第11話 怨売り商法とオンアダの標的
朝から、胸の奥がじりじりと焼けるようだった。
誰かの声がうるさいわけでもない。空腹でもない。理由のない苛立ちが、全身にうっすらと膜のように張りついている。
私は、いつもと変わらぬように呼吸を整えようとしたが——無駄だった。
細かな音の歪みや、靴音の響きすら、神経を逆撫でする。
「……怨さん、イライラしてますねぇ。これは完全に溜まってますね〜怨が」
肩の上で、ヴェルゼルクがだらりとした声を出す。使い魔になってからというもの、妙に馴れ馴れしくなった気がする。
「……そうね。何もしてないのに、誰か殴りたいわ」
「そりゃあ、“鶴の怨返し”の影響ですな。怨念、溜めすぎです。ストレスってやつですな。発散しないと、そのうち爆発しますぜ?」
「分かってる。けど、発散する相手がいないのよ」
私は重くなった脚を前に出しながら、ゆっくりと歩く。昨晩食べた乾パンの味すら腹に残っている。
何もかもが、薄く、鈍く、鬱陶しい。
「そろそろ誰か襲ってこないかしら……」
そう呟いたその瞬間だった。
——シュッ。
音のない空間を、明確な殺気が切り裂いた。
「姉さん、来たねぇ」
バロスが口元を歪め、すでに手を上着の中へと潜らせている。
「やれやれ、願ったら即現実か。どこの引き寄せの法則だよ」
ヴェルゼルクがあくび交じりに肩をすくめる。私の“願い”を聞いたのかのようなタイミングだった。
視覚化魔法で構築した“音の視界”に、複数の人影が入り込んできた。
足音は整っている。魔力の扱いも雑ではない。訓練された刺客。動きに無駄がなく、しかも殺気を隠さない。
──好都合。
「ちょうどいい憂さ晴らしね。こちらも商売するわよ」
私は笑った。
その一言に、バロスとヴェルゼルクの表情が同時に動いた。ひとつはニヤリと営業スマイル。もうひとつは、悪魔のような目の輝き。
「おうよ、姉さん! 怨売り商法、開店だな」
「では、本日の特売品は……手足一本でどうっすか?」
影が地を這うように展開し、刃が闇を裂いた。
刺客たちの足音が、一斉に私たちの周囲を囲む。最初の斬撃は、狙い澄ましたように私の首筋へ。
「遅い」
私は身体を半身に捻って後ろへ滑り込み、そのまま剣を逆手に振る。
軌道をずらしながら、相手の肩口に刃を滑り込ませた。
ズバッ!
布と肉の裂ける音が鮮明に響く。男の悲鳴が喉の奥でせき止められたまま、彼はその場に膝をついた。
私は無言で機織り機を取り出し、男の腕に触れる。
「“怨を売る”——始めましょうか」
ギィ……ギィ……ギィ……
赤黒い糸が断面から溢れ出し、音を立てて絡まり始める。怨念が布となり、筋繊維をなぞるように腕を再構築していく。
血の臭いが広がる中で、私は静かに織り続けた。
刺客の顔が恐怖に染まるのを、私は“音の表情”で視た。
「その腕、欲しいなら……オンアダに入社してもらうわ」
「ふ、ふざけるな……!」
彼の叫びが、次の戦闘の号砲となった。
四方から魔導刃と魔力弾が飛来する。
「ヴェルゼルク、今!」
「合点承知!」
ヴェルゼルクの影が空間を飲み込むように膨張し、敵の足元に伸びる。
彼らが足を取られた隙に、私は新たな動きを見せた。
——新スキル、『怨にきる』、発動。
私の体に、編み込まれた黒衣が走る。
布が肌を這い、身体のラインに沿って怨念の衣が纏われる。
視界の“音”が揺らぎ、私の気配が一瞬消える。
「な……どこに……!」
「ここよ」
私は刺客の背後に現れ、そのまま片足を軸に旋回する。
纏った布が鞭のように翻り、敵の体に絡みつく。
「その怨、私に着せる」
怨を纏った一撃が、敵の胸に炸裂する。
ドゴッ!
