第13話 『いっそのこと、押し倒してくれないかな』

「やはり、ご迷惑ではないですか?」


「全然! 誘ったのは私ですから」


マンションのオートロック前で、バックの中の鍵を探りながら、多恵は平常心を装っていた。


ザナデューで飲み直そうと言う玲丞を、自宅へ誘ったのは多恵だ。

昨夜の今夜ではさすがに司の目が気まずくて、軽い気持ちで口にしてしまったけど、言った尻から成人女性としての分別のなさに後悔していた。


今さら撤回して、意識していると思われるのも不本意で、咄嗟に「いいメドックを手に入れたので、昨夜のお詫びに」などとわかりやすい言い訳をしてしまったことが、逆に相手に期待を持たせてしまったのではと不安になって、だからここまでの道中、自己嫌悪と決まりの悪さを覚えながらも、沈黙になることの方が怖くて、一方的に喋り続けていたのだ。


エレベーターの速度が、いつもより遅く感じる。

こちらからの話題も尽きたし、何か喋ってくれればいいのに、〈フジサキ・リョウスケ〉という男は気が利かないのか、無口なのか、それとも彼もまた、思いがけない展開に戸惑っているのか。




「ただいま、はな」


玄関マットの上で、ルディーカラーの猫が行儀よく出迎えていた。

大きな耳をピクリと立てたアビシニアンは、見知らぬ男に驚いて、脱兎の勢いで逃げて行く。


「嫌われたようです」


猫を目で追いながら、玲丞は少し残念そうに笑った。


多恵は彼の足元にスリッパをそろえながら、


「人見知りが烈しいんです」


はなは、父を亡くした多恵のために司が連れてきた猫だ。

外の世界を知らぬ深窓の令嬢は、プライド高く人嫌いで、多恵しか他の存在を認めない。多恵にとっては一人娘と同じ、唯一の扶養家族だ。


「こちらのほうが、落ち着きますね」


多恵が敷いた座布団に、玲丞は両手を腿に置いて正座すると、不思議そうに首を巡らせた。


北欧モダンの室内に溶け込むように作られた、畳敷きの一角。掘り炬燵式の座卓に、床の間には華と書。猫間障子の向こうのベランダに坪庭、そのうえ神棚を祀っているとなれば、意外に感じるだろう。


「本がお好きなんですね」


多恵はアイランドキッチンから顔を上げ、壁一面に設えられた立派な書架に照れ笑いした。


文学者の父に似て、多恵は幼い頃から本が好きだった。

多忙な家族にとって、退屈になれば森の泉の畔で読書にふける娘は、手のかからぬ子どもだったと思う。

物知り顔で小賢しく、そのくせ夢見がちな少女は、そうしてできあがった。


今では童話や小説の類は皆無、美術や建築、ビジネスの専門書ばかりが並んでいる。テーブルにはノートパソコン、窓際の白いカウチソファーは資料置き場に成り果てていた。




「シャトー・マルゴー、1995年」


多恵は手にしたワインを得意げに披露した。

グレートヴィンテージとまではいかないが、この年はマルゴーの当たり年で、本当は贈り主と呑むはずだった。こんな機会でなければ、きっとひとり、不味い酒になっていただろう。


「僕が」と、玲丞は慣れた手つきで栓を抜く。


グラスの中で紫色の波が踊るのを、多恵は頬杖ついてうっとりと眺めた。


「何に乾杯しましょうか?」


問われて、多恵はグラスを手に首を捻った。


「奇蹟の再会、とか?」


玲丞は笑いながら、グラスを重ねる。


「さっきの話ですけど、後から被害届が出されることもあるのでしょう?」


玲丞は一口ワインを含み、ゆっくりと飲み下すと、感動したように微笑みを向けた。


「そのときは、何とかします」


「何とかって?」


玲丞は苦々し気に唇の端を引いて、それには答えなかった。

はったりなのか、それとも、やはりその筋の人間なのか……。


「柔道をされているのですか?」


チーズをつまみながら、玲丞は訊ねる。

話題をそらされたかと思いつつ、多恵はバツ悪そうに、


「子どもの頃、護身にと。祖父が黒帯だったものですから。──それより、他に何かご迷惑をかけませんでしたか?」


玲丞はチラリと坪庭の篠竹へ目を向けて、


「そういえば、ソフトクリームを買いに走らされました」


「ああ、やっぱり」と、多恵は項垂れた。


「私、酔うと記憶が飛んでしまって……」


「それじゃあ、そのあとのことも覚えていませんか?」


「そのあと? まだ何か失礼なことをしたんですか?」


今度は玲丞の方が気まずい顔をした。


「あなたじゃなくて、僕が……」


「あなたが? 何でしょう?」


悪戯を見つかった少年のように、玲丞は急に落ち着きをなくしている。


「ああ、いいです。私の方が覚えていないのですから、きっとたいしたことじゃないんですよ」


「でも、あとで思い出すこともあるかもしれない」


「心配ご無用。私、都合の悪いことは思い出さないたちですから」


「そうなんですか?」


「試してみます?」


玲丞は少し迷って、


「じゃあ……目を閉じてください」


多恵はおとなしく目を閉じる。

この人が、他人を傷つけるような言動をするとは思えない──それなのに、なぜこんなに言いにくそうなのか。


しびれを切らしてうっすら目を開けたとき、大きな影が彼女を覆った。

唇に、温かなものが触れる。ほんの一瞬だった。




「思い出しました?」


伏し目がちに問う玲丞に、多恵は何が起こったのか理解できないと眉間を皺めた。


「埠頭で夜景を見てたんだけど」


多恵は小首を傾げた。


「もう一度、思い出すかもしれません」


大真面目な申し出に、玲丞は一瞬驚いた顔をして、それからフッと笑った。


ぎこちなく唇が重なった。坪庭の睡蓮鉢の水面に、繊月が捕まっている。


──ああ、埠頭だ。


波間に揺れる港の灯り。男の指が女の唇についたクリームを拭った。見つめ合ったまま触れた唇が、クリームよりも甘く柔らかかった。


それが刷り込みによる想像なのか、記憶の回復なのかは定かではない。


玲丞は、多恵の背中を抱きしめ、大きく息を吐いた。


「思い出した?」


多恵は玲丞の胸のなかで小さく頭を振った。


破裂しそうな鼓動が、頬に伝わってくる。それが彼のものなのか、自分のものなのかわからない。

はっきりしていることは、ふたりが今、とても不安定な状態にあるということだ。どちらかが少しでも身動きすれば、均衡はいとも簡単に破られる。


そうなることを期待して彼を部屋に誘ったのか、裸の女に指一本触れなかった草食系にそこまでの勇気はないと招き入れたのか。いったい自分は進みたいのか、引き返したいのか。


──いっそのこと、一気に押し倒してくれないかな。


心が伝わったかのように、ふと、縛めが解けた。


三度目のキスは、これまでとは違う。互いに唇を食み、舌先が触れあう。

キスだけで、カラダが溶け合う予感がした。


──もう引き返せない。


唇が首筋を辿った。


「こんなことまでしたの?」


「……いいえ」


玲丞は頬を緩ませ、お喋りを封じるように、瞼にそっとキスをする。


体を横たわせるタイミングも、ボタンを外す指先も、意外に手慣れていて、何だかうまいこと一杯食わされたような気がする多恵だった。

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