湯煙と親子 5

 一度客室に戻ってから再度遊垣親子の寝室へ戻ると、咲湧は部屋の真ん中で蹲りながらわけの分からない言葉を叫んでいた。周囲に須川の姿が見当たらない。血の気が引き目眩がしかけた時、腕が外れそうな程の力で引っ張られ、壊れた箪笥の裏側に引き込まれた。

 須川だ。息を荒げてはいるが怪我のようなものは見当たらない。思わず声を出しかけるが、頬をぶたれて声を出すことは出来なかった。

「喋るな、身を屈ませてろ。今は咲湧さんに見つからなければ大丈夫だ」

 須川は声を潜めてそう言った。ぶたれた頬が熱を帯びてきて文句を言いたくなるが、この状況じゃ痛みがあった方が正気でいられそうだ。

 咲湧は矢至と須川を探すことよりも、畳がひっくり返されて露わになった床に向かって叫ぶことに躍起になっていた。

 矢至は押し殺しながら声を出した。


「咲湧さん、怪我をしてああなったわけじゃなさそうだ。いきなりなったって奈樹ちゃんが言ってた」

「となると時間経過による祟化か」

「あとこれ、一応持ってきたけど、まだ使わないよな……?」

 須川の荷物を漁って持ってきたショルダーホルスターを差し出すと、須川は少しだけため息を付いてから受け取った。そのまま銃を取り出しはしたものの、構えることはせず宥めるように矢至を片手で押える。

「一応で抜き取っただけだ。最初の被害があって恐らくまだ二回目の祟化だろ。戻れる可能性は大いにある。奈樹もお前が避難させたから二次被害の危険性もないし、ここで暴れられる分には大丈夫だ」

「なあ、でも何もしないわけにもいかないだろ。今は何をすれば」


 矢至がまくし立てようとすると、また頬をぶたれた。一回目とほとんど同じ位置に飛んできた平手はかなりな勢いで、余計な焦りを痛みで上塗りしていく。矢至は呻き声を押し殺し、床に蹲った。

「いいから落ち着け。いいか、咲湧さんが人間に戻るまでは何もしないしできない。あえて何かするとしたらそれは俺が安楽処置を決めたときだ。でもまだその必要はない。分かったらここでじっとしてろ」

 頬を押えながら須川を睨んだが、抗議の意は大して伝わらなかったようだ。やがて部屋の真ん中で叫んでいた咲湧の声が段々と小さくなっていくのが分かった。箪笥の影から覗いてみると、肌にまばらに生えていた毛は魂が抜けたようにその場に落ちていき、歪んだ足の関節も人間のものに戻っていく。元の姿に戻った咲湧は、力が抜け落ちたようにその場に座り込んでいた。


 須川はホルスターをシャツに巻き付け銃を仕舞ってから傍に駆け寄る。

「怪我はありませんか」

「須川さん……? これは、一体どうなってるんですか。寝室がこんなになって……奈樹、奈樹はどこにいるんですか!?」

「大丈夫です、避難させてあります。だから、お話できますか」

 慌てふためく咲湧を押え、至極冷静に須川は話しかける。普段の言葉の荒さからはあまり想像できない姿だ。咲湧もその態度につられるようにして落ち着きを取り戻し始める。

「矢至、奈樹ちゃんここに連れて来い」

「その前に咲湧さんを病院に連れて行かなくていいのかよ」

「祟化から戻ったばかりだからまたすぐに祟化するなんてことはない。急いだ方が良いのは確かだが、今は現状を把握させて咲湧さんが落ち着けるようにしたい」

「分かった」


 矢至が部屋を出る直前、床に転がっていたあの写真立てが目に入った。やはりガラスにヒビが入っている。落ちた衝撃でこうなってしまったんだおうが、幸運にも中の写真は無事だった。矢至は写真立てを拾い上げて咲湧に渡した。

「確かに暴れ回ってたんだけど、あんた、この写真を見て一瞬動き止めたんだ」

 咲湧は震える手で写真を受け取った。そこに映るかつての家族を見て、咲湧は写真を抱きしめた。

 壊された壁から風が吹き込み、木くずと咲湧から抜け落ちた獣の毛が舞った。須川が冬毛だと言っていた毛は風の動きに沿って移動し、咲湧の近くで止まる。矢至はなんとなく、まるで咲湧を温めているようだと、そう思った。


 ====


 奈樹を車から連れ戻すと、須川と咲湧は客室に移動していた。元々いた寝室は酷い状態になってしまっていたからだろう。襖を開け座布団に座り咲湧を見た時、それまで唇を硬く結んでいた奈樹は母親の胸の中に飛び込んで大泣きした。あの寝室で泣きじゃくってた時とは違う安堵の涙だ。

