バーチャル・ゲンガー
星 高目
3月1日:引退発表
「みんなに大切なお知らせをするね」
今もカメラに映る自分の動きを真似て、彼女は電子空間の中から画面の向こうにいる誰かへと梅花に似た紅色の眼差しを向けている。それは決して無機質なものではなく、光も、人の温かさも孕んでいた。ただの動くイラストだなんて、綾には到底思えない。確かに彼女は、春香は今ここに存在しているのだ。
そんな彼女を、今から自分は手に掛けようとしている。リスナーが見守る中、たった数節の言葉だけで。それが酷く残酷なことに思えて
けれど、もう決めたことだった。
「一か月後の三月一日にわたしは……
『そんな……』
『嘘だと言ってよ』
『少し早めのエイプリルフール……だよな?』
『嫌な予感はしてた……』
『えええええええええええええええ!?』
『俺はこれから何を生きがいにすればいいんだ……』
コメントが悲嘆に染まる。今この配信を見ているおよそ千人の視聴者が、思い思いに春香が告げた言葉への衝撃を打ち込んでいるのだ。ずっと昔からいる古参の人も、コメントはせず静かに配信に聞き入っている人も、普段からよくコメントで配信を盛り上げてくれる熱心な人も。今この瞬間ばかりは皆等しく悲しんでいる。
『どうして、どうして……』
だから何故、と問いかけられることも不思議ではなかった。
「引退する理由はね、ちょっと身の回りが忙しくなっちゃうから……次のステップを迎えることになったって言えばいいのかな。それでわたしがここに居続けることが難しくなりそうなの」
綾はどうにも曖昧な説明となってしまうことを申し訳なく思った。本当の理由は就職活動で忙しくなることを機に、
けれど春香は梅の精霊として綾が作り出した女の子だ。人知れぬ山奥に根付き、迷い込んだ人を隅々まで行きわたった柔らかい紅色の花で出迎える一本の梅の木。心象に思い浮かべた幻想的な光景の中で、一人儚げに佇む様がよく似合う少女――。
そんな彼女には、現実を感じさせるような堅苦しい単語はあまりにもそぐわなかった。
「わたしってあんまり器用じゃないからさ。こうして皆に会いに来るのと、そのあれこれを一緒にしてたら多分うまくいかなくなっちゃうと思ったの。だから、引退することに決めました」
『活動休止じゃダメなの?』
それは綾もずっと悩んできたことだった。引退か、活動休止か。完全にVtuberとしての活動をやめるのではなく、就職活動が終わったらまた活動を再開する選択ではだめなのか。
(やっぱり、そう思うよね)
自分でもまず初めにそれを考えたのだ。リスナーだって、当然同じ発想に至るだろう。そして現実問題として、一番丸く収まるのはきっと活動休止の道に違いない。
それでも綾は引退という道を選んだ。
「活動休止をしたら、わたしはきっと甘えちゃうんだ。いつかは帰って来られる。うまくいかなくても、ここに来れば優しい春風の皆が出迎えてくれるって……それはとても嬉しいことだけど、これからのことを考えたら決していいことじゃないから」
春風、というのは春香の配信を見ているリスナーの呼び名だった。配信という同じ時間を共有する者同士で連帯感を持ってもらえるよう、春香と対面しているという実感を持ってもらえるようにニックネームを与えているのだ。
慣れ親しんできたその名前は、こうしてインターネットを通じて綾を――春香を受け入れてくれる人の存在を実感させてくれる。自分が作り上げた春香の居場所に、様々な感情を持って集まってきた顔も知らない人々。彼ら彼女らがいるから、春香は春香でいられた。
けれど春香の中にいる綾は、そんな人たちと同じ一人の人間なのだ。もうすぐ大学四年生になる女の子で、就職活動という人生の難題に直面して、選択を突き付けられた人間に過ぎなかった。
『いっぱい甘えてくれていいのに』
『俺が春香を甘やかす!』
『いいよな。普段甘やかしてくれるお姉さんがふとした時に甘えてくれるの……』
『わかる』
『まあ、癖にも人生にも色々あるわな……』
『引退しないで』
『毎秒配信して』
「毎秒はちょっと無理かな、死んじゃうから! でも、引退までできるだけ毎日配信するつもりでいるからよろしくね」
