03* 愛を知らない 酷いヒト
「取り引き、しませんか」
勢い任せな言葉に
前の取り引きで聞かせてくれと頼んだプロポーズの結果は、わたしの予想に反して失敗に終わった。敗因が間抜けでなりそこないな一夜の過ちと言うのなら、わたしも痛い目を会わなければフェアじゃない。
「彼女のフリをしますから、彼氏のフリをしてください」
別れたばかりの人に提案することでもない。でも、彼が困ることがわかっていたから、あえて口にする。
「彼女を親に紹介する、て言ってましたよね」
「覚えてたの」
酔ったご本人から三回ぐらい聞いたとは返さない。恨みをぶつけたいわけではないのだから。
「わたし、親や親戚に心配されることがわずらわしかったんです。頃合いを見てフラれたことにしたら、強く言われなくなるかな、て」
大丈夫。顔は平静なまま、声も震えてない。うまくやっている。胸を張れない理由があると強がらなくちゃ。
何を考えているのか、五十嵐さんがお冷やをひとくち飲んだ。全く笑わずにわたしの腹の底をうかがっている。
生唾を飲み込み、グラスについた水滴を見下ろした。
「ほら、わたしの名前って、同じですよね」
元カノと、と言うのは
自分で自分の傷をえぐって、馬鹿みたい。
ぶっと吹き出した音が耳に届く。顔を上げると大きな手で口を隠した彼が笑いを堪えていた。目には涙までためた五十嵐さんはわざとらしく喉を整える。君は、と小さな子に言って聞かせるように言葉をくれる。
「
彼の口から聞けた二度目の響きに息が止まりそうになった。
わたしは、どこにいったって『背の高い子』扱い。相手は何てことない区別としての言い方だったけど、拭えないコンプレックスを押し付けられ続けた。
わたしの悩みがちっぽけだと考え直したのは、新入社員研修を終えた足で出た事務所の非常階段で起きた。
誰だっけ、あのという声に誘われ、耳をそばたてた時に響いた声は今でも忘れない。下の階の踊り場で煙草を楽しむ彼の声。
『春日麻奈美でしょ。目があって話しやすかった』
それがきっかけで追いかけた愛をこの人は知らない。
会社で飲み会で笑う彼を何度も目で追ったことも、元気をもらったことも知るはずがない。
報われない恋を諦めない自分に何度も言い聞かせた。彼女と同じ名前だからたまたま覚えたのだろうと。
わたしの想いなんて知らなくてもいいから、悲しそうな顔をしないで。
またひとたび、肩を震わせた彼がわたしに目を向ける。
「爪が甘いって言われない?」
「言われたことはないです」
こんな賭け事を初めてだし。情けない顔を我慢して、すごんでみる。
五十嵐さんは筋を際立たせるように首を傾げた。
「親達を誤魔化せたとして、職場はどうすんの?」
考えるのに数秒。すぐにわかることに全く気が付かなかったなんて、神経がイかれてた。熱すぎる顔を両手で隠して項垂れる。
「すみません、忘れてください」
その勢いでわたしの存在も忘れてほしかった。叫び声を我慢できた自分を褒めてあげたい。
全く見えないけど、五十嵐さんは何事もなかったようにメニュー代わりのモニターを操作した、気がする。
「なぐさめようとしてくれたんだろ? 気にしなくていいよ」
彼の言葉が、のたうち回っている心に突き刺さる。
傷心中の人に気遣われるとかありえない。忘れてもらえないなら、消えられないかな。
「豆腐サラダと焼き鳥の盛り合わせ、だし巻き卵は頼んだ。他にも欲しいのあったら好きに頼んで」
「アリガトウゴザイマス」
手の中はひどい顔をしている、絶対に。恥ずかしさで埋め尽くされた脳に逃げ場はなかった。
さしで飲む機会なんて、きっと一生ない。羞恥を追いやって根性を叩き出し、サラダを分けようとしたら、トングを取られてしまった。
上司にさせるなんて、不覚。しかも、きれいに盛り付けられた皿を見て女子力も負けた気がした。
しょりしょりとレタスをかじっていると、何の前触れもなく五十嵐さんが言葉を落とす。
「春日さん、彼氏いないのか」
いないと言うだけなのに、好きな人に聞かれたのであれば、上手く言葉にできない。頷いて返せば、五十嵐さんはなぜか渋る顔をする。
騙すのは本望じゃないし、節操なしにもなりたくないしと呟いてグラスを置いた。
「写真で手を打たない?」
何のお話でしょうか。心の声を顔が代弁してくれたらしい。
「結婚、せっつかれて大変なんだろ」
今度こそ、意味のない文字をわめいていた。
彼は意外そうな顔で出方を待っている。
冗談でもなく、本気だ、この人は。息継ぎを忘れた口が必死に言葉を紡ぐ。
「彼氏のフリしてくれるんですか?」
「写真だけ。親に言うだけなら名前も使ってもいいよ」
浮かれてはダメだとわかっているのに、顔に集まる熱を冷ますことができない。
「取り引き、なんだろ。何をもらうか考えとく」
からかうよう口からこぼれた現実に、心が少しだけうずいた。
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