烏と蛇 2
「白い体毛に優れた身体能力と賢さを持つ生き物。それが
須川は矢至の唇が震えていることに気がついたのか、ため息をついた。
「俺は捕まるのか……?」
「神使の肉……公的には
「つまり矢至君は捕まらないってことです。運ばせた側はその限りじゃないですがね」
矢至はひとまず胸を撫で下ろした。
大鱗達の姿が浮かびはしたが、少しも同情はしなかった。
「矢至君、神使や遺骸についてはご存知で?小学校理科の授業で軽く触れる内容なんですが」
「なんとなくは……」
神使。山や野、海に時々現われる、極めて珍しい白い生き物で、謎に包まれた存在だと言われている。
白い体が太陽の光を僅かに反射する姿は見惚れるほど美しく、体温は温かく心地が良い。
矢至は小学校で受けた授業の大半は忘れてしまったが、その存在のことはよく知っていた。そして、神使を食べると酷いことになるというのはよく聞く話だ。
昔見たドキュメンタリー番組の映像を矢至は思い出す。飢えの果てにようやく白い兎を狩った狐が、数時間後には後ろ足を歪に曲げていたのだ。
冷たい唾を飲み込むと、嚥下する音が大げさに聞こえた。
「ほんとに、俺が食ったのは遺骸ってやつで間違いないのか……?」
「遺骸とそれ以外とを科学的に判別する方法はない。食った人間がおかしくなくるか、変なものを吐き出せば遺骸を食ったっていう証明になんだよ」
須川から病院で見せられた写真を思い出す。湿った数本の白い羽根の写真。
「なんで羽根なんか……」
「原理はわかっていない。わかってる範囲で言わせて貰うと、遺骸は消化されない。胃の中に残り続け、食べた人間の体を蝕み続ける。遺骸を食べた人間が嘔吐すると、体毛か遺骸が出てくるようになるんだ」
須川は眉間にシワを刻みながら話を続ける。
「お前は羽根を吐き出したし、運んでいた荷物の肉には囓り跡が残されていた。それに加えてお前が発見された現場の周辺状況。俺達はこの三つから、お前が遺骸を食ったと判断した」
「……現場状況? ただの山だっただろ」
「そう、ただの山だ。だが明らかに荒らされた痕跡が残っていた」
須川はまた別の写真を矢至に見せた。なぎ倒された木の写真だ。人が腕を回しても足りないぐらいの太さの見事なアカマツが、途中から無残に折られ幹の内部を晒している。
周辺にはカサつき火照った人間の皮膚のような木の皮と、巨大な白い羽根が散らばっていた。
「なんだよ、これ」
「お前が倒れていた現場付近の写真だ。察してるとは思うが、ただの倒木の写真じゃねえからな」
「じゃあ、これは」
矢至は言い掛けて、中途半端に口だけを開いた。
上手く言葉が出てこない。もしかしてこうなんじゃないかという予測はあったが、最悪な予測だったので口にするのが躊躇われた。
鹿倉が矢至を宥めるような穏やかで、そして努めて冷静な声で話し始める。
「矢至君、遺骸を食べたことによる悪影響は治しようがあるという前提を踏まえたうえで私の話を聞いて下さい」
矢至は躊躇いがちに頷いた。
「遺骸を食べたことによって及ぼされる悪影響を私達は
「寄っていく……?」
「人間の知能も姿も生態も、別種の獣に変わっていきます。神使が自らを食った者を恨み祟るかのように、無理矢理有り様を変えていく。だから祟化と呼ばれています。人間の祟化を目の前で見たことは?」
矢至は首を振った。獣になった人間を見たこともなければ、祟化というものをまだぼんやりとしか理解していない。
隣に座っていた須川がため息を吐き、写真を胸ポケットにしまった。
「祟化した生き物は高確率で理性が吹っ飛び暴れまくる。お前が見つかった周辺の現場が荒れてたのは、そういうことだ」
「祟化についてはもう少し込み入った説明もできますが、須川さんにあまり話しすぎるなと言われているんです。ただでさえ参っているでしょうから」
矢至は十分不安になるほど話された気がしないでもなかったが、文句を言う気にはなれなかった。