流れていくコメントにクスリと笑えば、画面の中の春香も笑う。うららかな春を思わせる桜色の着物を身に纏った大和撫子は、悲壮な気配を全く匂わせていなかった。
『これから毎日定時退社できるよう上司に頼むか……(連勤二十日目)』
『俺がお前に仕事押し付けて定時退社するからムリだぞ(残業六十時間)』
『上司ニキいて草』
『連勤ニキも上司ニキも成仏してクレメンス……』
「本当に身体には気を付けてね? 無理はしなくていいからね……?」
春香の声音は本心からリスナーの健康を案じるものだった。突然匂わされた社会の闇に、これから自分もそうなるのかもしれないと思えば他人事とは思えなかった。
『大丈夫、冗談だから』
「冗談なの? ならいいけど……』
『本当は間に有給(出勤)取ってるから連勤じゃない』
「それはもうしかるべきところに行くべき案件じゃないかな?」
『この配信のおかげでなんとか致命傷で済んでるのでセーフ』
「そういう問題では……ないような? いやまあセーフならいっかあ」
『判定:セーフ』
『セーフは草』
『ぐう畜』
『見ろよこの笑顔、まるで上司みたいだろ? 生きてるんだぜこれ』
「そういう事じゃなくって! えっとその、わたしも頑張るから連勤さんも頑張って! それでここに来て疲れなんか忘れて、ね?」
『わーい。おかげで心は元気百倍や』
『疲れを忘れても身体はドボドボや……』
『これが社畜のオアシスか……』
『一か月後には難民が溢れるな』
雑談につられて、少しずつコメントもいつもの明るさを取り戻してきていた。モニターの片隅に表示された時刻は夜の十一時。配信を切り上げるにはちょうどいい頃合いだった。
「それじゃあ今日の配信は終わりにするね。明日も皆にいい風が吹きますように……ばいばい」
いつも通りの締めの口上と共に、配信画面をエンディング用のものに切り替える。
『乙』
『お疲れ様ー』
『この風……泣いてます』
思い思いに春香を労うリスナーのコメントをひとしきり見送る。その中に一つ、綾の目に留まる物があった。
『引退しちゃうのか……ゲンガーに気を付けて』
「ゲンガー? ってなんだろう」
コメントの中でも一際異質なそれに思わず呟く。それから焦って口に手を当てたものの、既にマイクはオフにしてあったから配信に音声が乗る事故は起きずに済んだようだった。
ゲンガー。あまり聞き馴染みのない言葉だった。綾は真っ先にドッペルゲンガーという言葉を連想したけれど、そこからなぜ自分に注意を促すのかがわからない。
コメントをくれたのは、春香として活動を初めた頃から配信を見てくれている古参リスナーだ。綾を脅かすための
(それとも、そういうミームか何かなのかな)
ネットの世界には往々にして知っている人間同士で通じる内輪ノリが用いられる。きっとこれもその類なのだろう。そう結論付けて配信を閉じた。切り忘れのないよう入念に確認して、カメラをオフにして、配信に来てくれたお礼をSNSにも投稿して……それから椅子の背もたれに深く背中を預ける。
「とうとう、言っちゃったなあ……」
引退するのだと、ついに配信で正式に発表してしまった。言わなければ引き返せたのに、という後悔と、言ってしまった以上進むしかないというやけっぱちな覚悟が胸に去来している。
「あなたとも、三年の付き合いか。楽しかったなあ……」
配信用アプリの画面に佇む春香を見る。彼女は最後の笑顔のまま、こちらを見ていた。
大学生になってからの三年間を一緒に過ごしてきた自分の分身は、綾の内心など全く映していないように優しく笑っている。春香に掛けた願いの通りだ。陰気な自分に代わって、誰かを癒してあげられるような存在になれたら……。そんな思いから生み出された彼女は、五万人のチャンネル登録者を得るに至った。個人Vtuberとしては破格の数字で、綾も未だに現実感がないくらいだった。
けれどそんな春香もあと一か月でいなくなる。自分が、そうさせてしまう。
「ごめんね、わたしの勝手で」
罪悪感を紛らわせるための独り言。春香なら、きっと笑って頭でも撫でながら大丈夫だと言ってくれるのだろう。そんなことを考えて綾は目を閉じた。
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