10話 君の車輪
病棟を出ると、礼拝堂の長椅子に座るアッシュと背もたれに寄りかかっているアルを見つけた。
歩いてくるエミリーを見て、ふたりの表情が曇る。
血まみれのエプロンに、泣き腫らして真っ赤になった目元。女子棟のほうの惨状ぶりは、2人にとっても想像以上だったらしい。
エプロンを外したエミリーに、アッシュが声をかける。
「エミリー、大丈夫…?」
「うん…、…ううん。全然、大丈夫じゃない」
深いため息とともに、エミリーの表情が険しくなる。
「…あたし自身が傷つけられたときよりずっと、女ってだけで理不尽に曝される現実に、頭が沸騰してる…」
「…なんだよ、男を皆殺しにでもするか?」
アルが少し茶化した調子で言う。
エミリーがぎゅっとエプロンを握りしめた。そこに残る赤黒い血の跡が、怒りを再点火する。
「…そうしたいくらいよ。
あんな小さい女の子を陵辱する男も、真面目に働いてただけの女性を転落させて平気でいる貴族も、みんな…みんな許せない…!」
エミリーの声音に強烈な怒りが滲む。
アッシュは、エミリーから顔を逸らした。口を固く結んで推し黙っている。アルも眉間に皺を寄せている。
「…自分もそっち側だろ」
アルは腕を組んでぼそりと呟いた。下を向きながらもギラリと光る目だけがこちらを睨みつけている。
エミリーは力無く頷く。
「そう、ね…今、そういう奴らと同じ立場にいるのが心底恥ずかしい」
「あんたが貴族を辞めれば、すぐにでもこっち側に来れるぜ?
でもそうはしねえもんな」
「ちょっとアル…!」
アルの嘲笑に、さすがにアッシュが止めに入る。
エミリーにも、その嘲笑の奥にある貴族への鬱憤は察せられた。
アルの怒りも、尤もだ。アヘンを強請って怒鳴ってきた女もそう。どんなに自分では庶民側だと思っていても、同じではないのだ。
それでも、とエミリーは続ける。
「貴族がひとり減ったところで、世界は変えられない。
あたしは……今のこの地位を使って、世界を変えたい。」
エミリーのその言葉に、アッシュは目を見開く。
ふんと鼻で笑って、アルは冷ややかな眼差しをエミリーに向けた。
「ふん、キレイごとだな。
結局、自分が権力持ちてぇだけだろ?」
「おいアル、挑発するなって。」
エミリーは腕の痣を撫でた。その手に握りしめているエプロンの血に目がいく。
女の子は、どうしてこうなんだろうね——
ジェシカの乾いた声が頭の中にこだまする。
「…自分のため、って気持ちがあるのは否定しない。あたしも理不尽は受けたくないし、男子と同じだけの権利がほしいもん。
けどそれは、あたしだけじゃなく、全ての女子がそうであってほしいの
そのために、今の地位が必要になる」
「……その道は険しすぎるよ。
社会の反発がすごいだろうし、逮捕されたり、その…。」
アッシュが心配そうに諭すが、最後まで言い切れない。それをアルが淡々とした声で引き継ぐ。
「最悪、死刑かもな」
全員の脳裏に断頭台の音がよぎる。
さすがに身震いが走る。
エミリーは自分を奮い立たせるように、血塗れのエプロンをさらに握りしめた。
「うん…わかってる。
それでも、何もかも失うかもしれなくても、あたしたちが傷つけられ続けるほうが嫌だから」
「……あたしたち、か…」
アッシュがエミリーの言葉を小さく反芻する。噛みしめるように、刻み付けるように。そして眉を下げて、自嘲ぎみに笑った。
「君より長く彼らに関わってきたのに、僕は彼らを救おうとばかり考えてたんだ。
助けなきゃ、なのに、僕には何もできない。可哀想でたまらないって。
踏みにじられて傷ついている、自分と同じ人間だって、わかってなかった…。
エミリーを見てやっとそれに気づいたよ…。」
アッシュは立ち上がってエミリーに向き直る。
「君は他人の痛みを、自分のことのように同じく感じられるんだね。
傷を受けたひとと一緒に怒れること、心から尊敬する。
世界を変えるのは、きっと君だ、エミリー。」
「アッシュ…
そう言うけど、アッシュがずっと行動してきたことで、助かったひともいるでしょ?