色んなことを一気に聞いたせいで思考がごちゃついている。恐怖と不安だけははっきりとしていた。
陰鬱な気持ちで矢至は車内の床を見つめる。靴は山で遭難したときの薄汚れた状態のままだった。
気を逸らしたくて窓の外を眺めると、鹿倉が運転する車は市街地を離れ街とも農村とも呼べないような場所まで来ていることに気が付いた。
スーパーと薬局の間には雪の積もった田んぼが広がり、道路標識やガードレールは所々錆びた様子が見受けられる。しばらくすると、道路の向こう側に二階建ての小さな病院が見えてきた。
「いいか矢至、祟化は不治の病じゃない。遺骸を吐き出すことができれば治まっていく。そう気負うなよ」
須川の手からペットボトルの水が渡される。矢至は少し迷ってからそれを受け取った。
喉を伝っていく水の温度が気持ちいいが、空の胃の中に流れ込んでいく冷たい感覚が嫌なくらい感じ取れた。
「……で、あんたらが言ってた遺骸管理局ってのは一体何なんだよ」
「私達の所属している遺骸管理局では、一般人に危険が及ばないための遺骸にまつわる仕事をしています。野山の遺骸の回収、密売や運搬などの事案、そして祟化の可能性がある事案。それらが引き受け対処するのが遺骸管理局です」
矢至は気分の悪さを覚えなから、呆然とその話を聞いていた。清涼感のある車の芳香剤の匂いが今はひたすら恨めしい。
須川は額を掻いてから、矢至のことを真っ直ぐに見据えた。
「遺骸を食ったその後でも社会復帰した人達を何人も知ってる。俺達に任せて、お前は気楽に休んでろ」
須川の言葉は慰めのつもりなんだろうか。
それにしたって労りの言葉と顔つきがあっていない。だが、車内の空気が少しマシになった気がした。
====
矢至が二人に連れて来られたのは古く小さな病院だった。案内された病室は個室だったが、常に扉が開放されている。何かあったらすぐにわかるようにという目的らしい。
ここでの矢至の入院生活も、以前とあまり変わりは無かった。点滴で栄養を受け取り、嘔吐する。遺骸を吐き出すまで食事を取ることは出来ないらしいので胃は空なままだった。しかし、そのはずなのに洗面器に白い羽根と胃酸を吐き出した時、矢至は須川に見せられたあの羽毛の写真が事実だったんだと思い知らされた。
「よう、調子はどうだ」
転院しから一週間後。ベットに横になっていた矢至が目を覚ますと、椅子に座った須川が看守のような目つきで矢至に声を掛けてきた。
「最悪だよ。寝起きからいきなり胃が痛くなった」
「余裕そうじゃねえか」
矢至は須川を睨みうんざりしたような態度で答える。ほとんど虚勢だった。
今はそうでもしないと弱音が零れそうになる。ベットの傍に置いてある洗面器の中には、まだ湿っている羽根があった。
「すまん。退院にはもう少し時間が掛かりそうだ」
「……わかった」
医者でもないのに頭を下げ項垂れる須川に、矢至は嫌みを言う気にはとてもなれなかった。
変わりに矢至は違う話を須川に振った。
「なあ、そういえば、俺が食った肉の種類って何なのかわかんのか」
「予想だけならできるが、特定はできない。前も言ったが神使は科学で解明出来ないことが多いんだよ。遺骸をDNA検査にかけても何も分からないし、吐き出される体毛も全部白いから識別も困難なんだ。だから地道に情報を集めて予想する」
「俺が食った物のあたりくらい付けてるんじゃないか?」
須川は呆れたように息を吐くと、胸ポケットから手帳を取り出し目を通した。
「多分、烏だ。麓に住んでた爺さんが、お前が見つかる少し前に烏のデカい声を何度も聞いたって証言している」
「……烏?」
白い羽毛に温かい体温。戯れるような鳴き声。記憶の端にあった感覚が蘇り、そして寒気がした。
「須川さん、悪いがもう帰ってくれ。気分が悪くなってきた」
「……看護師呼ぶか?」
「いい。じゃあな」
