最愛の可愛い幼馴染が子連れで出戻ってきました~アラサーまで引きずった私には生殺しの状態です~

藤之恵

第1話 早矢と陽菜

 夢を見ていた。柔らかい真綿にくるまれたような、優しくて、甘い夢。

 そこにいるのは、いつも同じ女の子で、いつも私に向かってこう言うのだ。


早矢はやちゃん、大好きだよ!」


 陽菜ひな、可愛い――それしか言えなくなる私は、何も悪くない。

 言われた瞬間、胸の中にチョコレートを詰め込まれたような甘さが広がり、息ができなくなる。

 それが地元を離れ、東京に出てきた私を定期的に襲う夢だった。

 今日は久しぶりにその夢を見た。だから嫌な予感がしていたのだ。


「早矢は私じゃない方がいいと思う」


 私は目の前の恋人を見つめる。

 身長は私と同じくらい。ふわふわに巻かれた髪の毛は女子力の塊みたいだ。

 大切にしてきた。そのつもりの女の子。


「え? どういうこと?」

「別れようってこと……今まで楽しかったよ」


 私の恋人――いや、元恋人の彼女はそう言って微笑んだ。その瞳に涙が浮かんでいたとして、私にできることはない。

 もう何度目かわからない失恋だった。


「さいっあく」


 呟いた言葉には、真綿で首を締められたような苦しさが乗っていた。


 ***


 カウンターに並ぶ酒瓶のラベルが、ぼんやりとしたバーの灯りに照らされている。バーにしては明るめの光が、木製のカウンターに艶を与えていた。カウンターの向こうのキッチンからは良い匂いが鼻をくすぐる。

 店内には数人の客が思い思いにグラスを傾けていた。後ろに取り揃えられた漫画たちを読んでいる人もいる。バーとカフェ。その二つの面を持ったこの店は早矢のお気に入りだった。 


