壊血の抱擁



 響は、眠れなかった。

 目を閉じるたび、闇が襲いかかる。


 ──あの夜、あの痛み、あの血。


 全身を貫く激痛。

 鞭の音、折られた指の感触、剥がされた爪の焼けるような痛み。

 あの時と同じ苦痛を感じる。違うのは、今は夢だと分かっていることだけ。


 だけど、それが何になる?

 現実と寸分違わない苦しみを感じながら、夢の中で何度も叫び、何度も血を吐いた。



 次に現れるのは──人間を殺している自分。


 全身が返り血に染まり、倒れる人間を無表情で見下ろす。

 "魔"としての自分。"半魔"として、嗤いながら喉を裂く。


 ──"響は、人間ではなくなった"。


 何度も、何度も、その事実を悪夢は叩きつける。



 九条の屋敷。帰る場所。戻るべき場所。扉を開ける。


 ──だけど、そこには誰もいない。


 静音もいない。父も、九条の者たちもいない。ただ、冷たく広い空間が広がるだけ。


 ──独りぼっち。


 呼んでも、返事はない。響は、ひたすらに誰かを探す。でも、どこにもいない。

 "皓月 響"という存在は、完全に消えた。

 そのまま、闇に沈む。


 ──そして、目が覚めた。



 響は、朝を迎えても、何も感じなかった。

 眠れていない。

 血の渇きは日に日に増しているのに、食事は喉を通らず、倦怠感が身体を蝕んでいく。


 ふらつきながら、アメリアの城を歩く。何もかもが霞んで見える。


 ──"生きている"のか?


 ――"死んでいる"のか?


「……響」


 アメリアの声がした。いつもの余裕を含んだ声ではなかった。

 憂いを含んだ声音で、彼女は響の名を呼ぶ。


 響は、それを無視した。

 アメリアが心配する? 馬鹿な話だ。

 自分を弄び、壊した"張本人"が、心配などするわけがない。

 響は冷たい沈黙を貫いた。


 ──それでも、アメリアの目が、"悲しげだった"ことに気づいてしまう。




 限界だった。

 眠れない夜、殺意の悪夢、孤独の恐怖。

 そのすべてを押し付けられた。

 そのすべてを与えられた。


 ──"お前のせいだ。"


 無意識に、声が出た。


「お前のせいだ……」


 アメリアの眉が、わずかに動く。

 だけど、響は止まらなかった。


「お前のせいで……! 私は、私は──!」


 ──何を言いたい?

 何を訴えたかった?


 それすらも分からないまま、口をついて出た言葉は"怒り"だった。


 だが──。


 響は、ハッとした。


 ――何を言っているんだ、私は?


 冷静になった瞬間、理解した。こんな言動を、この女が許すはずがない。


 ──指だけでは済まない。


 ──もっと酷い罰を受ける。


 血を抜かれるか?

 また爪を剥がされるか?


 アメリアは何も言わない。ただ、静かに響を見つめていた。


 "あの女は、私を壊したいと思っている"。

 "だったら、今の私は、壊すには絶好の状態だろう"。


 "なのに──"


 ──"何もされない?"


