第八話 水ににじむ慕情 ②
「なんで、私なんかを心配するんですか」
「はァ?」
蘭さんが、心底意味がわからない、みたいな顔をした。それがますます私の胸に引っかき傷を作って、見えない場所から血がにじむような感覚がする。
(私なんか。私──なんか)
ぎゅうっ、と膝の上で手を握った。てのひらに爪が食い込んで、指がじわじわ、真っ白になる。下を向いたまま、絞り出した声が震えた。
「どうせ応えてくれないくせに」
「……雨宮?」
「優しくなんか、しないでください……っ」
おい、と握った手に触れられそうになって、思わず激しく振り払う。ぱしっ、と乾いた音がして、蘭さんが息を呑んだ。
はーっ、と長いため息が聞こえた。どさっ、と音がして、見下ろした視界の端で、蘭さんがあぐらをかくのが見える。あのな、と落ち着いた声がした。
「てめぇ、ここんとこずっと変だぞ?」
どうしたんだよ、とやわらかな声が問いかける。その言葉に、答えることができないで、ただ顔を背けた。蘭さんが強烈に、戸惑う気配。かすかに覗き込まれて、なだめるように言われた。
「なあ雨宮。てめぇは十六の割には大人だし、ガキにしちゃ分別もあるし、まっとうに賢くて理性的だ。ちょっと振られたからって、ここまで変になるような奴じゃねえだろ。……なにがあった?」
「っ……」
ずくっ、と胸が痛くなる。蘭さんの言葉はまっすぐで誠実で、なんの陰りもない、ただ純粋に私を心配するもので、あまりにも──見当違いで。
心臓が痛かった。胸の底に、いくつもの引っかき傷が増えていく。蘭さんのやわらかな気遣いが、それがあまりにも苦しくて、痛いほどくちびるを噛み締める。見当外れのふさわしくない言葉たちが、私の喉をひどく詰まらせて、肋骨の真ん中がすごく痛かった。
(……変、だなんて──)
そんなのはもう、ずっと前からだ。もうずっと長い間、私の前には運命が横たわっていて、納得なんかひとつもできなくて、覚悟だってなくて。このひとを好きでいたい、それだけのことが、どうしても上手にできない。
「……うるさい」
「え」
みっともなく震える声が勝手に落ちた。蘭さんの、驚いたような、とても小さな声。あまりにも何もわかっていないそれに、ぷつりとなにかが切れるような感覚があって──
「ッ……もううるさいって言ってるの‼ いい加減にしてよ‼」
だんっ、と両手で床を叩いていた。きっ、と顔を上げる。目の前の蘭さんの顔が、驚愕に見開かれた瞳が、ぼやぼやとにじんで揺れていた。ぐっ、と喉の奥に熱い塊がこみ上げる。
「蘭さんに私のなにがわかるの。蘭さんなんか、なんにも知らないくせに。なにもしてくれないくせに。許してなんかくれないくせに──」
ぐうっ、と喉が苦しくなって、それ以上言葉が出ない。ただ頬の辺りを熱いものが伝って、ぼた、と手の甲にしずくが落ちる。それでも罵倒しようと口を開いたら、ひぐっ、と喉が鳴った。
ぱしぱしと、まばたきで水気を払い落とす。ずっ、と鼻をすすって、震える息を吸い込んで、目をこすって。蘭さんが静かに私を呼ぶ。
「……雨宮」
顔を上げ、ようやく見返した蘭さんは──ひどく静かな顔をしていた。穏やかで、でもどこか抑えたような表情が、まっすぐに私を見つめていた。淡々とした声が言う。
「あんた、もう、ここに来ないほうがいい」
「な──」
薄いくちびるが開かれて、冷たい声音がなめらかに溢れる。
「これ以上あたしの傍にいても、あんたのためになんねぇよ。……クビだ」
びくっ、と肩が震えた。たった三文字の宣告が信じられなくて、目を見開いて蘭さんを見る。かろうじて、震える声がくちびるからこぼれ落ちた。
「……私の、契約者は、紺洋さんです」
「ジイさんの契約は四十九日までだろ。オプションをつけたのはあたしだ」
即答が返ってきた。その、なんの迷いもない返答の早さで──蘭さんが、本気なのだと悟ってしまった。すうっ、と血の気が落ちた。
「っ……」
なにか言おうとして口を開きかけて、でも、言葉がひとつも出てこない。言わなければならないのに。なにかうまい言い訳や弁明や、謝罪なんかを口にして、まだ、ここにいなければいけないのに。ちっとも上手にできない。子供みたいな駄々が出る。
「いや、です」
「てめぇがなんと言おうと関係ねぇよ。雇い主はあたしだ。職場で癇癪起こして泣いて暴れるような奴を、雇い続ける義理はねぇ。退職金でもなんでもくれてやるから、出てけ」
「いらない、そんなの、私は──」
「──帰れっつってんだよ!」
「……ッ!」
蘭さんの顔は、本気だった。ひどく静かで、冷たくて、でも色の薄い瞳の奥には『こうするのが一番だ』という、はっきりした確信の気配があった。なにを言っても無駄なのだとわかった。
「……荷物取ってきてやる。涙拭いとけ」
それだけ言うと、ふいっと立ち上がって、蘭さんは部屋を出ていく。足音が、とつとつと遠ざかっていく。それがすっかり聞こえなくなって、しいん、とした痛みにも似た静寂がやってきて。私はぐっとくちびるを噛みしめると、鼻をすすって、きつく目元を拭った。
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