それは、間違いなく、優しさだと思う」
エミリーとアッシュは見つめ合う。互いの目に、尊敬と慈しみの光を見た。
ふたりの信頼の歯車が噛み合うのを見て、アルも笑みを漏らす。
「…この世界に真っ向から反逆しようってか。ふっ、それもいいかもな。
そろそろ辛酸を嘗めるのも飽きてきた頃だ」
「アルがいれば心強いよ。
あたしたちは貴族に、アルは労働者に味方を増やして合流すれば、世論に影響も及ぼせる」
「あんま当てにすんなよ?
俺だってただの労働者だからな」
「謙遜するなよ、アル。
僕らの年頃から他人に手を差し伸べるなんて、そうできないよ」
アルはひらひらと手を振って誤魔化す。
顔を逸らした視線の先に、聖母像が見えた。夕日で赤く染まって、より一層色濃く影を落としている。
アルの口から、祈るような囁きが溢れた。
「…ガキどもや姉さんたちを、解放してやってくれ
もうあんな…苦しんでんのは見たくない」
「うん…あたしも。
もうひとりも、女の子に傷ついてほしくない
きっと世界を変えてみせる!」
エミリーのその瞳に宿るのは、怒りと悲しみと決意の
「頼んだぞ、エミリー」
修道士たちが戸締りを始めようとしているのを見て、アルがエミリーとアッシュに声をかける。
「お前ら、そろそろ門限なんじゃねーのか」
「え? あ、門限!すっかり忘れてた!」
学園は外出は自由だが、基本的には門限には寄宿に戻るよう言い付けられている。事前の届け出のない門限破りや外泊は、当然罰則の対象だ。
慌てるエミリーを手招きして、アッシュも慌てて外へ向かう。
「自転車で飛ばして帰れば間に合う!
じゃあ、またねアル。」
「またねー!」
「おう」
アルが手を挙げてふたりを見送る。
期待なんて感じるのは、いつぶりだろう。アルは少し口角を上げて笑った。
*
来たときとは違って、エミリーは跨がる形で自転車の荷台に座っている。ペダルを漕ぐアッシュに大きな声で話しかけた。
「ねえー!また自転車貸してよ!」
「もちろん! そのうちエミリーのほうが乗るの上手くなってたりしてね。」
はは、と笑うアッシュに、エミリーも笑う。
相変わらず蒸気が立ち込め、絶えず機械の音があちこちから響いてくる。自転車で走り抜けながら、エミリーは真っ赤に染まった街を眺めた。
工場地区の煙突から濛々と上がる煙が、街を覆い隠している。地下街のある谷のほうはもう真っ暗で、ぼんやりと見える灯りが幽霊のようだ。
貴族街のほうへ向き直ると、それら全てを拒むように高く頑強な柵が嫌でも目に入る。
いや、どうだろう。
外のものを拒絶するだけでなく、中にいる者を閉じ込める檻とも言えるか。
等間隔に続く街灯を見送りながら、エミリーはため息を吐いた。
「…世界があたしたちを閉じ込めてくるみたい。どこまで行っても……」
流されて消えてしまいそうな声。
アッシュは、腰に回されたエミリーの手に自分の手を重ねて、ぎゅっと包んだ。
「…僕が君の車輪になる。閉じ込めてくる檻から飛び出すための、車輪にさ。
一緒に行くよ、世界の果てでも。」
「ふふ、そうね。行こう、世界の果てまで!」
朱色と紺色の空の狭間に、シリウスが青く瞬いていた。
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