 あの時間が母親との最後の時間になれなくて良かったと、矢至は心底安堵する。

 奈樹が泣き疲れて眠ってから、頃合いを見て須川は口を開いた。


「咲湧さん、浴場に血だまりがあったのはご存じでしたよね?」

「ええ、たしかにありましたね。あそこを荒らした人間が、どこかに体引っかけて怪我をしたものだと思っていたんですが……」

「恐らくあれは咲湧さんの血液でしょう。脱衣所には血痕が見当たらなかったんですが、浴場で大きな怪我を負ったのに脱衣所ではその血が止まっているなんてことは普通考えまれません。ですが祟化すれば別です。短い間で出血が止まることもありえます」

 咲湧は疲れ切った表情で相づちを打ち続きを促した。

「恐らくどこかのタイミングで遺骸を食べてしまった咲湧さんが浴場で転倒か何かで負傷し、出血。体が弱ったのに応じて祟化し、傷が塞がったんでしょう」

 矢至は温泉の泉質を思い出していた。ぬめりのある泉質で、慣れている人間でも転倒することもあるだろう。旦那の三回忌の集まりが長引いて、疲れていた状態なら尚更だ。


 咲湧はため息をついた。

「あの夜、私は気付いたら布団に横になっていたみたいな状態で、疲れていたからだろうと思ってたんです。でも違ったんですね」

「祟化初期の段階は、祟化した周辺の記憶が無いということがよく起こるんです」

「……でも、本当に変なものは食べた覚えがないんですよ」

「よく思い出してみて下さい。三回忌の日かそれ以前、食べた肉類の中に違和感のあるものはありませんでしたか」

 咲湧は俯き考え込んだ。咲湧の膝で眠る奈樹の、小さい唇が言葉にもならないような寝言を呟いて閉じる。咲湧は目を見開いた後、みるみるうちに顔が青ざめ始めた。

「あ、あの日の晩、肉うどんを作って食べて、一切れだけ臭い肉があったんです。豚肉なのにキツい羊肉みたいな臭いで……おかしいなって思ってたら奈樹が『疲れたときはちょっとだけ食べ物にご褒美を混ぜると良いんだって』って言って……」

 声を震わせる咲湧の近くで矢至もまた顔を青ざめさせた。奈樹からクレーンゲームのお礼を貰ったときに、同じ事を言っていたのを思い出したからだ。


「その臭い肉というのは一切れだけでしたか」

「はい。それで、誰が言ってたのって聞いたら、猟師のお兄ちゃん、って……」

「須川さん、あんたが話したっていう猟師じゃねえのか」

「いや違う。その人は五十代ぐらいの男だ」

 須川は、瞼の赤い奈樹の寝顔を見ながら唸った。

「奈樹ちゃんから詳しい話を聞かなきゃならねえ……」

 矢至は絶句した。この幼い子供が、自分の行為が母親が発狂に繋がったんだと気付いてしまう可能性だってある。

 咲湧は目を充血させ唇を噛みしめた後、頭が膝で眠る娘の額に付くギリギリまで、頭を下げた。

「お願いします、原因がこの子にあったとして、そのことは伝えないで下さい……」

 矢至と須川は頷いたものの、表情は晴れなかった。この事案の記録も管理局には残ることになる。幼い娘が母親を想って取った行動が、祟化に繋がったという記録が。

 母親の膝の上で眠る奈樹の規則正しい寝息だけが、唯一の救いだった。


 ====


 空の真上まで昇った太陽が、車のボンネットをほのかに温めている。車に乗り込み、離れていく病院に手を振る奈樹を矢至は複雑な気持ちで見守っていた。咲湧を病院へ送り届けたこの後矢至と須川は、その足で奈樹を親戚の家まで送り届けることになっていた。

 奈樹自体はというと、不安はあるはずだろうに利口そのものだった。必ず治るものだという前提を須川が伝えた上で、母親が病気のような状態になっているから入院しなければいけないこと、それまで親戚の家に泊まらなければならないことを話されても、文句の一つも言わずに頷いていた。

 前方に自販機が見えると、須川は車を止めオレンジジュースを買い奈樹に手渡した。少しずつ呑んでいき奈樹が息継ぎのように息を吐く。できるだけ自然な形になるように、矢至はできるだけ肩の力を抜いて奈樹に話しかけた。

「奈樹ちゃん、そういえば『猟師のお兄ちゃん』に会ったんだって?」

 奈樹はジュースを持ったまま頷くと、その日の話をしてくれた。


 父親の三回忌と集まりがあったあの日、大人達の飲み食いと会話に退屈さを感じて旅館を抜け出し散歩の出ていたらしい。孫娘の将来のことを語る大叔父の話よりも、雪が溶けてから初めて見つけた蟻の巣を見ている方が楽しかったようだ。だが奈樹はずっと、やつれた母親の様子も気に掛かっていた。そんな折り、あまり見かけない若い男が、「一体何をしてるのか」と奈樹に声を掛けてきたという。