刺客の体が弾かれ、壁に叩きつけられた。
怨は“着る”だけでなく、“着せる”ことができる。
この衣は、相手に重くのしかかる呪いの証。
「く……っ、負け……た……」
最後の刺客が倒れた時、私はようやく息を整えた。
全身のイライラが、綺麗に洗い流されたように消えていた。
ヴェルゼルクが肩の上に戻り、ぼそっと呟いた。
「怨さん、スッキリした顔してんな……やっぱストレス解消はブチかますに限るな」
バロスが倒れた刺客に歩み寄り、首根っこを掴んで持ち上げる。
「さて、聞かせてもらおうか。お前、どこから来た?」
「……俺は……勇者ギルドの……粛清部隊……」
その言葉に、私の中で再び何かが重くなった。
「……勇者、ギルド……?」
「そうよ、怨さん。あんたが知らないのも無理はない。今の世界は、勇者と魔王がただの“ブランド”なのさ……」
「勇者と魔王が……ブランド?」
私は、バロスが縛り上げた刺客の言葉を、反芻するように呟いた。
勇者は人を救い、魔王はそれに抗う破壊の象徴。
その信念で私は、命を懸けて戦ってきた。
剣を振るい、血を流し、信じたもののためにすべてを賭けた。
だというのに——
「姉上、少々お言葉を挟みます」
静かに声をかけてきたのは、カイン・フォルネウス。
彼の甲冑はいつも通り丁寧に手入れされ、礼儀作法の行き届いたその姿には、一分の乱れもない。
だが、その手にはしっかりと斧が握られていた。
この場が、まだ戦場の余韻に包まれている証だった。
「今の話、詳しく聞いておいた方がよろしいかと。姉上のお怒りはもっともですが……この世界の“実態”を正しく知るべきです」
「……説明役は俺かよ」
私の肩に乗っていたヴェルゼルクが、軽く羽をばたつかせた。
彼の声は呆れたようでいて、どこか楽しげだった。
「ま、仕方ねぇな。怨さんが聞きたいってんなら、俺も仕事しよう」
そう言って、ヴェルゼルクは空中に浮かび上がり、黒い羽根をふわりと舞わせる。するとその周囲に、淡い光糸が編み上がり、まるで演劇の幕が上がるように空間が震え始めた。
「勇者ギルドと魔王ギルドってのは、今じゃ“興行主”なんだよ」
言葉と共に、光糸が“舞台”を描き出していく。
観客席に座る人々、演台に立つ勇者と魔王の姿、そして中央に浮かぶ巨大な魔導ホログラム。
「“勇魔大戦”ってイベントを定期開催して、勇者と魔王の戦いを演出してる。魔法で制御された戦場、派手な魔法演出、脚本付きの対決だ。死人は出ねえ。全部“演出”だよ」
私は音で視た舞台の像に、言葉が出なかった。
それは──私たちが戦場で交わした命のやり取りとは、あまりにも異質なものだった。
「住人たちは、その演目を観ながら賭けをする。どっちが勝つか、どの瞬間に裏切りがあるか。なかでも一番盛り上がるのが、“勇者の裏切り”だ」
「……裏切り?」
私の喉が、わずかに震えた。
ヴェルゼルクはゆっくりと頷いた。
「ああ。賢者につくのか、剣聖につくのか、あるいは魔王を選ぶのか。それが“勇魔大戦”の最大の見せ場さ。いわば、勇者は“裏切る役”として仕組まれてる」
胸の奥が、ぎしりと鳴った。
それは──私がかつて信じ、裏切られたその構図そのものだった。
刀馬の背中。
玲の笑み。
「……その構図すら、演出にされてるってこと……?」
「ああ、全部だ。勇者も、魔王も、剣聖も賢者も。今じゃ“ブランド”だ。役割を演じることで、観客に希望や絶望を提供する。それがこの千年で出来上がった“社会の娯楽”ってわけさ」
私は、何も言えなかった。
背中の奥、心臓を掴むような冷たさが染みていく。
——これが、千年後の世界。
「この仕組みを作ったのは……玲なのね?」
その名前を口にしたとたん、私の手が、震えを帯びた。
ヴェルゼルクは羽を一振りし、淡く頷いた。
「そうだ。“傾国”のスキルが発動した時、この構造が作られた。“平等”のために、戦いをエンタメに変えた。死なない戦争、争いを“観賞する”社会。それが、今のこの街の在り方だ」
私は拳を握りしめる。
信じていた。あの笑みに、あの思想に。
けれど、それはすべて“世界を丸ごと演出に落とす”ための布石だったのか。
「……ふざけてる」
声が震える。
怒りか、哀しみか、自分でも判別がつかなかった。
だけど確かに、私の内側で“怨”が湧き上がる。
それを鶴の怨返しが読み取り、指先に黒い糸が滲み出す。
心を縫い合わせていた“何か”が、ぷつりと切れた。
「許せない……っ」
空気が震える。
視覚化魔法の感覚が歪むほど、私の魔力が、いや──“怨”が、世界に干渉しはじめていた。
「姉上……」
カインが慎重に声をかけてくる。
だが私は、彼に微笑んで返した。
「ありがとう、カイン。でも、もう止められないの。だって私は、もう見てしまったのだから。……この世界の“狂い”を」
バロスが、わずかに表情を引き締めた。
「世界に牙を剥くってのは、そう簡単なことじゃねぇぞ、姉さん」
私は彼に向き直る。
黒い糸が指先から舞い、足元の地に滲んでいく。
「でも、私はそうするために蘇った。……玲が作ったこの虚構を切り裂いて、“再構築”する。それが私たち“オンアダ”の本当の仕事」
ヴェルゼルクが、ふっと笑った。
「ようやく……言ったな、怨さん」
その時、私のすぐ近くに、光の気配が現れた。
精霊AI・エーテリスが、いつもの人懐っこい声で話しかけてくる。
「怨さん、街の秩序に過度な干渉は困りますよ?」
私は、エーテリスに視線を向けた──いや、音の濃度の変化を辿るように“視た”。
「分かってる。……街が正常に動いてる限り、貴女は黙認するのでしょう?」
「はい。怨さんの活動が秩序を大きく乱さない限りは、干渉しません。でも……“報告”だけはさせていただきますよ?」
「……ご自由に」
私はエーテリスに背を向け、再び仲間たちの方へ振り返った。
「さあ、オンアダの次のビジネスを始めましょう。次なる依頼主は、世界そのものよ」
剣の柄に触れた私の指先から、黒い糸がまたひとつ、闇にほどけた。
それは“怨”の証。
世界に着せるための“新たな衣”。
私たちは、売る。
この世界に怨を着せて、真実を編み直すために。
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