伯爵令嬢のカフェ開業計画~冷徹公爵様、貴族らしからぬ店に入り浸る~

清泪(せいな)

伯爵令嬢、自由を求めて家出する


 窓の外に広がる庭園は、まるで額縁の中の絵画のようだった。

 手入れの行き届いたバラの花々が風に揺れ、敷石の小道は陽光を反射して白く輝いている。

 けれど、それを眺める私の心は少しも晴れなかった。


 私はエレノア・アシュフォード。

 伯爵家の令嬢であり、貴族社会では『完璧な淑女』として扱われている。

 絹糸のようなプラチナブロンドの髪は、使用人が毎朝丁寧に梳かし、夜には美しく結い上げられる。

 淡い青の瞳は、父に似て冷静な光を湛えていると言われることが多い。

 実際の私は冷静でも何でもなく、いつも胸の奥に燻る違和感を抱えているのだけれど。


 上品なドレスに身を包み、微笑みを絶やさず、優雅な所作を心がける。

 それが私に求められる役割だった。

 ──けれど、それは「私」が望んだ生き方ではない。


「──明日には、婚約を正式に発表する」


 数時間前、父の口から淡々と告げられた言葉が、いまだに耳にこびりついている。


「お前はもう十八だ。令嬢としてふさわしい相手を得る頃合いだろう」


 そう言って父は私に、分厚い羊皮紙の文書を突きつけた。

 そこには、私と侯爵家の嫡男との婚約が決定事項として記されていた。


 侯爵家の嫡男──ギルバート・ラングフォード。

 金髪碧眼、容姿端麗、剣術も嗜み、さらに政治の才能もあると言われている。

 貴族社会において、理想的な結婚相手とされる人物だ。


 だが、私は彼を愛していないし、そもそも彼とまともに会話を交わしたことすらなかった。


「父上、私はまだ結婚など──」


 言いかけた私を、父は冷ややかに制した。


「お前に選択肢はない。貴族の娘とはそういうものだ」


 その言葉に、血が逆流するような怒りを覚えた。

 貴族の娘だから。

 令嬢だから。

 だから私は、自分の人生を選べないのか。


 そんな理不尽があるものか。


 私は立ち上がり、部屋の中をぐるぐると歩き回る。

 壁にかけられた大きな鏡に映る自分は、シルクのドレスを身にまとい、金細工のアクセサリーをつけた典型的な伯爵令嬢だった。


「……こんなの、私じゃない」


 私が本当に望むものは、こんな絵に描いたような優雅な暮らしではない。

 私は自由になりたい。

 誰かに決められた未来ではなく、自分で道を選びたい。


 ──なら、どうする?


 答えはひとつしかなかった。

 ここを出る。


 私は、覚悟を決めた。


───


 夜が更けるのを待ち、私は行動を開始した。


 まずはドレスを脱ぎ捨て、控えめな色合いの旅装に着替える。

 装飾品もすべて外し、唯一の装飾は母の形見であるペンダントだけ。


 鞄には、必要最低限の荷物を詰める。

 替えの服、少量の食料、そしてわずかな金貨。


 問題は、どうやって屋敷を抜け出すかだ。


 門番は深夜でも警備を怠らない。

 正面から出ようとすれば、すぐに使用人たちに見つかってしまう。


 私はしばし思案し──ふと、屋敷の裏庭にある使用人用の勝手口を思い出した。

 あそこなら、見張りがいないはず。


 私は息を潜めながら廊下を進んだ。


 夜の館は静まり返っている。

 壁にかかった燭台の灯りが揺らめき、微かな蝋の香りが漂っている。


 私は靴音を立てぬよう慎重に歩き、裏庭へと続く通路へ向かった。


 ──と、その時。


「……お嬢様?」


 低く落ち着いた声が、背後から響いた。


 心臓が跳ね上がるのを感じながら、ゆっくり振り返る。

 そこに立っていたのは、 ウィリアム・クレイトン──屋敷の執事であり、幼い頃から私を見守ってくれた人だった。


「こんな時間に、どこへ行かれるのですか?」


 燭台の明かりに照らされた彼は、相変わらず隙のない佇まいをしていた。

 黒曜石のように深い髪は一糸乱れず整えられ、切れ長の灰色の瞳が静かに私を見つめている。

 貴族ではないが、その端正な顔立ちと長身の体躯は、王宮の騎士たちと並んでも引けを取らないほどの威厳を持っていた。


 幼い頃、私は彼の後ろをついて回っては「ウィル、お姫様抱っこして!」と無邪気にせがんだものだ。

 今思えば恥ずかしいが、それほど彼は幼い私にとって頼れる存在だった。


 しかし今の私は、彼の前でただの『伯爵令嬢』ではいられない。


「……ウィル」


 私は言葉に詰まる。


 ウィルはしばし私を見つめ、それから小さくため息をついた。


「……お逃げなさい、お嬢様」


「え?」


「あなたがこうして夜中に屋敷を抜け出そうとしている時点で、私には察しがつきます」


 ウィルは静かに言った。


「お嬢様は、お好きな道をお選びください。私は……見なかったことにいたします」


「ウィル……ありがとう……」


 私は心からの感謝を込めて、彼に微笑んだ。


 ウィルは軽く頭を下げ、「どうかお気をつけて」とだけ言った。


 彼の表情は静かで、何も言わなければ単なる忠義の部下のように見える。

 しかし、燭台の灯りが揺れる中、その灰色の瞳がほんの一瞬、揺らいだ気がした──まるで、私を手放したくないと訴えるように。


 けれど、私は立ち止まらない。


 私は勝手口の扉を開け、冷たい夜風を肌に感じながら、一歩を踏み出す。


 屋敷の壁を越えれば、もう誰にも止められない。


 振り返らずに、私は夜の闇へと駆け出した。



───


 伯爵令嬢としての生を捨て、私は自由を選んだ。

 これから先、どんな困難が待っているのかはわからない。

 けれど、私は後悔しない。


 ──さあ、自由な人生の始まりだ。

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