壊血の適応者
──手首が、口元に押し当てられる。
響は、反射的に首を振った。アメリアの血。
これを飲めば、確実に死ぬ。いや、ただの死ではない。
先ほどの何倍もの苦痛を味わい、発狂しながら死ぬ。
響は、その未来を理解していた。だからこそ、全力で拒絶した。
──口を開けない。
震える身体の隅々から、残った力を総動員する。喉の奥が引きつりそうになるほど、歯を食いしばる。顎に力を込める。
──絶対に口を開けない。
驚くほどの抵抗力があった。自分でも、こんなに力が残っていたのかと驚くほどに。
「まだそんなに力、残っていたの?」
アメリアは、小さく愉しげに笑った。そして、彼女は手首を響の口から離した。
──次の瞬間。
アメリアは、その血を自らの口に含んだ。
響の目がわずかに見開かれる。
何をするつもりなのか──理解した瞬間、遅かった。
──唇が、重なる。
温かな感触。血の鉄臭さが混ざる、甘美な死の味。
唇と唇が密着し、液体が、一気に流し込まれる。
熱い、濃い、呪われた血が。喉の奥へと、強制的に流れ込んでいく。
響は、全身を震わせながら、吐き出そうとした。だが、アメリアの指が、彼女の顎を掴んでいた。
強い力で、顔を固定される。逃げられない。
どれだけ身をよじっても、どれだけ拒絶しても、
──血は、喉を通る。
「……ッ、んぐ……ッ!」
無理やり、飲み込まされる。
音を立てて、血が体内へと落ちていく。
「ふふ……ファーストキスの味はいかがかしら?」
アメリアが、名残惜しそうに唇を離す。響の口元から、赤黒い液体が垂れる。
──そして。
──瞬間、全身に激痛が走った。
まるで、溶けた鉛を全身に流し込まれたような感覚。
血管が焼ける。骨の髄が燃える。内臓が溶ける。
「……ッああああああああああああッッッ!!!」
響の絶叫が、広間に響いた。喉が裂けるような悲鳴。
──何かが、壊れる。
体の中から溶けていくような錯覚。響の身体が跳ね上がる。
喉を掻きむしろうとするが、指はすでに折れている。あらぬ方向に曲がった指は、何の意味もなさなかった。
身体の内側から、自分自身が自分を攻撃しているような痛み。
響の目が見開かれる。世界が二重に見える。意識がバラバラになりそうになる。
──発狂する。
このままでは、自分ではなくなる。自分という存在が、崩壊する。
アメリアは、ゆっくりと微笑んでいた。
まるで、美しい芸術作品でも眺めるように、目の前で苦しみ悶える響を、愉しそうに見ていた。
「ああ、素敵……」
その表情には、快楽が滲んでいた。
苦しみ、悶え、壊れていく響。
それが、アメリアにとって最高の悦びだった。
響の喉から、悲鳴が止まらない。
──痛みは、終わらなかった。
それどころか、さらに強まっていく。
血管が焼け、神経が破壊され、骨の髄まで軋むような灼熱感が全身を駆け巡る。
壊血は、響の身体を確実に蝕んでいた。
しかし──それだけではなかった。
快楽が混じっていた。
──おかしい。
身体が壊れている。臓腑が溶けるような痛みがある。
それなのに。心地よいと感じてしまっている──。
響の意識が揺らぐ。痛みの奥に潜む悦楽。それは確実に響を支配しようとしていた。
痛みのはずなのに、甘美に感じる。苦しみのはずなのに、悦びに変わる。
──これは、拒絶しなければならない。
受け入れた瞬間、自分は何かを決定的に失う。
それを理解し、響は必死に抗った。快楽を拒絶する。この甘美な感覚に飲まれてはならない。
必死に、心の奥底で叫ぶ。
しかし、抗えば抗うほど、快楽は増していく。
これは拷問ではない。試練でもない。
変質だ──。
響は、歯を食いしばり、何とか理性を保とうとした。
しかし、それはあまりにも無意味だった。
響の様子を見ていたアメリアは、次第に怪訝そうな表情を浮かべる。
苦しんでいる──だけではない。
のたうち回り、絶叫しながらも、何かに耐え続けている。
「……?」
アメリアの微笑が、かすかに消える。
今までの者たちとは違う。
彼女の血を受けた者は皆、発狂し、理性を失い、絶命してきた。
耐えることすら許されず、死という結末しかなかった。
しかし、響は──まだ壊れていない。
そして、変質が進行している。
それは、ほんの一瞬のことだった。
──響の理性が弾け飛んだ。
耐えきれなかった。拒絶し続けたはずの快楽が、あまりにも強すぎて、意識を飲み込んだ。
──響は求めてしまった。
その瞬間、痛みが、嘘のように消えた。
焼けるような灼熱感も、内側を抉るような激痛も、まるで何事もなかったかのように、消えた。
だが、それと同時に──響は決定的に何かが変わったことを直感した。
目の色が変わる。もともと深い闇を湛えていた瞳が、金色へと変わる。
髪の色が変わる。黒一色だった髪が、銀色の筋を織り交ぜていく。
身体が変質した。
だが、響自身はその変化に気づいていなかった。
──それを目の当たりにしたアメリアが、固まる。
「……嘘」
信じられないものを見たような顔。初めて、アメリアの目に驚愕が宿る。
「私の血に──適応したの……?」
壊血の魔女。
その血を受けて、生き残った者は存在しない。例外など、ありえないはずだった。
響の意識がゆっくりと、遠のいていく。
全身の感覚が、ふっと軽くなる。響の意識は、深い眠りへと落ちた。
<あとがき>
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