第3話 甘い束縛

 「もう頑張らなくていいよ」


 玲の声が、まるで子守唄のように千尋を包み込む。


 千尋は、そっと目を開けた。気づけば、いつの間にか彼がすぐ隣に座っている。優しく微笑みながら、まるで千尋が壊れ物であるかのように扱ってくる。


 「今日はもう仕事に行かなくていい。ずっとこうしていよう」


 玲はそう言って、そっと千尋の手を握る。その指先は驚くほど温かくて、どこまでも優しい。


 ──ああ、甘い。


 彼の言葉も、ぬくもりも、まるで恋人に愛されているような錯覚を与える。でも、千尋はそれが心地よいと同時に、怖かった。


 「ダメよ。休めない」


 千尋は玲の手を振りほどく。彼の瞳が、ほんの少し悲しそうに揺れた。


 「どうして?」


 「だって、私にはやるべきことがあるから」


 「やるべきこと?」


 玲は優しく微笑んだまま、千尋の頬にそっと手を添える。その手のひらの温もりに、胸がぎゅっと締めつけられる。


 「君がそうやって無理をするたびに、僕は苦しくなるんだよ」


 「……それでも、休んでばかりはいられないの」


 千尋の声は震えていた。玲の言葉は優しすぎる。でも、その優しさが、まるで見えない鎖のように千尋を縛りつける。


 「どうしてそんなに頑張るの?」


 玲はそっと囁く。その声が、耳元で溶けるように響いた。


 「私は……頑張らなきゃいけないの」


 「誰のために?」


 玲の問いに、千尋は息をのむ。答えられない。


 仕事のため? 生活のため? 誰かに認められるため?




 ──いいえ。


 本当は、ただ「頑張っている自分」でなければ、自分を許せないだけなのかもしれない。


 「ねえ、千尋」


 玲はそっと、彼女の髪に触れた。その仕草は、まるで壊れそうなガラス細工を扱うような優しさだった。


 「そんなに頑張らなくても、君は君のままで大丈夫なんだよ」


 千尋の胸の奥で、何かが揺らぐ。


 ──それは嘘。そんなこと、あるわけない。


 玲の言葉を受け入れてしまったら、きっと千尋は崩れてしまう。


 「ダメよ……」


 千尋は小さくかぶりを振る。でも、玲はそっと彼女を抱きしめる。


 「大丈夫。もう、逃げなくてもいい」


 その腕の中は、驚くほど優しく、温かかった。


 そして、その甘い束縛から、千尋は逃れられなくなっていった。

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