第十三話 あなたは誰
§
安倍家のお手伝いさんは何人かいる。
中でも
着の身着のまま安倍家へ連れてこられたので、何も持っていないわたし。
本が、読みたかった。
せめてもと妙さんに頼んだところ、玲明の書斎から陰陽師とか鬼に関する本を持ってきてもらえた。
「ありがとうございます。しばらく借りていても大丈夫でしょうか」
「えぇ。玲明様へはあたしの方から言っておきますね」
話しながらてきぱきと妙さんは食事の用意をしてくれる。
手伝おうとしても、これが仕事ですからと、やんわりと断られた。
「何かありましたら鈴を鳴らしてください」
「はい。ありがとうございます」
妙さんが出て行く。
「わん」
シキがわたしにすり寄ってくる。脱走して不在になったことに、ちょっと不服そうにも見えた。
「シキも食べる?」
「わふわふ」
式神だから食事が必要なのかいまいち分からないけれど、シキはうれしそうに干物をひとかけ口にした。
食事をそそくさと済ませてわたしは本を開く。
「さて」
わたしはぱらぱらと本をめくった。古い紙のにおいが鼻に届く。
勉強は好きだ。
知らないことを覚えるという行為。
本を読んだ後は、世界が変わってみえる気がする。気がするだけかもしれないけれど、それが心地よかった。
玲明はわたしを運命の相手だと言った。
玲明はわたしを守るためにこの屋敷に閉じ込めたがっている。
鬼の王は玲明と同じ顔をしている。
鬼の王は、わたしを狙っている。
……だめだ。さっぱり分からない。
二十五年前の
そのとき現世と幽世で協定が結ばれ、鬼は人間の魂を喰らわないと約束した。
協定を破って人間の魂を喰らう鬼がいる。
その鬼を討伐するのが、陰陽師……。
優秀な陰陽師らしい安倍玲明と、鬼の王は、同じ顔。
「鬼と人間の違い……」
鬼にあって人間にないもののひとつ。
「
そこに書かれていたのは、『番』という言葉だった。
結ばれる運命にある相手のことを、番と呼ぶ。
たとえどんなに憎い相手だったとしても、決して運命に逆らうことはできない。
それが番。
外はすっかり暗くなっている。
外に出たら銀髪の鬼に殺されるのだと、玲明は言った。
障子を開けて縁側に出る。夜のとばりは重厚。だけど、今日は月が見えない。
わたしはただの闇を見上げた。
「くぅん……」
シキの気弱そうな声が部屋から聞こえてきた。
安倍家には結界が張られているから安心だと玲明は言っていた。
「今度こそ殺されてなるもんか……」
§
お客さんですよと通されたのは、雪絵だった。
昨日の今日で雪絵の来訪は断られるかと思ったけれど、すんなり通してもらえてよかった。
畳の上に座布団を出して、わたしたちは座る。
妙さんが緑茶とおまんじゅうを持ってきてくれた。
「わふ」
「シキ。一日ぶりですね」
雪絵がシキを撫でる。シキはぶるぶると震えて、わたしの膝にひょいと飛び乗った。
「昨日はありがとう」
「いえいえ、どういたしまして。玲明様とは話せましたか?」
「ちょっとだけ、ね」
わたしは足をなげうった。
「ところで今日は平日なのに、学校はどうしたの?」
「この前、咳がはやっていたのは覚えていますか?」
うん、と首肯する。そもそもそれは、鬼の王がわたしのかんざしを壊すために仕組んだことだと言っていた。
「悪化して寝込む人が後を絶えず、しばらくの間、休校になりました」
「え……」
一過性のものではなかった、と?
「雪絵は平気なの?」
「はい。わたくしは初期のうちに治りましたから」
「それならいいんだけど」
わたしは膝の上のシキへ視線を落とす。
眠いのか、くったりとしていた。撫でてもあまり反応がない。
「……」
急激に違和感がせりあがってくる。
「雪絵?」
「何でしょうか」
「さっき何て言った?」
「悪化して寝込む人が後を絶えず、しばらくの間、休校になりました」
「違う。そこじゃなくて……」
――気づいた。
わたしは勢いよく雪絵へ顔を向けた。
「玲明様、って言ったのはどうして? いつも安倍先生って呼んでるよね?」
「……そうでしたかしら」
雪絵がとぼけてみせる。
「ねぇ、雪絵。さっきからシキが動かないんだけど。あなた、何かした……?」
「ただ撫でただけですわ」
脂汗がにじみ出てくる。
何故かは、この不安の正体が何かは分からない。だけど。この状況はなんだかまずい気がする。
刹那。
ぐにゃりと視界がゆがんだ。わたしは畳の上に押し倒されていた。
わたしの手首をつかむ力はありえないくらい強くて。
身動きがとれない。
「あ、あなた、誰……」
「
「嘘言わないで。雪絵はこんなことしない。雪絵をどこへやったの!」
雪絵の姿をした何かは、楽しそうに口の端をゆがませた。
舌を出して、己の唇を舐める。
それから、わたしに顔を近づけてくる――
唇が触れそうになった瞬間、わたしは雪絵もどきの顎に思い切り頭突きした。
『ぐえっ』
女性からは決して発せられないであろう声。
力が緩んだ隙にわたしは逃げだし、シキを拾い上げて立ち上がる。
『知っているカ?』
くぐもった声が、『それ』から漏れた。ぐにぐにと輪郭がゆがみ、額から二本の角が生える。
『人間の魂で最も極上なのは処女のものだということヲ』
「まさか……雪絵を……」
足がすくむ。ぎゅっとシキを抱きしめた。
わたしは廊下に出る。
昼間だというのに異様に暗い……。
結界が張られているから安全じゃなかったの?
玲明に文句を言いたいけれど、今ここにはいないのだ。どうにかして逃げるしかない。殺されてしまう前に。
文字通りの、鬼ごっこ。
廊下を走る、誰もいない。人の気配が感じられない。
進んでも進んでも終わりが見えない。
「咲子さん!」
――玲明の声が響いた。
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