第27話 繋がり続けた夢

 意識が浮上するにつれ、瞼の裏の暗闇が少しずつ白み始める。重たい瞼をゆっくり開けると、まず見えたのは古い天井だった。露出した太く立派な梁と、そこに吊るされた幾つものドライフラワーや薬草。それらをぼんやりと、見るともなく眺めていたシリウスは、傍から差し込む陽の燦々とした明るさに思わず目を細めた。陽光をたっぷりと受け止めて淡い光を帯びたカーテン、細い隙間から一本の筋を作るように漏れ込む朝の清廉な輝き。


 何度か瞬いているうちに朧気だった意識がはっきりとし、そこで漸くシリウスは、ここが王城の自室ではなくフィオナの棲む家だということを思い出した。身体の上に伸し掛かる甘やかな重みが愛おしく、安らかな寝息を邪魔しないようにそっと腕を動かして、カーテンの片側を静かに、ゆっくりと開く。綺麗に磨き込まれた硝子の向こう側には、突き抜けるように澄んだ蒼穹が広がっていた。雲ひとつ見当たらない、すっきりとして爽やかな、気持ちの良い青空。その青さと、朝特有の清潔な光が、とても眩しい。


 胸元でもぞりと身動ぐ感覚がして、シリウスはふと顔を下げ、そこにのっかる頭に視線を向ける。朝陽を浴びて艷やかに輝く豊かな髪の毛と、可愛らしい――と言ったら恐らく拗ねられるだろうが――小さな旋毛。微かな寝息はまだ続いていて、それにほっと胸を撫で下ろしながら、シリウスはやさしく顔を綻ばす。起こしてしまわぬよう注意を払いながら、彼女のやわらかな頰にかかる髪の毛を、そうっと指先で絡め取る。嘗てはそうすることさえ許されなかった。けれど今は、彼女を胸に抱きとめることも、旋毛にキスを落とすことも、癖のない髪の毛の表面を撫でることも、何だって出来る。それがどれほど素晴らしいことか、彼女へ触れれば触れる度にシリウスは痛感する。触れる――ただそれだけの、他者からすれば何でもない行為。けれども二人にとってそれは、ずっと叶わないものだと思っていた。愛していても触れられない。その、胸を掻き毟りたくなるような苦痛を知っているからこそ、今この瞬間が、幸せでたまらなかった。


 彼女の白い肌や豊かな髪の毛から薫る、瑞々しく上品な甘い香りを肺いっぱいに吸い込んで、そのなんともいいえぬ甘美な気分に酔い痴れながら、シリウスは徐ろに瞼を閉ざす。身体の上に寄り掛かるようにして眠る、ほっそりと華奢な身体に、そうっと手を添えて。


 夢を見た。知らないようで、その実知っているようでもあった、不思議な夢。


 薄暗い廊下に立ち、今正に傭兵に両腕を掴まれて引き摺られてゆこうとしている、テラコッタ色の髪をした女。彼女が誰なのかは分からない。女はただ大人しく、なされるがままだった。茫然としていたせいか、それとも既に、泣く気力も抵抗をする気力も失せてしまっていたからか。両側から半ば抱えられるようにして廊下の奥へ連れて行かれる彼女の後ろ姿を、見知らぬ男の身体の中で、シリウスはただ眺めていた。少しだけ心が疼いたような気がしたけれど、それはきっと、この皮である男の感情だっただろう。男は完全に女の姿が見えなくなるまで、廊下の先を見つめていた。あの女が誰か分からぬまま、何の感情も表に出さず、そのくせ胸をひどく痛ませながら。


 そんな男の腕には褐色の腕が絡みつき、エキゾチックな服装に身を包んだ女が、豊満な身体を押し付けていた。シリウスの好みではなかったが、それはどうやら皮の男も同じであるようで、ときめきも、或いは男としての下心さえまるで感じられない。それを知ってか知らずか、女は更に身を擦り寄せ、そうして漸く彼女のかんばせに視線を落とした男に対して、にやり、と婉然な笑みを湛えた。


 ――君のおかげで、全てがうまくいった。


 すぐ近くで、野太い男の声が聞こえた。称賛に満ちた、ひどく下品な笑い声も。顔を上げ視線を向けてみると、そこには如何にも国王といった豪勢な身なりをした初老の男と、黒いローブに身を包んだ美貌の女性が立っていた。


