第19話 決意

「……医者は、恐らく魔獣の“毒”の影響だろう、と言っていました」


 ――魔獣の“毒”。

 それは魔獣に負わされた“傷”なんかよりもよほど厄介であり、治療の手立ても今のところ一つしかないとされている。故に魔獣と対峙するにあたって、最も注意を払わなければならないのがその“毒”だった。


 魔獣は総じて“毒”を持つ。その毒とはつまり、魔獣の体内に宿る”魔力”そのものだ。


 毒は傷口から人間の体内に入り込むと、たちまち隅々にまで行き渡り、患者の体力を削りながら少しずつ命を蝕んでゆく。現在のところ、それに対抗しうる“薬”は存在しない。人間の医者が調薬したものはもちろん、魔女が作った薬でさ、解毒は叶わない。故に、魔獣の毒は最も危険視されている。


 しかし、唯一その毒を取り除くことが出来る術がある。それは魔女の持つ“魔力”だ。魔獣と魔女は“別物”という立ち位置ではあるが、それぞれの体内に宿る“魔力”は、その根源にまで遡ると、ほぼ同一のものである。つまり二つの魔力の源流――或いは本質――は一緒、ということだ。それが何百年という長い年月をかけ変化を起こし、魔女はその力を“魔法”という形で人の役に立て、そして魔獣は“敵を倒す力”として進化を遂げた。その事実だけを見れば、“似て異なるもの”のように思えるだろう。けれども結局どれだけ長い年月が過ぎようとも、どんな変化を起こそうとも、二つの“魔力”は所詮同じものであることに変わりはない。


 だから――。青白いかんばせを見つめ、フィオナはスカートの端を、力強く握り締める。だからここに呼ばれたのだ、と、そう思いながら。アレンの考えは分かっている。そしてあの老齢の医者がこぼした「最後かな」という言葉の意味も。


「貴女にだけは……貴女にだけは、頼みたくなかった」


 怒りや、悲しみや、色んな感情を押し殺したような硬い声で、アレンが呟く。そんな彼の胸の内が察せられるからこそ、フィオナは何も言葉を返すことが出来なかった。彼はやさしい。とてもやさしくて、あたたかい。だからフィオナは“最後”だったのだ。彼はなるべく可能な限り他の手段をとろうとしたのだろうし、そして実際にそうしたからこそ、フィオナのところへ足を運ぶまでに長い時間がかかったのだろうと思う。


 体内に入り込んだ魔獣の毒を浄化する為には、魔女の“魔力”を患者へ直接流し込む必要がある。患部から少しずつ送り込み、毒を中和させるのだ。治療薬のように、薬の中に魔力を溶かして飲ませれば良い、と、そう思われがちであるけれど、魔獣の毒を浄化させるには、傷治療用の薬に混ぜた魔力なんかとは比にならないほど大量の魔力を詰める必要がある。しかし、魔獣と魔女の魔力は、根源を同じとする力だ。いくら“魔力”そのものがフラットであり、それ自体に何かしらの性質や固有の作用があるわけではないといっても、それはあくまで生まれながらにして魔力を体内に宿した魔女や魔獣に限った話しであり、普通の人間ではそうはいかない。故に、少量なら何の問題なくとも――寧ろ良い方向に働くことはあっても――、一気に、そして大量に人間の体内に流し込めば、それは“毒”となり、患者の命を危険に晒すことになる。だから患部から少しずつ、様子を見ながら体内に送り込む必要があり――つまりそうする為には、その患者の身体に触れなければならない。


「王都にいる魔女には全員、既に解毒を試してもらいました。しかし……」


 アレンが濁したその先を、フィオナは胸の中で小さく呟く。駄目だったのですね、と。聞くまでも、確かめるまでもない。結果は今彼女の眼に、色を失った状態で映っているのだから。


 厄介なことに、魔力には“相性”というものがある。根源は同じであり、それそのものは常にフラットであるはずなのに、だ。長い年月の中で、様々な変化を遂げてきたせいによるものなのかは分からない。一説によれば、個体が成長するにつれ魔力もまた多かれ少なかれ変異するそうだ。それがどういうものなのかは、今のところ解明されていない。いないけれど、兎も角魔力には“相性”というものが存在し、それ次第でもたらされる結果が異なってくるのだ。たとえば力を増強させたければ、相性の良い魔力同士を。今回のように、体内に入り込んだ毒を浄化させたければ、相性の悪い魔力を。そして、相性が良くも悪くもない魔力同士が生むのは、ただの“無”だ。なんの変化も起こさない。


 恐らく既に解毒を試みた魔女たちの魔力は、シリウスの体内に入り込んだ毒――魔獣の魔力――との相性が、良くも悪くもなかったということだろう。彼女たちの中に、相性の良い魔力を持った魔女がいなかったことは、不幸中の幸いなのかもしれない。全ては一か八かだ。忌々しいことに、事前に魔力の相性を確かめる術はない。


 つまり、それは――。きつく噛み締めた唇を一瞬解き、けれども再びかたく引き結びながらフィオナは僅かに目を伏せる。つまりそれは、フィオナ自身の魔力が最後の止めを刺すことにも成り得る、ということだ。相性を確かめる術がないのだから、今の時点で、良い方に転ぶのか悪い方に転ぶのか分からない。もしかしたら何の変化も起こさない可能性だってある。