矢至が須川に背を向けると、視界に入ってきたのはカーテンの開かれた窓の向こうの、切なくなるほどの青空。眩しさに矢板は目を瞑った。瞼の裏に、白い残影がちらつく。
「ゆっくり休めよ」
須川はそのまま帰って行ったが、病室には先程まで無かったスポーツドリンクが置き土産のように置かれていた。
「おい矢至、寝てんじゃねえよ、おい!」
矢至が目を瞑ってから数分。まだ意識も手放さないうちに、粗雑な言葉が投げられる。
一瞬須川の顔を思い浮かべていた矢至はその声を聞いて、跳ね上がるように起きた。
目の前に現われた男に矢至は顔を歪ませる。シャツがまくられた腕には鱗の刺青と金の腕時計が巻かれていた。
「大鱗さん、なんでここに……」
男は矢至に遺骸とデタラメの地図を渡してきた、大鱗だった。
「せっかく俺が見舞いに来たんだから喜べよ。殺しに掛かってきた相手に遭遇したみたいな顔しやがって」
「あの荷物なんだったんだよ、地図だって偽物だし」
「使いっパシリがそんなこと知ってどうする。地図だって細かいことだろ、気にすんなよ」
分厚い手の平が数回矢至の背を叩いた。噎せる矢至に大鱗は下品に口角を上げ笑った。
「まあ教えてやってもいいが単純な話だ。どんなやべえもんでも食いたがる物好きはいる。あれはそういう金持ちの物好きに売りつけるための物だったんだよ。色々あってお前にはあの地図渡したがな」
大鱗はそう言うと胸ポケットに手を差し込み煙草を取りだすと、火を付けた。
「お前あの荷物食ってこんな所まで搬送されたのか、笑えるな。知ってるか? あの妙な肉は食ったらやばいなんて言われてるが、何も起こらない場合もあるらしいぜ」
「……ここで吸うと看護師がすっ飛んでくるぞ」
「話はすぐ終わる。そうピリピリすんなや」
大鱗は声を静めた。
どうやってもここまで来たのかも病室の場所を割り出したのかも矢至には見当も付かなかったが、とにかく早く居なくなってくれと内心叫んでいた。目の前の男の顔を見ていると夜の山の寒さと飢えを思い出す。
「ここに通ってきてる奴がいんだろ。そいつに嘘の情報流せ。俺達の拠点のだ」
大鱗はそう言って煙を吐き出した。
「なんでそんなこと……」
「どっかから情報が漏れて警察が俺達のこと嗅ぎつけやがったんだよ。誰が言ったんだろうなあ」
矢至の肩に大鱗の腕が回る。鱗の刺青のせいで、蛇に首を締め付けられているようだった。
「お前、まだ俺達の細かい内部事情話してねえんだろ。俺達に未練がある証拠だ。警察をまいて新しい拠点を用意出来たらお前への報酬を倍にしてやるよ」
大鱗は煙草の火を消すと、矢至のゴミ箱に吸い殻を捨てた。
ベットの傍のテーブルにスポーツドリンクが置かれているこその時その時矢至は初めて気がついた。
「……大鱗さん、この飲み物あんたが持ってきたのか」
「あ? 知らねえよ。元からあったんじゃねえのか。じゃあしっかりやれよ」
「待ってくれ」
ベットから大鱗が離れていく。病室を出る間際、矢至は大鱗に声を掛けた。
「あんた達の事は、……誰にも何も話さない。本当の情報も嘘の情報もだ。今まで話さなかったのは飯食わせて貰った分の恩だよ。もうこれ以上のことはしない。こっちは死にかけたんだ……もう来ないでくれ」
「あ?お前何言ってやがんだ」
「俺が叫べば看護師がすぐ来て警察を呼ぶ。いいのか」
「……クソが、イキだってんじゃねえよ」
そう吐き捨て、大鱗は早足で病室を去って行った。
矢至は大きく息を吐いた。大鱗が去ってもまだ病室の空気が凍り付いているように感じるし、心臓が酷いくらい暴れている。
顔まで伝わってくる鼓動の感覚と額の油汗が煩わしくて、矢至はサイドテーブルのスポーツドリンクに手を伸ばした。砂糖で味付けされてる甘い液体が、緊張で乾いた喉を励ますように潤していった。
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