 ――さすがは“歴代最強の魔女”と謳われるだけはなあるな。君に頼んで正解だった。


 女は何を言われてもただ静かに笑みを深めるだけで、賛辞に対して恭しく頭を下げることもしない。それでも、ぴんと背筋を伸ばし、凛とした美しさで佇む彼女の目は、真っ直ぐに国王へと向けられていた。そしてそのブロンズ色の瞳から、シリウスは見て取る。そこに滲む増悪と、そして計り知れないほど深い悲哀を。


 ――これで王家も安泰でしょう。どうか末永く繁栄なさいますように……陛下。


 ブロンズ色の目をした女がそう紡いだ瞬間、世界は一瞬にして砕け散り――それからは立ち代わり入れ替わり様々な人間が現れては、それらはすぐに硝子が弾けるようにして消えていった。石造りの冷たい部屋に力なく横たわる女。涙を流して蹲る栗色の髪の女。足元に縋り付いて咽び泣く痩せ細った女。目が腫れ、ぐっしょりと濡れそぼった生気のない顔をした女。そんな彼女たちの顔にはまるで見覚えがなかったけれど、しかし不思議と彼女たちひとりひとりをよく知っているようにも感じられた。だからなのだろう。彼女たちが順々に目の前に現れる度、心はひどく痛んだ。胸が張り裂けてしまいそうなほどの、強烈な痛み。そしてそれは、多分、絶望だった。


 徐ろに瞼を開け、シリウスは花の匂いの混じった空気を吸い込みながら心を落ち着ける。ここはもう、夢の中ではない。ここは現実で、そしてここには今――。


 髪の毛を絡めた指を唇へ近づけ、シリウスはそのやわらかな髪の毛の表面に、そっと口付けを落とす。彼女が起きる気配は、まだない。それでいい、と思った。心の底から。もっとこの穏やかな朝の空気の中に包まれていたい、と。彼女と二人で、出来ることなら、いつまでも。



***



 小鳥の鳴く声が聞こえた。朝を告げる、可愛らし声。


 暫く微睡みの中を揺蕩い、そうしてフィオナは、ゆっくりと目を開ける。瞼がとても重たくて、少し驚いた。でもすぐに、昨日泣きすぎたことを思い出して、小さく息をつく。もう遅いかもしれないけれど、今から冷やしても少しはましになれるかもしれない。


 そう思いながらもぞりと身動ぎし、ゆったりと身体を起こしたフィオナは、突然視界に飛び込んできた美麗な寝顔に、思わずぎょっとしてしまった。清らかな朝陽に照らされて仄かに白みを帯びた美しい寝顔。伏せられた目元に、濃く長い睫毛の影が落ちている。眠りに就いているその様は、まるで人形のようだった。繊細な人形、或いは細緻な彫刻像のようだ、と。そのあまりにも優美な寝顔に、フィオナはついうっとりと見惚れてしまう。陽光を浴びてきらきらと輝く白銀の髪の毛、肌理の細やかな白い肌、前髪の合間から覗く秀眉。所々に――例えば小鼻の脇とか喉元とかに――滲んだ陰影さえ、彼の美貌を作り上げるものに過ぎず、何もかもが必要なだけ、必要な場所にきちんと整えて配されている様は、本当に素晴らしい。けれども、そんな端麗な顔だからこそ、フィオナの目にはとても毒だった。


 胸の中でそっと溜息をつき、未だ眠っているシリウスを起こさぬよう気をつけながらもフィオナはぞもぞと身体を動かして、背中に回さた腕の中からどうにか抜け出る。彼が目覚める前に、先ずは井戸水で濡らしたタオルで目元を冷やし、情けなく晴れた瞼をどうにかする必要があった。そんなに泣いたら目が腫れるぞ、と、彼は昨日ちゃんと忠告をしてくれた。だからしっかりと腫れてしまった目を見て、シリウスはきっと苦笑するだろう。ほらな、と、多分そんな言葉をこぼしながら。


 呆れたように肩を竦めるシリウスを脳裏に思い浮かべながら、泣き止みたくたって泣き止めなかったのだ、と、拗言をぶつぶつと胸の内側でこぼしながら、フィオナはシェーズロングから――彼の逞しい身体の上から――そうっと身を退かす。先ずは濡れタオル。それから目覚まし用のあたたかいコーヒーを淹れよう。


 そう考えつつ、ぐっすりと眠るシリウスに背を向けようとしたフィオナは、しかし次の瞬間、唐突に伸びてきた腕に腰を絡め取られ、そのまま無理矢理引き寄せられた。バランスを崩し、身体は引き寄せられるまま倒れ、彼の逞しい胸板に額がぶつかる。咄嗟に上がった小さな悲鳴は、たちまち彼の服に吸い込まれてしまった。