「そいつはどんな奴だった?」

「すらーっとした人だった。話すと楽しくて優しい良い人だったよ。一杯働いた後みたいな帽子被ってて、猟師のおじさんが時々持ってるのと同じ黒くて大きいカバン持ってたから、仲間の人かなって思った。そうなんでしょ?」

「ああ、そうだな……」

 奈樹は予想が合っていて嬉しいという風に微笑みを浮かべると、続きを話し始める。矢至はルームミラーを見た。須川の眉間に濃い皺は寄っている。強くハンドルを握り締めた気がした。

「だから退屈なことと、お母さんが疲れてて心配って話したらお肉をくれたの。栄養がいっぱいあって美味しい物だから、晩ご飯に混ぜると良いよって。疲れたときは食べ物にご褒美を混ぜると嬉しくなれるからって言ってた」

 相づちを上手く返せず、黙って頷くという下手な返事しか出来なかった。


「奈樹ちゃん、その男とはそれ以降会ったのか」

 須川の声に威圧感が滲んでいる。矢至は唾を呑んだ。汚い帽子を被った長身の男は、須川は以前言っていた、変死体事件で目撃情報のあった男だ。

 奈樹は須川の変化に気付かなかったようで、無邪気に答えた。

「ううん。もうそれっきり、一回も見てないし会ってないよ」


 ====


 車が一つの民家の庭先に入る。民家の玄関には色あせた犬の置物があった。以前聞き込みを行なった家だ。須川がインターホンを押し家の中から出てきた中年の女も、聞き込みを行なった人物だった。女は奈樹を抱きしめた。

「奈樹ちゃん疲れてない? 大丈夫?」

「うん。お兄ちゃん達とお話し出来て楽しかった」

 奈樹は少しだけ赤い目を擦ってから、背負っていたリュックを気丈に揺らす。強い子だ。女はそれを見て眉を下げて微笑んでから、矢至と須川に頭を下げた。

「色々とありがとうございます。咲湧さんも無事で良かった……」

 須川も同じように頭を下げ、それに続き矢至も慌てて同じようにした。

 奈樹の預け先には、咲湧が誤って遺骸を口にしていた事実は話してはいたが詳しい経緯は調査中だと伝えてあった。遊垣親子のこの後のことを思うと、そう伝えるのが一番だろうと判断されたからだ。


 奈樹の荷物を車から降ろし玄関まで持ってくると、須川が玄関に廊下の奥に向かって会釈をした。その視線を追うと、老婆が睨み付けるようにしてこちらの様子を伺ってきているのに気がついた。

 内履きのまま玄関のギリギリまで寄ってきた老婆の排他的な視線は、ラフな格好をした矢至ではなくスーツを着込んだ須川に向けられている。

「お前さんが須川か。うちの嫁に聞いたよ」

「先日はお話を聞かせて頂いて、お世話になりました」

 老婆はそんなことはどうでもいいと言うように鼻を鳴らした。


「四十年ぐらい前か。同じく須川って名乗ってた人間がこの辺りにきたよ。しばらくしたら、白い鹿を撃ったって喧伝してた鉄砲打ちのオヤジが死んだ」

 言葉はそこで区切られ、責めるような視線が須川に向けられる。

 矢至は不快感を覚えて老婆の方へと一歩踏み出そうとしたが、襟を鷲掴みにされ叶わなかった。須川は表情を少しも変えず、もう一度会釈をした。

「なんなんだよあれ」

「俺の役割上よくあることだ、気にするな。塩撒かれたわけじゃねえだろ」

 車に乗り込むと、須川は努めて平静な声でそう言った。もっとキツく咎められるのを予想していたから調子が狂う。


 エンジンが掛かり民家が遠のき始める。老婆の姿は見えない。気持ちを切り替えるために頬を叩いてから奈樹の姿を探すと、リュックを背負い直しこれから世話になる家を呆然と眺めている所だった。奈樹はエンジンの音にこちらを向くと、手を伸ばし大きく振ってきた。

 矢至も窓を開け手を振り返す。硫黄の臭いが車内に流れ込んできた。それだけじゃない。奈樹の礼を言う声も聞こえてくる。

「泣いて恨まれながら見送られることにならなくて良かった」

 硫黄の臭いが残る車内で、須川はそう呟いた。矢至はなんとなく分かった。須川の呟きは、その経験が何度かあるから出たものだと。安楽処置を行なえば、遺族から反感を買うことだって当然あるはずだ。


 矢至は拳を握り締めた。これからも今回のように上手くやっていける保証はない。だが、見送ってくれた奈樹の姿や、隣で目の下にクマを浮かべている癖に安堵した様子を見せる須川の様子を見ていると、わからないなりに奔走してみようと思えた。

 矢至は煙草を取りだし火を付けた。車内には硫黄の臭いがまだ残っていて、窓の外には不安定に立ち上っていく湯煙がそこかしこに見える。湯煙はやがて、真昼の空に霧散していった。

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