毒を秘そめて 嗤うキミ

かこ

01# 毒を飲みこみ 嗤うキミ

「先輩、知らなかったんですか。アイツが浮気してること」


 終電間近の残業終わりに聞くには、少々――いや、ダイレクトに頭を殴りにきた。

 嘘でしょ、と青ざめたのは最初だけ。

 どうしよ、と頭をめぐるのは自分の保身。

 ついには私の愛なんて、そんなものかと冷静に構えるのだから、愛というまやかし・・・・の終点が見えた。


「わざわざ説明してくれてありがとう、桂木かつらぎくん」

「泣くかと思ったのに」

「余計なお世話よ」


 軽くあしらえば、隣を歩く後輩は不穏な笑みを浮かべる。街灯に照らされれば、より一層あやしく、すくみあがってしまいそうな笑い方。

 当たり障りなくとスルーしようとしたのに、感情を見せない瞳がこちらに向いた。

 熱のない声が出来たばかりの傷をえぐってくる。


「追いかけないんですか」


 ため息が出たのは仕方ない。仕事の山を越えたと晴れ晴れとした気持ちがドン底に落とされたのだから。

 残業上がりに修羅場? そんなの願い下げ。

 止めていた足を前へと動かすと、彼がついてきた。

 答えないのも大人げないか。真っ直ぐに前を向いたまま言ってやる。


「追いかけてすがって、泣きつけば心変わりする? もし仮に、土下座してもらっても許してあげるわけないでしょ」

「出ました、ドライ発言」


 すぐに追い付いた横顔をじとりと睨み付けてやっても、全く手応えがない。

 見覚えのありすぎる姿が消えたラブホの玄関を通りすぎた。大樹だいきの建築事務所が作ったホテルだからと一度、利用したことがある。せめて、同じ部屋じゃないことを祈ろう。

 駅の長い階段で、執行台に向かっている気分になるなんて、意外とセンチメタルな部分がしがみついてたみたい。仕事仕事の上に仕事を上塗りしてきたのに、心は愛を求めていたのか。

 たったひとつの恋愛が終わりそうなだけで、自分を全否定されたような気持ちになる。まるで、お前には魅力なんてないって。

 あぁー! だめだめ! 後ろ向きよくない!!

 冷静のかいた頭を夜の冷たさがなだめるけど、それだけでは足りない。


「桂木くん、飲みに行こっか」


 やけっぱちな提案を駅のホームでしてしまった。


「終電逃しますよ」


 手塩にかけた後輩は現実に引き戻してくれた――わけでもないらしい。


「浮気するっていうなら、付き合いますけど」


 まるで、残業なら付き合いますよというノリで耳を疑うことを言った。

 思わず隣を見れば、冷え冷えとした両目がこちらを見下ろしている。

 電灯の下、すいと猫のように桂木くんは踵を返した。明るすぎる自販機の前で立ち止まった影は黒い。かざした携帯画面が点滅して、ガコンという音が響いた。

 買うのは一本。彼の分だけ。

 他所からクレームが来るほど気遣いが抜け落ちた彼には嘘がない。ただひとつの気に入ってる部分が、胸をざわつかせる日がくるなんて。

 ブラックコーヒーを無感動に飲み始めたあちらの思惑を探る。

 感情の起伏が読みにくい顔は、鼻にかけているとも無機物とも影で言われていた。今では、直に言っても響かない桂木くんと通っているので、わかるわけがない。

 春先の風が私達の間を抜けていく。

 乱れた髪に邪魔をされ目をそらす姿を嘲笑あざわらうように、彼はものともせずに言葉を投げてくる。


「お見舞いに買いましょうか」

「いらないわよ、そんな気遣い」


 でしょうね、と相づちを打つ彼の袖口から腕時計がのぞいた。ぼんやりとした光を受け、にぶく反射する。

 棚の上に置いてあるお高い箱を思い出して、顔がこわばった。誕生日だと奮発したのに、悩んだ時間を返してほしい。


「死ぬなら終電の後にしてくださいよ」


 帰れなくなるんで、と寒空よりも冷たく響く声。自分本意で無遠慮な物言いは、課長も半笑いするブレのなさ。しでかすほどの正直さに、何度、肝を冷やしたことか。

 弱まった風が癖のない髪をさらう。どうでもよさそうに線路の先を眺める桂木くんは通常運転そのもの。

 浮気するなんて、冗談に決まってるじゃない。

 ジョークなんて言えるのね、と一笑してやろうと顔から力を抜いたら、奥の見えない目に射ぬかれた。


「先輩達って、まだ付き合ってるんですよね」


 息を飲む私に嗤ったのか、他の誰かに嗤ったのか、缶に口付けた薄い唇が歪な弧を描く。


「鼻を明かして土下座させてやりましょうよ」

「え、土下座? そこまで」


 言いかけた言葉はホームに入ってきた電車の音にかき消される。

 楽しみですね、と彼が肩を押すから、ドアの開いた電車に乗っていた。

 私の戸惑いなんてお構いなしに、彼は一滴も残さずに苦い液を飲み干した。開閉を知らせる音が鳴り響く中、自販機横のゴミ箱に向かう足取りはスローモーションのように見える。


「じゃ」


 カコン、と響く音と別れの言葉が重なった。

 両ポケットに手を突っ込んだ背中がエスカレーターで運ばれていく。

 我に返った時には、彼の革靴も見えなかった。取っ手にしがみついたのは、終電を逃したくなかったからに決まっている。


「じゃ、じゃないでしょう! 終電逃していいの? それに――」


 私の叫びはドアに閉め出された。



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