に見ている。それだけで心が満たされる。この瞬間が永遠に続けばいいのに。


「陽葵さん」


 蓮さんは突然、私の名前を呼んだ。少し真剣な声。いつもと違う雰囲気に心臓がドキリと音を立てる。


「……何?」


 ドキドキしながら蓮さんの方を向いた。心臓が早鐘のように鳴っているのが自分でも分かる。


「僕と付き合ってくれて、ありがとう。陽葵さんと一緒にいると本当に幸せだ」


 蓮さんは、そう言って私の手を握った。その手は大きくて温かくて安心させてくれる。そして、どこか力強い。


「私も……蓮さんと一緒にいると、幸せ……」


 そう言って蓮さんの手を握り返した。精一杯の私の気持ち。うまく言葉にできないけれど、この気持ちが蓮さんに伝わってほしい。


 私たちは、しばらく無言で見つめ合った。言葉なんて必要なかった。ただ、お互いの存在を感じていたかった。そして、ゆっくりと唇を重ねた。夕焼け空の下、二人の影は一つになった。まるで永遠に続くかのような甘いキス。この時間が永遠に続けばいいのに……何度も何度もそう思った。


 会社の同僚たちにも交際を報告した。皆、口々に祝福の言葉をかけてくれた。


「おめでとう陽葵ちゃん! 蓮さんとお似合いだよ!」

「良かったね陽葵さん! これで美咲さんも諦めるかな?」

「蓮さん、陽葵さんのこと泣かせたら許さないからね!」


 温かい言葉に胸がいっぱいになった。たくさんの人に祝福されて本当に嬉しい。


(私、こんなに幸せでいいのかな?)


 心の底からそう思うほど幸せだった。


 でも、一人だけ私たちを祝福しない人がいた。美咲さんだ。


 美咲さんは、私と蓮さんが付き合い始めたことを知ってから、ますます敵意を剥き出しにするようになった。私と蓮さんが二人でいるところを見かけると、わざとらしく嫌味を言ったり、無視したり……あからさまな態度は周囲の人たちにも不快感を与えているのが分かる。


 だけど、私は美咲さんのことをなるべく気にしないようにしていた。蓮さんと付き合えている、という事実が何よりも嬉しかったから。美咲さんの嫌がらせなど取るに足らないことだと思えた。


(今は蓮さんとの時間を大切にしたい)


 そう思っていた……でも、それは甘かった。


 美咲さんは想像以上に執念深かった。そして狡猾だった。


 ある日、会社の休憩室で同僚たちの会話を偶然聞いてしまった。


「ねえ、聞いた? 陽葵ちゃん、実は蓮さんのことお金目当てで付き合ってるらしいよ」

「えーそうなの? 意外……全然そんな風に見えないけど」


 信じられない言葉が耳に飛び込んできた。


「私、聞いたの。陽葵ちゃんが友達に、『蓮さんと結婚すれば玉の輿に乗れる』って言ってたって」

「最低。そんな女だったなんて」


 耳を疑った。そんなこと言った覚えがない。絶対にない。


 誰がこんな嘘を……美咲さんしか考えられない。彼女は私を陥れるために、こんな根も葉もない噂を流しているんだ。

 胸が苦しくなった。悔しくて涙が出そうになった……でも、私は耐えた。ここで泣いたら美咲さんの思う壺だ。


 それに……蓮さんに心配をかけたくなかった。


 その日を境に、周囲の冷たい視線を感じるようになった。私が何か悪いことをしたかのような空気が渦巻いていた。誰も直接何かを言ってくるわけじゃない。でも、視線が、態度が、私を責めているように感じた。


 気にしないようにしてもそんな雰囲気は私の心を蝕んだ。仕事中のミスが増えた。集中できない。何もかもうまくいかない。そして、追い詰めるようにSNSに中傷する書き込みがされるようになった。


