散文的散文
霜月夜
独白と仔鹿
森の歩き方を忘れた仔鹿がいた。
もちろん私に動物の考えていることを読み取る能力など無いので、想像である。あるいは、手前勝手な当て推量である。小鹿はぽつねんと木々の隙間に佇んでいた。くりくりとした丸い黒目をあちらこちらに向けて、前肢を小さく揺れ動かしながら、葉擦れの音を聞いているようであった。その小さなか弱い生き物は、目の前で見つめている私のことなど気にも留めずに、いや、そもそも気付いてすらいないのかもしれないが、呑気に緑の中にいた。周りを見回してみても親らしき鹿の気配は無い。はぐれたのだろうか。それとも自ら逃げ出したのか。あるいは、その木々の隙間が彼の人生の終着点というやつで、本来はもっと後に見つけるべきはずであったその場所に偶然にも辿り着いてしまって当惑しているのかもしれない。いずれにせよ、鹿の考えなど私にはわからない。そもそも鹿に考えるというだけの考えがあるのかもわからない、仔鹿とあってはなおのことわからない。
ただわかるのは一つだけ、その仔鹿は一向にその場から動こうとしないこと。その仔鹿は森の歩き方を忘れているかのように、じっとそこにいる。一歩進めば奈落の底に落ちてしまう絶壁の上で波頭を見下ろす仔鹿のように。二人組を作れと言われて相手が見つからず孤立する仔鹿のように。入り組んだ迷路でお腹を空かせて立ち止まる仔鹿のように。いずれの比喩も適当に不適当な気がする。
「やあ」
そう一言、口にするだけで、仔鹿は驚いて逃げ去ってゆくだろう。森の歩き方を忘れたことを忘れたように、一目散に未知の存在に怖れをなして森の奥深くへ。それは流石に忍びない。こちらとしても驚かせるのは本意ではないので、こうやってぼんやりと眺めるに留めている。私と仔鹿の距離は物理的にも心理的にもひたすらに一定を保ち続ける。
しかし、そうやってずっと放置していると、仔鹿はきっと森の歩き方をずっと忘れたままなのではないだろうか。数刻経っても数夜明けても数年が流れても雨が降っても霜が降りてもこの仔鹿はずっとここで、見えない何かに囚われたように葉擦れの音を聞くにその生命を留めているかもしれない。それはそれで忍びないような気がしないでもない。鹿の生命がいかほどの長さを持つのか私は知らないが、私ほどではないだろう。このまま緑と土色の世界の上で独り生命を終える仔鹿──もっともその頃にはもう仔鹿ではない──を思うと、もの悲しいようなうら淋しいような気がした。この森はそれなりに鬱蒼としていて、空は深緑の樹冠に覆い隠されてほとんど見えない。せいぜい木漏れ日が差す程度の隙間がまちまち見られるに過ぎない。昼日中の澄んだ青空も、夜半の壮麗な星空も、ここからでは仰ぎ見ることも叶わない。それはそれで、悪い気分ではないのかもしれないけれど、選択肢として空を見る権利はあるに越したことはないだろう。見たくない時は見なければよい。しかし見たいときに見られないというのは厭な心地だ。こんな鬱蒼とした森の中で息をひそめている仔鹿とあらばなおのこと。
仔鹿の将来を思うならば、私はここで声を発するべきであった。「やあ」とでも言って、森の歩き方というものを彼のその小さな脳みそに思い起こさせるべきであった。そうすれば、また仔鹿は好きな時に空を見上げることができたのだから。
けれども、私は声を発さなかった。私が何かしら能動的に野生の思考に介入することによって、仔鹿の将来を決定的に決定づけることに躊躇った。森の歩き方を忘れたのなら、それが彼の本望だったのだろう。木々の間隙に身を置いて前肢を葉叢に這わせ、ただ葉擦れに耳を澄ましたり朝露をその舌で舐めたりして昼を過ごし夜を明かす日々。それを邪魔する勇気が持てなかった私はただ右手を軽く振って一応の挨拶とし、彼とは逆方向の繁みへと進んでいった。仔鹿の幸不幸まで当て推量する権利など私にはない。また、私以外の何者にも。
私は森の歩き方を覚えている。忘れることなどできない。森の静寂な空気を揺らすように葉擦れの音が空しく聞こえた。
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