第4話 世界をこの音(め)で確かめる


 はじめは、何もなかった。


 暗く濁った膜が意識を覆い、世界はただの沈黙に沈んでいた。

 私は崖の上に立ち、耳を澄ます。


 ──そして、一筋の風が吹いた。


 岩肌をなでるかすれた音、落ち葉が巻き上がる気配、裂けた地面に石が転がり跳ねる音。

 それらが波紋のように広がり、私の中に“世界の輪郭”を描いていく。


 まるで、濁った視界に目薬をさしたかのようだった。

 じわじわと広がる清涼感が、色のない空間に、形と奥行きを取り戻していく。


 私は音で“視た”。


 折れた塔、崩れた屋根、ねじれた橋脚。

 千年の風に晒され、すべては風化しているはずなのに──どこか、まだ“動いている”。


「……貴方の話、本当だったのね」


 私の声が、色を帯びた風に溶けていく。


「おいおいおい! 今さらかよ!!!」

 背後で、ヴェルゼルクが苛立ちと共に地面を叩いた。


「何時間もかけて説明しただろ! 千年経った! 王都は消えた! 信じてなかったのかよ!」


「ええ。音を聞くまでは、半分信じてなかったわ」

「こっちはマジで語り尽くしたぞ!? 俺の説明、全部無視だったのか!?」


「言葉だけでは足りないのよ。私は、音で世界を確かめるしかないから」


 ヴェルゼルクが大きくため息を吐く気配。

 その吐息すら、私は視るように感じる。


 ──そのときだった。


 風に混じって、不自然な音が耳に触れた。


 ギィ……ギィイイ……コ、ン……。


 金属が軋む音。鈍く、重たく、ゆっくりとした周期。

 それはまるで、都市そのものがゆっくりと呼吸しているような、妙な鼓動だった。


「……なにか、いるわね。まだ動いてる」


「……聞こえるか。やっぱり、残ってやがったか」


 ヴェルゼルクの声が低くなる。

 私も音に集中する。

 風の流れ、土の振動、奥から滲み出すような異音──それは“死んだ街”ではありえない音だった。


「千年前に死んだと思ってた世界が、まだ生きてるなんて」


「……行く気か?」


「ええ。確かめる必要があるわ。

私は、なぜここに戻されたのかを知らない。

でも、この音を聞いた今、何かが私を呼んでる気がする」


「お前……」


「千年遅れて、ようやく動き出すのよ」


 私は足元を踏みしめた。

 崖の下で、異音が再び響く。


 カン……ギギィ……カン……


 音は明らかに“人為的なリズム”を刻んでいた。

 誰かが、何かが、私を待っているのかもしれない。


「ヴェルゼルク、街へ行くわ」


「わかった。どうせ止めても聞かねぇだろうしな」


 私はうなずき、風の中を進む。


「この千年を、取り戻さなきゃいけないの。

変わってしまった世界に、もう一度踏み込むために」


 風が頬をかすめ、音が視界を塗り替えていく。

 目では視えないこの世界を、私は音で視る。

 ──そして今、ようやく本当に、私は世界を“視はじめた”のだ。

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