孤独な少女
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――――――――――――――<前書き>―――――――――――――――
──世界が、灰色だった。
壁も、床も、天井も。廊下に並ぶ柱の一本一本、扉の取っ手の金具すら、どこまでも冷たく、どこまでも無機質。
静まり返った九条家の本邸。
冬の朝のように冷え切っていて、深夜の墓地のように寒々しい。
まるで、最初からそこに何もなかったかのような──。
白々しいほどに、無関心な世界。その世界の中に、たった一人。少女が、いた。
彼女は、そこに立ち尽くしていた。
長い廊下の先には、誰もいない。
豪華なはずの屋敷は、静寂に包まれ、温もりの欠片すら存在しなかった。
──彼女は、生まれた瞬間から、「九条の正統な血筋」ではなかった。
妾の子。望まれなかった存在。
彼女の母は、九条家の当主が、一時の気まぐれで迎えた女だった。
母は、高貴の血を引いていなかった。九条家の血筋に相応しい教養も持たなかった。
ただ──。
その美貌に目を留められたというだけで、
一時的に屋敷に迎えられた女。
──そして、生まれたのが、響だった。
だが、彼女の誕生は、決して喜ばれなかった。
母は、当主の「正妻」ではなかった。
九条の血を継ぐ正統な子供たちのように、華やかな祝福を受けることもなく、九条家の者たちに迎え入れられることもなく。
──ただ、"存在してしまった"子供。
「九条の正統な血統ではない」
「異物」
それが、彼女に与えられた烙印だった。
幼い頃から、響は知っていた。
──この家の誰もが、自分を必要としていないことを。
華やかな宴が開かれる広間に、彼女が呼ばれることはなかった。
礼儀作法の指導が行われる教室にも、彼女の席はなかった。
家の者たちは、彼女を「いないもの」として扱った。
誰も、目を合わせようとしない。誰も、言葉をかけない。
屋敷の中を歩くとき、使用人たちは一斉に視線を逸らした。
"そこに誰もいないかのように"
"ただの空気であるかのように"
響は、そう扱われ続けた。
家族という言葉に、何の意味もなかった。
父親の顔をまともに見た記憶はない。
彼は、響の母のことすら顧みることはなかった。正妻がいるのだから、妾など関心の外。
ましてや、その娘など──。
母は、かつて愛された女だったかもしれない。だが、それもほんの一瞬。
そして、彼女が病に倒れ、命を落としたとき──誰も、悲しむ者はいなかった。響は、泣いた。
けれど、その涙を拭ってくれる者は、この屋敷の中には、一人としていなかった。
響が、生きるために選んだ道は、"剣"だけだった。
"戦い"だけが、"魔を狩ること"だけが、
この屋敷において、"存在を許される唯一の価値"だった。
彼女に求められたのは、九条家の剣としての役割だけ。
感情はいらない。人間らしさなど、必要ない。
ただ、九条家に仇なす者を斬り伏せるための剣。
──それが、"九条の名を持たぬ者"である響に許された、唯一の生き方だった。
彼女は、ただ"役目"として生きた。
"誰かの娘"としてではなく、"誰かの妹"としてでもなく、ただ、"魔を狩る道具"として、そこにいた。
九条家の本邸は、いつも灰色だった。
響にとって、この屋敷は、家ではなく、ただの檻。
家族は、"存在しない"。温もりも、"存在しない"。彼女は、最初から独りぼっちだった。
だから──。
"この家を、愛することはなかった"。
九条家の人間は、「響を決して家族とは認めなかった」。
彼らは、彼女を「異物」として扱った。
──血統の正しい兄弟たち。
彼らは響を、見ることすら、話すことすら、 「必要のないもの」として扱った。
九条の名を負う者たちは、彼女を「存在しないもの」として見ていた。
──使用人たち。
彼らもまた、響を「いないもの」として扱った。
主命だった。
響の母が亡くなった日から。
九条の屋敷では、「皓月 響」という存在は、誰の目にも映らないものとされた。
──唯一、彼女の存在を認めた者。
──それが、長姉・九条 静音だった。
「響」
静音だけは、響の名を呼んでくれた。
食事の場で、廊下ですれ違う時に、小さな声で囁いてくれた。
彼女だけが、響の存在を否定しなかった。
だが、静音は「九条の長女」。
響とは違い、九条の正統な血を引く者だった。
「私たちは姉妹なのよ、響」
──それでも、響は甘えなかった。
彼女が、九条の次期当主候補としてふさわしい立場にいることを知っていたから。
「姉様に迷惑をかけることはできません」
そう言って、静音との距離を保ち続けた。
それが、「普通」だった。
──母を失って以来、響の世界には、「温もり」というものがなかった。
寒々しい九条家の廊下を、ただ独りで歩く。
そこにいるはずの人々は、彼女の存在を認識しない。
朝になれば剣を握り、
夜になれば剣を研ぐ。
誰かと語らうこともなく、
誰かに笑いかけることもなく。
彼女は、ただ、九条の命じるままに魔を殺し続けた。
九条の「剣」として、
九条の「道具」として。
それが、"皓月 響"に与えられた唯一の生きる価値だった。
「……助けて」と、声に出したこともあった。
だけど──
「お前は、そういうものだ」
返ってきたのは、冷たい言葉だけだった。
九条家において、響は"いないもの"。
母が死んでも、"九条家"にとっては何の影響もなかった。
助けを求めることすら、許されなかった。
響の中には、一つの"教え"が刻み込まれていた。
「お前は、そういうものだ」
──お前は、誰にも必要とされない。
──お前は、誰にも求められない。
──お前は、ただ剣を振るうことしかできない。
響の心は、幼い頃からそう形作られていた。
もし、家族に愛された記憶があったなら。
もし、誰かが温もりをくれていたなら。
──けれど、彼女には何もなかった。
「温もり」も、「愛」も、「誰かにすがること」すらも、彼女の世界には存在しなかった。
九条家の人々は、響を"いないもの"として扱った。
だから、独りぼっちでいることが"普通"になった。
一緒に食事をすることもない。
一緒に歩くこともない。
一緒に眠ることもない。
朝起きて、
剣を振るって、
戦って、
帰る。
──ただ、それだけの日々。
"孤独"という概念すら、もう意識しなくなっていた。
生まれた時からそうだったのだから、当たり前だ。
──"独りでいること"は、何も特別なことではなかった。
けれど、それが"幸せ"だったわけではない。
響は、心の奥底では知っていた。
"本当は、誰かに触れられたかった"
"本当は、誰かと一緒にいたかった"
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