「で、殿下っ」


 まだ寝ているとばかり思っていたが、どうやら既に置きていたらしい。慌てて顔を上げると、すぐ間近で目が合った。何をするんですか、と、文句をこめて睨め付けたが、しかしそんなフィオナの抵抗などシリウスはまるで気に留めた風もなく、くつくつと楽しげに笑って、すっかり腫れてしまったフィオナの目元に、指先をそっと触れさせた。まるで労るように、彼は赤く色付いた薄い皮膚を、何度も何度もやさしく撫ぜる。触れるか触れないかの、少しこそばゆいタッチで。


「赤くなっているな」


 そう言って小さく苦笑をこぼし、それからシリウスはフィオナの身体をやわらかく抱き締めた。


「……もう少しこのままでいさせてくれ」


 頭上で囁かれた甘美な言葉に、フィオナは思わず胸をときめかせる。冷やしタオル、目覚まし用のコーヒー。しかしそれ以上に脳裏を埋め尽くすのは、蛻の殻である主人の部屋の前で頭を抱えているであろうアレンの困り顔だった。以前であれば、どうせここにいるのだろう、とすぐに思い至っただろうけれど。今のアレンはまだ、シリウスが記憶を取り戻したことを知らない。この森のことを、そしてそこに棲む魔女のことも忘れてしまったと思っている彼が、果たしてこの場所にいることに気付けるだろうか。


「アレン様がきっと心配していますよ」

「構わん。今は何も考えたくない」


 もしかしたら今頃王城では大騒ぎになっているかもしれない。王太子が行方不明だ、と。アレンは必死に探し回り、国王夫妻なひどく心配しているかもしれない。

 けれどそんな考えは捨てろと言わんばかりに彼は明るい笑みを浮かべ、そうしてフィオナを抱き締める腕に、少しだけ力をこめた。


「今はまだ、こうして君のぬくもりを感じていたいんだ」


 熱く、甘やかな声音でそう囁かれると、フィオナにはどうしても抗うことが出来なかった。求められることは、やっぱり嬉しくてたまらない。それが抱き締めながら、吐息が触れそうな距離で囁かれたものなら、尚の事。


 仕方なく、というふうを一応繕いながら溜息をつき、フィオナはシャツに包まれた逞しい胸板にそっと頰を擦り寄せる。清潔で、爽やかな匂い。シャツ越しにつたわる、蕩けてしまいそうなほど心地好いぬくもり。彼の心音が、すぐ傍で聞こえる。その喜びをしっかりと噛み締めながら、フィオナはゆっくりと瞼を下ろす。もっとしっかりと、彼の鼓動を聞いていたくて。彼が生きているという、その証拠を。


「誰かに“触れる”ということに、今まで何か意味を見出したことはなかった」


 後頭部に回された大きな手が、まるで梳くように、やさしく髪の毛を撫でる。


「それはただの“行動”に過ぎなかったからな」


 髪の毛を一房掬い上げ、それを指先で弄んでいるような気配がして、フィオナは赤く腫れた瞼を徐ろに開ける。


 “触れる”というその行動に何の意味も感じず、ただ当たり前のことと思うどころか意識すらしていなかったシリウスとは違い、フィオナにとって“触れる”という行動にはとても重い意味があった。たとえば、ついぞ思い出すことのなかった母親やエリオや。呪いを恐れて家を出て行った父親や姉たちや。“忘却の呪い”のせいで失ったものがあまりにも多すぎるが故に、“触れる”という行動は常に恐怖と絶望を伴う“悪いもの”だったのだから。


 けれど、きっと――。頰に添えられたシリウスの手に自身のそれを重ねながら、フィオナは思う。けれどきっと、もうそう思うことはないだろう、と。


「けれど、君と出逢って、“触れる”ということが、こんなにも大切でかけがえのないものだと、俺は初めて知ることが出来た」


 鼓膜に触れる声が、頰からつたわる体温が、身体中にじんわりと滲み広がって、あたたかい。それは多分、幸せのぬくもりなのだろう、とフィオナは思う。胸はずっと高鳴り、そして、少しだけ泣きたくもあった。あまりにも幸福に満たされすぎて。幸せすぎると泣きたくなるというのが、少しだけおかしく、そして面白かった。


「“触れられる”というのは、こんなに嬉しくて幸せなことだったんだな」


 ええ、と応える代わりに、フィオナはぎゅっと、彼の手を握り締める。この穏やかな時間が、いつまでも続けばいいのに、と思いながら。いつまでもいつまでも。許されるなら、永遠に。

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