九条家

 響は、静かな廊下を歩いていた。


 九条家――古代より魔を狩る名門。その本邸、その奥にある当主の部屋へ向かう足取りは迷いのないものだった。

 この館の空気は、どこまでも冷たい。

 長い歴史と格式を持つこの家では、無駄なものは一切許されない。

 飾られた絵画もなければ、花の一輪すらない。

 ただ、厳格な規律と重厚な扉が連なるのみ。


 道中、幾人もの戦士が通り過ぎていく。

 しかし、彼らは誰も響に話しかけようとしなかった。

 それどころか、彼女と目を合わせることすら避けるように、静かに足早に去っていく。


 彼女は、ただ「命令を受ける者」として歩く。

 何も考えず、何も思わず、ただ言われたとおりに命を狩る。

 それが、彼女に与えられた役割。



 静寂が支配する廊下を、響は無音の足取りで歩いていた。九条家の屋敷内は常に張り詰めた空気が漂い、規律と格式を重んじるこの家の性質が、そのまま具現化したかのような空間だった。


 歩く音ひとつ立てぬように、響は壁沿いを進む。

 不要な存在として目立たぬように。

 ただ、命じられた任務を果たすために。


 しかし──


 「……チッ」


 前方から聞こえた舌打ちに、響は足を止めた。

 視線を向けると、そこにいたのは九条隼人──九条家の長男であり、当主の後継者としての地位を持つ男。


 彼の隣には、何人かの戦士たちがいた。隼人の取り巻きとも言える彼らもまた、九条家に仕える者たちであり、響にとっては"遠巻きに軽蔑の眼差しを向ける存在"でしかなかった。


 隼人は、露骨に顔をしかめた。

 まるで、そこに"何か不快なもの"でも転がっているかのように。


 響はすぐに道を譲る。

 ここでは"そうするのが当たり前"だった。


 だが、それが気に入らなかったのか──

 隼人は、響の肩を思い切り突き飛ばした。


 「……ッ」


 瞬間、体勢を崩す響。

 だが、すぐに持ち直し、何事もなかったように姿勢を整えた。


 「おっと……下賤なものに触れてしまったな」


 隼人の嘲笑混じりの声。

 その場にいた取り巻きたちも、それに倣うように嗤った。


「いたのか、まるで空気みたいだったがな」


「……申し訳ありません」


 響は、淡々と答えた。

 そうするのが"最善"だと知っていた。


 「静音が探していたぞ」


 隼人は、唐突にそう言った。

 しかし、その口調には"心配"の色など一切なかった。


 「……」


 響は沈黙する。

 次の言葉が何なのか、分かっていたから。


 「どうやって取り入った?」


 取り入った。

 まるで、響が何か裏工作をしたかのような言い方だった。


 響は、ただ静かに俯く。

 それが最も"事を荒立てない方法"だったから。


 しかし、隼人はくつくつと嗤う。

 そして、こう続けた。


 「母親譲りの才能ってやつか? ……そっちのほうは得意だったもんな」


 嘲りの言葉が、廊下に落ちる。

 取り巻きたちは、まるで"待ってました"と言わんばかりに、響を嘲笑した。


 響は、何も言わない。

 何も言えない。


 隼人は満足したように肩をすくめ、取り巻きを連れて歩き去っていく。

 背後からは、小馬鹿にした笑い声が響く。


 響は、何事もなかったかのように歩き出した。

 まるで、先ほどの出来事など存在しなかったかのように。


 ただ── 。


 響の手は、静かに拳を握りしめていた。

 その指先が、白くなるほどに。


 やがて、当主の部屋の重厚な扉が視界に入る。

 鋼と黒檀を組み合わせた、威圧感のある扉。

 響は無言で扉の前に立ち、軽く背筋を伸ばす。


「皓月 響、入ります」


 短く告げられた指示に従い、扉を押し開ける。

 その瞬間、空気が僅かに変わる。

 まるで、外界とは切り離された空間に足を踏み入れたかのように、冷たく澄んだ気配が室内を支配していた。


 広々とした室内には、ほとんど装飾がなかった。

 唯一の例外は、中央に鎮座する黒塗りの机。

 その奥に座っていたのは、九条家の現当主──響の父だった。


 響は無言で、床に片膝をつく。

 視線を落とし、恭しく待つ。


 男は、微動だにせず響を見下ろしていた。


「お前に新たな指令を下す」


 淡々とした声音。

 そこには、響への情など微塵もなかった。


 ──いや、それは当然のことだった。

 九条家の当主にとって、響は道具であり兵器。

 そこに情など介在するはずがない。


 男は、静かに言葉を続ける。


「標的は《壊血の魔女》アメリア」


 瞬間、室内の空気が僅かに揺らいだ。


 響は、その名の持つ異質さを理解していた。

 壊血。

 その二文字が意味するものを。


 しかし、説明はない。

 する必要もない。

 九条家では、知るべきことは既に知っている前提で話が進む。

 無駄な会話は不要。

 知識がなければ、それは不足であり、欠陥である。


 響は、ただ静かに聞いていた。


「最優先で討伐せよ」


 命令は、それだけだった。

 討つ。

 それだけの話。


 だから、迷いはない。

 響は短く頷いた。


「了解しました」


 その返答には、何の感情も宿っていなかった。

 ただ、任務を遂行する者として、それを受け入れただけだった。


 まるで、それが当たり前のように。

 当然のように。

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