 そう思うと、途端に身体が震えた。自分のせいで彼が死ぬかもしれない。どのみちこのままでは彼はそう長くは保たないだろう。けれども、最後の止めを刺すのが自分になるかもしれない、というのは、ひどく耐え難い恐怖だった。もしかしたら自分のせいで、自分の手で、彼の命を奪ってしまうかもしれない。愛する男の命を、自らの力のせいで。


 こんな時、祖母だったならどうしただろう。穏やかに微笑む懐かしいかんばせを脳裏に思い浮かべながら、フィオナは考える。魔女の中の魔女と謳われた、才能豊かで技術に優れていた祖母だったならば、いったいこの状況で、どういう判断をしただろう。


「無理に、とは言いません」


 努めて平静を繕った落ち着いた声でアレンはそう言ったけれど、それは彼の優しさからの言葉であって、本当はそんな悠長なことを言っていられる場合でないことくらい、フィオナにも分かる。シリウスはこの国唯一の王太子だ。レグナリス王国の未来を背負う唯一の存在。何が何でも助けなければ、この国はそのかけがえのない存在を失ってしまう。


 薄っすらと汗の浮かんだ青白い顔を見つめながら、フィオナはゆっくりと、細く長く息を吐き出す。その瞬間、身体の中心に蟠っていた何かが、すうっと、消えてゆくような感覚がした。弾けるのでもなく、破れるのではなく、崩れるのでもなく、ただすうっと。溶けるように、それは消えていった。


 天秤にかけるまでもない――。たっぷりと時間をかけてひとつ瞬き、フィオナは奥歯を噛み締める。天秤にかける必要も、考える必要もない。そんなものは全く不要なのだ。彼の命以上大切なものなどあるはずがないのだから。彼の命以上に大切なものなんて、何も。


「……分かりました」


 そう告げた声は、とても落ち着いていた。フィオナ自身でも驚くほどに。それは凛としていて、純粋なほど真っ直ぐだった。


 その声が鼓膜に触れた途端、今まで空っぽだった心に、身体に、たくさんの感情がどっと溢れ出す。あまりにも多すぎて、勢いが強すぎて、渾然一体となったそれらひとつひとつがどんな感情であるのか、まるで判然としない。それでもそれらは、噴水から吹き上がる水のようにとめどなく込み上げ続け、たちまち全てを呑み込んでゆく。感情の中にどっぷりと浸かっている――そんな感じだった。そしてその中に沈めば沈むほど、心が痛くなった。まるで鋭く尖った刃で切り裂かれたみたいに。痛くて、痛くて、息苦しくて。溺れている、と、フィオナはスカートを握り締める指を一本一本解きながら思う。今私は、感情の中に――底なしの、深い深い感情の沼の中に――溺れているのだ、と。


「フィオナ嬢」


 躊躇いがちに名前を紡がれ、フィオナはそれに、小さな笑みで応える。アレンが心配してくれていることは、分かっている。顔を見なくても、あの端正なかんばせが悲痛に歪んでいるであろうことも、容易に想像がつく。

 だからフィオナは隣に立つアレンの顔を見上げ、美しいオリーブ色の瞳をやさしく見つめながら、にっこりと――今出来うる限りの満面の笑みを浮かべた。


「大丈夫です、アレン様」


 何が大丈夫なのだろう、と、フィオナは胸の中で密かに自嘲をこぼす。けれどもそう言う他になかった。神がいないのであれば、あとはもう、自分自身の力を信じるしかない。他の誰にも縋ることは出来ないのだから。


 苦しそうに歪められたかんばせをじっと見つめ、フィオナは深く吸い込んだ息をゆっくりと吐き出す。怖くないわけではない。悲しくないわけではない。寂しくないわけでもない。今にも胸が張り裂けてしまいそうで、それを堪えるのに必死だった。ちゃんとしなければ。ちゃんとやらなければ。そう自分を叱咤することでどうにか身体を動かし、力なく横たえられた包帯だらけの腕へ指先をのばす。


 これで、最後だ――。頭の中にそう過った途端、青白い手に触れるその寸前で、フィオナは思わず動きをとめてしまう。これで、最後。これで、もう最後なのだ。あと僅か指先を動かして、彼の肌に触れたその瞬間にはもう、この数カ月間の長くも短い時間は“なかったこと”になる。フィオナやアレンがそれを憶えていても。シリウスの中からは跡形もなく消え去ってしまうのだ。何もかも、全て。まるではじめから“そんなものはなかった”かのように、全て消えてしまう。


「――僕は、お二人が過ごされた大切な時間を、絶対に忘れません」


 躊躇いを見て取ったのか、アレンが強い意志のこもった声で、そう言った。もちろん彼も、分かっているだろう。自分が憶えていたとしても、シリウスがそれを忘れてしまっては、何の意味もないということを。


 けれども何の意味もないわけではない、と、フィオナは小さく微笑みながら思う。せめて憶えていてくれる人がいれば、シリウスと共に過ごした時間は、決して“なかったこと”にはならないのだから。他の誰かの記憶に留まっていれば、それはフィオナの“思い違い”でもなければ“夢”でもないことを証明してくれる。あの尊い時間は確かにあったのだ、と。あたたくて、穏やかで、幸福に満ちた日々は確かにあったのだ、と。

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