「あんたねぇ、飲みすぎよ」


 バーカウンターの向こうでジェイさんが呆れたように言った。奥では店長が料理を作りながら、こくこくと頷いている。

 そんなに飲んだだろうか。

 早矢は手元に置いてあるハイボールを眺める。確か5杯目。店に入ってから2時間経ってないから、ペースはやハイかもしれない。

 ジェイさんの手には、拭き終わったグラスがあった。無駄のない動作でそれを棚に戻しながら、カウンターの向こうからこちらを呆れたように見つめている。


「だって、また振られたんだよ!」

「早矢はモテるのに続かないね、ほんと」


 ジェイさんのしみじみとした呟きに、早矢は不満げに口を尖らせる。

 手元のグラスを持ち上げる。透き通る液体がゆらりと揺れ、微かなアルコールの匂いが鼻をくすぐった。

 好きで続かないわけじゃない。いつも早矢は振られる方なのだから。


「今回は二個下だっけ? 可愛い女の子捕まえてたよね」

「可愛い子が好きなんだから、しょうがないじゃん」

「それで捕まえられるのも凄いんだけどね……続かないけど」


 カウンターに飲み干したグラスを置くと、中の氷がカランと音を立てた。もう一杯飲むか。少し考えつつ、指で氷を回す。

 ジェイさんがそっと置いてくれた水を大きく一口飲み干す。くわんとめまいのように視界が回り、目を細めながら天井を仰いだ。

 ジェイさんがグラスを拭きながら肩をすくめる。


「今回は何で振られたのよ?」

「『早矢は私じゃない方がいいと思う』って」

「毎回、そんな台詞」


 ジェイさんのもっともな言葉に、早矢は苦笑しながら水のグラスに口をつける。「ふっふー」と茶化されるように言われ、本当にそうだよなぁと早矢はふっとため息をついた。


「いい加減……忘れなきゃって思ってるんだけどさ」

「お、原因に心当たりが?」


 ジェイさんの問いかけに、早矢はグラスの縁を指でなぞる。氷で火された温度が、火照った体に気持ちいい。

 心当たり? 毎月のように見る、幸せで甘い夢以外何があると言うのだ。

 早矢は自嘲するように口角を吊り上げた。


「ないわけないでしょ。毎回、同じようなこと言われて別れてんのに、考えないわけがない」


 ジェイさんの言う通りなのだ。

 早矢の恋人は毎回「早矢には違う人が」とか「早矢ちゃん、好きな人いるでしょ」とか、まるで早矢が二股しているような口調で言ってくる。

 長く続いても三か月。

 もうそろそろ、人と付き合うのも疲れて来た頃だった。

 ジェイさんがからかうように言った。


「さっすがお医者さんは原因探求が得意ですね」

「苦手だったら、この道を選んでません」


 そう言って、早矢は小さく舌を出す。

 バーカウンターの奥の方では、店長が客からオーダーを聞いている。微かに聞こえるポップな音楽が、早矢の気分とは反対で、店の雰囲気を一層明るくしていた。


「でもさ、私、過去の話とか、幼馴染がいたとか、話したことないんだよ」

「あー……地元の話しないもんね」


 なんで、皆、言ってもいないことに気づくのか。それが早矢には不思議だった。

 ジェイさんが頷いたので、早矢は幼馴染の思い出がたっぷり詰まった地元を思い浮かべる。

 地元は東北の中では大きな都市だった。それでも東京とは違い、狭く、閉鎖的な場所。そこでの噂の広まりは異様に早く、誰かが少しでも変わったことをすれば、すぐに広まってしまう。

 周りに親戚が多いことも、早矢に嫌気を覚えさえた。


「しないでしょ、わざわざここで」

「早矢はたまに漏れてるから」


 何とはなしに言われたその言葉に、早矢は驚いて目を丸くした。


「え、うそ?」

「可愛い女の子の話とか、一番好きな女の子の話とか……口にするタイプが全部同じ上に、具体的だから。あんた、そんなの昔いたって言ってるようなもんでしょ」

「あちゃー……」


 早矢は頭を抱える。まったく覚えがなかった。

 でも、考えてみれば、人の好みなんて簡単に変わるものでもないし、何より早矢の中にいるのは昔から同じ女の子なのだ。

 そりゃ、同じような話になるだろう。


「で、その理想の幼馴染ちゃんは、どうしてるんだっけ?」

「幼馴染が高校に入ってから会ってない……あっちが、先に東京に出たし」


 とはいえ、一年差だ。会いに行こうと思えば会いに行けた。

 早矢は会いに行けなかっただけなのだ。


「置いていかれたんだ?」

「違う、あっちがオーディションに受かったの」

「なに、アイドル?」

「モデル」


 今でも早矢はオーディションに受かったことを嬉しそうに報告する幼馴染を思い出せる。

 キラキラと輝いた顔をした幼馴染――陽菜(ひな)を褒める以外何ができただろうか。

 早矢は水のグラスを傾けた。これ以上酔いが回ると泣きそうな気がした。それだけは、ごめんだった。


「へぇ、そりゃ、理想になるわけだわ」

「そう、めっちゃ可愛いの。見た目はもちろん中身も!」


 早矢はグラスを持ち上げ、夢を語るように微笑む。

「そうかいそうかい」と、ジェイさんは笑いながら拭き終わったグラスを棚にしまう。

 それからぴしりとこう言った。


「あんた、そりゃ、振られるわ」

「え?」

「目の輝きが違うもの。一発でばれるよ」


 マジか、と早矢は目をつむった。

 陽菜の話をすると、どうしても甘い感情が出てきてしまう。

 何を言えばいいのか。早矢は一瞬言葉を失い、次に出てきたのは乾いた笑いだった。


「そんなぁ」


 がっくりと肩を落としながら、またグラスの中を覗き込む。

 カウンターの上で、氷がゆっくりと溶けていくのを眺めながら、早矢はぽつりと呟いた。


「どうしようもないじゃん」

「どうしようもないね。しばらくは、この店に通ったら」

「これ以上来たら、毎日来ることになる」

「こっちは良いけど」


 そんな軽口を交わしながら、早矢は陽菜の思い出を埋没させるのに必死だった。


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