禁忌渡りの狩人達
十咲鳴里
第1話 インとリシュカ・1
カルネアデスの板というものがある。
船の難波により、海を漂流していた者が一枚の船板を発見した。当然、漂流者は板にしがみついた。しかしそこにもう一人の漂流者が、同じく船板に手を伸ばしたのだ。
だが、その船板は一人しか掴まれなかった。二人分の体重をかければ間違いなく沈む。だから先に手を伸ばした漂流者は、後の一人を突き飛ばし、見捨てたのだ。
片方の生命を守るため、もう一つの生命を犠牲にする。それは果たして罪なのか。
しかし、彼らはその瞬間、考える余裕も疑問も持たなかっただろう。__生物は必ず、自分の命を第一に考えるのだから。
同じくここに、船板と同様に二つの命を抱えるものがある。
その世界には、人がいた。同時に獣もいた。彼らは争っていた、互いの生存をかけて。
世界という、一枚の船板を巡って。
苦しい。
そう感じた頃には、自分の意識は完全に目覚めていた。
「がっ……」
覚醒と同時に、口から息が吐き出され、大量の泡となって散っていく。
彼の体は水中に投げ出されていた。彼自身はその状況を理解できず、ただ生存の本能だけで手足を動かし続ける。
苦しい。苦しい。苦しい__
足掻けば足掻くほど、体力と酸素は尽きていき、覚醒した意識の糸は再び切れそうになる。
このままでは、死ぬ。
また、あの時と同じように。
もう一度。
__もう一度……?
「……?」
その時、頭上に光が差し込んだ。
海面がそこにあったのか。それとも、ただ幻覚か。
だけど、その光の中で、何かが動いていた。
水中で、必死に手を伸ばす。
そして光の中の__彼女もまた、彼に向かって手を伸ばした。
次の覚醒は、まばゆい光の中で始まった。
水中にいたせいか、すぐには目が慣れなかった__だが、やっと目の前を認識できた頃には、先ほどとは比べものにならないぐらい、鮮烈な世界が見えた。
木々の緑と、海の碧。
雲一つ無い青空。暖かな風が、濡れた体を優しく包む。
そして、艶やかな髪が流れる、女性の裸体。
「……裸?」
目撃したそれに、目を疑う彼。意識を取り戻すように頭を振り、びしょ濡れの顔を拭って、もう一度正面を見やる。
一番目を引くのは赤みがかった長い髪だった。
そして翡翠の瞳。そこには強い意志と優しさが感じられた。
視線を移動。そこには、確実に女性の体。というか、
「ぜ、全裸……ッ!」
「あっ、気がついた!」
奇妙な叫びを上げた彼に、彼女がハッとなって、体を拭いていた手を止める。
しかも、あろうことか、真剣な表情で彼に急接近したのだ。
「なぜ近づくっ!?」
まったく恥ずかしがらない様子に、彼が逆に顔を赤くしながら身をよじった。対して、彼女は全く気にしないように彼の体をまじまじと見つめ、ホッとしたように表情を緩ませた。
「よかった……怪我はないみたい」
「えっ……?」
「ほんとビックリしたんだから。偶然通りがかったところで、人が溺れてるんだもの」
本当に安心したのか、声音に本来の明るさが戻ったようだった。そこで彼はようやく自分の状況を知る。
(溺れていた……? でも、なんで……)
「でも、なんであんなところで溺れかけてたの? 魚でも捕ろうとして落ちたとか?」
ようやく服を着始めた彼女の声と、彼の心の声が重なる。彼は先ほどのショックで体育座りをキープしたまま、
(そんなの俺が知りたい。と、いうか)
心の中でそう呟いた時、彼は違和感に気づいた。
そう。確かにさっきは水中にいて、危うく溺れかけていた。そこまでは覚えている。
(だけど、その前は何も思い出せない……今まで自分が何をしてたか、全然。どうして?)
そんな違和感は、次第に恐怖へと変わっていく。さらにトドメとばかりに、彼はあることに気がついた。
__自分の名前。それすらも思い出せないことに。
「ま、何はともあれ」
再び、彼の前に立つ彼女。肩などを鎧で覆っているが、動きやすさに特化したような軽装備だった。
彼はその服装を初めて見る気がした。少なくとも……既視感は微塵もない。
しかし、彼女が手にしている物は理解できた。細長い筒のようなもの。それが銃だと思い出した時__
「私の名前はイン。申し訳ないけど、あなたを村まで連行します」
彼女__インが持つ銃の先が、彼へと向けられたのだった。
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