スケール・ゼロ ~Ghost in the Scale~

@chuck2016

第1話 心の物差し

この世界では、人の心は「相対的なもの」とされている。

「悲しい」や「辛い」は、どれくらい悲しいのかを、他人と比べることで初めて意味を持つ。

それを支えるのが、「心の物差し」という道具だった。


人は生まれた瞬間、透明な小さな物差しを手にする。

それは感情を「色」と「数値」に変える魔法の道具。


怒りは赤、悲しみは青、嫉妬は緑。

数値は1から100。

「今日の悲しみ度は72」とか、「さっきの怒りは58」とか、全部“見える”から、

いちいち説明する必要はなかった。


学校では、何か嫌なことがあったら、まず物差しを取り出すのがマナーだ。

「ごめん、いまの発言で僕の悲しみ度は85になった」

「そっちは?」

「僕の怒りは63」

「なら、こっちが悪いね。謝るよ」


そうやって、物差しを突き合わせることで、感情の“損得”が決まり、

謝る方と謝られる方が決まる。

感情は「証明するもの」で、「見せるもの」で、「比べるもの」。

そう教えられてきた。


でも、便利なはずのその仕組みが、時々怖くなることもあった。


例えば、誰かが「悲しみ度95」を見せれば、クラス中が「それは可哀想だね」と同情する。

でも、「悲しみ度30」の子が、どれだけ辛い顔をしても、「大したことないじゃん」と言われる。

悲しみ度が低い=弱いとみなされることもあった。


一部の子たちは、わざと悲しみを“盛る”ために、

わざとらしくため息をついたり、わざと傷つくような言葉を集めたりする。

そうやって「強い感情」を見せられる子が、クラスでは自然と発言力を持つようになっていた。


「物差しは、正直者だけのものじゃない。」

春斗は時々、そう思っていた。


そんなある日——

春斗はその「心の物差し」を忘れてしまった。


朝、寝坊して飛び出したせいだ。

いつも制服のポケットに入れているはずなのに、そこは空っぽだった。

「まぁ、今日くらいなくても平気だろ」

そう思って、春斗はそのまま学校へ向かった。


──その考えが、甘かった。


昼休み、春斗は友達とちょっとした言い合いになった。

「それ、お前が悪いだろ!」

春斗は怒ってそう言った。

いつもならここで物差しを取り出し、怒り度を見せて一件落着する。

でも今日は、ポケットに何もない。


「お前、物差しは?」

「……忘れた」


一瞬、教室が静まり返る。


「は? 物差し忘れるって、やばくない?」

「自分の気持ちも測れないの?」

「それ、本当に怒ってる証拠は?」


「嘘つきだ」

誰かがボソッと呟いた。

その言葉が合図だったみたいに、教室にくすくす笑いが広がった。


この世界では、「物差しがない=嘘つき」とほぼ同じ意味だ。

物差しを見せなきゃ、自分の感情を証明できない。

証明できない感情は、「存在しないもの」とされる。


「怒ってるって言えば、信じてもらえるわけ?」

「そんなのズルじゃん!」

「今までずっとサバ読んでたんじゃない?」


まるで、透明な壁が春斗を囲んでいくようだった。

本当は怒ってる。悲しい。

でも、物差しがないだけで、全部嘘にされる。


それから、春斗の周りの空気は一気に変わった。

昼休みに話しかけても、みんな物差しを取り出して「悲しみ度5」とか「興味度10」とか、

いちいち数値を見せるようになった。

春斗だけが、その輪に入れない。


春斗の感情は、数字にならないから、誰も受け取ってくれない。

まるで、「心がないやつ」みたいに。


「お前、今の悲しみ度いくつ?」

「……わかんない。物差し、ないから。」

「は? やっぱ嘘つきじゃん」

そんな会話が何度も繰り返されるうちに、

春斗は、だんだん誰とも話さなくなった。


夕暮れの帰り道。

ポケットに手を入れても、何もない。

風の匂いが少し冷たくて、胸の奥がじんとした。


でも、そのじんとする気持ちには、「色」も「数値」もついていなかった。

それは、物差しでは測れない感情。


「僕は、どれくらい悲しいんだろう。」


その問いに答えてくれるものは、

この世界には、どこにもなかった。

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