 アメリアの瞳が、一瞬だけ、微かに"痛み"を宿した気がした。


 アメリアが、ゆっくりと響の頬に触れた。


 ──来る。


 響は、本能的に身を強ばらせる。

 しかし、何も起こらなかった。

 指先が、ただ、そっと頬を撫でるだけ。


「……そう」


 アメリアの声音は、穏やかだった。

 響は、驚愕と安堵の入り混じった感情を覚える。

 アメリアは、そっと手を離し、微笑む。


「部屋で待っていなさい。落ち着ける飲み物を入れてくるわ」


 そう言って、静かに去って行った。






 夜。暗闇の中で、響は目を見開いた。


 息が荒い。

 胸がひどく苦しい。


 ──また、あの夢を見た。


 孤独の夢。何もない屋敷の中を、ひたすらに彷徨い続ける。

 誰もいない。どこにも、誰も。

 九条家には、響の居場所など最初からなかった。


 それを突きつけるかのような悪夢。毎晩繰り返される地獄。


 ──そして、目覚めるたびに、響はひとりだった。


 孤独を知り尽くした人間が味わう、さらに深い孤独。

 どこへ行けばいいのかもわからず、自分が何者なのかすら、わからなくなっていく。

 だが、その夜だけは違った。


 何かが、そっと響を抱きしめていた。

 柔らかい感触。包み込むような温もり。香りがする。甘く、どこか優しい香り。

 人の温もり。それは、もう何年も味わったことのないものだった。


 響の唇が、震える。


「……誰?」


 微かな囁き。答えはなかった。ただ、腕の力が強まる。

 響を包み込む抱擁は、どこまでも優しく、どこまでも温かく──このまま溶けてしまいそうだった。


 響は、ゆっくりと顔を上げた。


 ──アメリアだった。


 暗闇の中、彼女はベッドの傍に椅子を置いて座っていた。

 まるで響を見守るように、ずっと、そこにいた。


 いつから?

 最初から?


 響は気づかなかった。気づけるはずがなかった。心も身体も、限界だったのだから。


「大丈夫」


 アメリアが囁く。


「私が、そばにいるわ」


 それだけの言葉だった。

 なのに、その声は、どこまでも優しくて、

 どこまでも穏やかで──響の心に、ひどく染み渡る。


 違う。お前のせいだ。

 響は、言いたかった。


 こんな悪夢を見るのも、九条に帰れないのも、自分が何者かわからなくなったのも。

 すべて、お前のせいだ。アメリア、お前が私をこんなふうにしたんだ。


 だから──。


 ――だから、私は、お前を……


 言葉が、出なかった。

 アメリアの腕が、ひどく優しくて。アメリアの温もりが、ひどく心地よくて。


 「……っ」


 響は、静かに、泣いた。声を殺して。

 涙だけが、あとからあとから溢れて止まらなかった。

 


 憎い。

 憎いはずだった。


 それなのに──。


 どうして。


 ――どうして、私は、この女の温もりに安堵しているの?


 ――どうして、私は、この腕の中で泣いてしまっているの?


 憎しみきれない。

 壊されたのに。弄ばれたのに。すべてを奪われたのに。

 それでも、今、響を癒してくれるのは、この女だけだった。


 響の肩が、震えた。小さく、微かに。だが、確かに震えていた。

 泣くことなんて、何年ぶりだっただろう。


 ──母が亡くなった時以来かもしれない。


 あの日、響は何もできなかった。

 ただ、母の亡骸を抱きしめ、声にならない嗚咽を漏らすことしかできなかった。


 それ以来、涙を流すことはなかった。

 泣いたところで何も変わらないと、そう思っていたから。

 涙を流せば、それだけ弱さを見せることになると知っていたから。

 だから、響は泣かなかった。


 九条家で冷たく扱われても。どれだけ傷ついても。どれだけ痛みを受けても。


 ──けれど、今は違った。


 止めようとしても、涙は溢れてくる。

 胸の奥が熱くて、苦しくて、どうしようもなかった。

 静かに嗚咽を漏らす響を、アメリアは何も言わずに抱きしめていた。


 ただ、そっと手を伸ばし──。


 彼女の背中を、優しくさすり続けた。

 その手のひらは、誰よりも温かかった。

 


 響の涙が止まるまで、アメリアは何も言わずにそばにいた。


 焦らせることもなく、慰めの言葉をかけるでもなく。ただ静かに、彼女の背中を撫で続けた。

 響の肩の震えが次第に収まり、荒かった息も落ち着きを取り戻していく。


 ──安心する。


 そんな感情を抱くことが、まさかこの女の腕の中で訪れるとは思わなかった。

 響は、ゆっくりとベッドへと横たわった。


 その時だった。

 アメリアが、そっと響の手を握った。

 その指先は柔らかく、優しく絡み合い、響の心を静かに撫でていくようだった。


 ──母が、かつてそうしてくれたように。


 遠い記憶の中の、温かな手の感触。幼い頃、母が夜にそっと手を握ってくれたあの感覚。

 今、まさにその記憶が、アメリアの指先に重なる。

 その優しさに、響の心が震えた。


 だが今度は、恐怖ではなく。


 ただ、静かに、安らぎの中で──響は、すぐに眠りに落ちた。




<あとがき>

ここまで見てくれてありがとうございます!

気に入っていただけたら、お気に入り登録をよろしくお願いします!

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る