 匿名のアカウントで、

「陽葵って性格悪いよね。裏表が激しくて怖い」

「彼氏に媚びを売って気持ち悪い。見てて吐き気がする」

「あんな女と付き合ってるなんて彼氏も可哀想」

「早く会社辞めればいいのに。皆、迷惑してるのに」


 心ない言葉の数々が私の心を深く傷つけた。鋭利な刃物で心を切り刻まれるような、そんな痛み。


 どうしてこんなこと書かれなきゃいけないの……? 何も悪いことなんてしていないのに……。涙が止まらない。誰にも相談できない。蓮さんにだけは心配をかけたくない。蓮翔さんにも迷惑をかけたくない。私ひとりで解決するしかないんだ。


 そんなある日、スマホに見知らぬアカウントからメッセージが届いた。最初は間違いメッセージかと思った。でも、その内容は私を動揺させるのに十分だった。


『陽葵さん、蓮さんと別れた方がいいですよ。彼はあなたにふさわしくない』


 ……誰? 一体、何なの…? 警戒しながらメッセージを読んだ。誰が……何のためにこんなメッセージを……?


『私はあなたの味方です。あなたを助けたいと思っています』


 ……嘘だ。直感的にそう思った。でも、なぜか、そのメッセージに返信してしまった。


『あなたは、誰ですか?』


 すぐに返信が来た。


『私は、あなたのことを、よく知っている者です。……そして、蓮さんのことも』


 その言葉にドキッとした。……どうして……そんなことを知ってるの? 全てを見透かされているようで恐怖を感じた。


『信じられないなら証拠を見せましょうか?』


 相手は、私と蓮さんのツーショット写真を送ってきた。いや、よく見ると違う。蓮さんじゃない……写真に写っているのは………よく見ると、服装も、髪型も、違う……これは蓮翔さん? それに蓮翔さんに媚びる私の声……私、こんなこと言ってない。


 どうしてこんなことを……? 理解できない。理解したくない。


『この写真と音声、蓮さんに見せたら、どうなるでしょうね?』


 相手は捏造された証拠を使って蓮さんとの関係を壊そうとしてきた。どうすればいいのか分からない。誰かに相談したい……でも、誰に? 蓮さんに話すべきだろうか? でも迷惑はかけたくない、心配はかけたくない。何を言っても信じてもらえないかもしれない……一人で悩み続けた。


 そして、ついに、蓮さんから決定的な言葉を告げられた。


「陽葵さん、最近、何か隠し事をしていないか? ……僕に言えないようなことなのかい」


 蓮さんは、私に、そう尋ねた。その声は、冷たく疑いに満ちていた。まるで別人のようだった。いつもの優しい蓮さんじゃなかった。


「隠し事なんて、してないわ……どうして、そんなこと言うの?」


 必死に弁解した。でも、蓮さんは信じてくれなかった。


「本当に? なら、どうして最近僕に冷たいんだ? ……前みたいに笑ってくれなくなった……僕のこと、もう、好きじゃないのか?」


 蓮さんは、さらに問い詰めた。その言葉は私の心を深くえぐった。


「冷たくなんて、してないわ……あなたのこと、大好きよ……」


 涙を浮かべながら、そう言った。でも、蓮さんは聞く耳を持たなかった。


「嘘だ。君は僕に何か隠してる……美咲さんから全部聞いたんだ」


 蓮さんは、そう言って突き放した。その言葉は私にとって何よりも残酷な言葉だった。でも……美咲さんから全部聞いた?


 そして、蓮さんの口から、信じられない言葉が飛び出した。


「君、蓮翔さんと、どういう関係なんだ?」


 蓮さんの目は、怒りとそして悲しみに満ちていた。この時、全てを悟った。美咲さんは、蓮さんに私と蓮翔さんのことについて何かを吹き込んだんだ。そして、蓮さんは、それを信じてしまったんだ。


 絶望した。もう終わりだと思った。蓮さんとの関係はもう修復できない状態まで来ているんだ。


 そう、思った。

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