第五話 まだやわらかい思い出について ③
「……紺洋さんが亡くなったのは、私の十六の誕生日でした」
ぽつり、とつぶやく。視線を落とせば、胸元で淡紫が揺れた。差し込んだ春の日差しを受けて、まじった銀糸がきらりと光る。お守りを、そっと手のひらに乗せた。厚い布地を通して、中の感触がかすかに伝わってくる。
このお守りを受け取ったときは、これがどういうもので、どれほど大事なものなのか、私はなにも知らなかった。何気なく渡されただけのお守りを見下ろして、わずかに顔を歪める。
紺洋さんは、どういうつもりで、私にこれを託したのだろう。なぜ、私に〝喪中アルバイト〟をさせたのだろう。孫と話をしてほしいというオプションは、どういう意味があったのだろう。
あの中庭で紺洋さんと話した日からずっと、入れ代わり立ち代わり、誰かのため喪に服してきた。運命を、そしてその先を、自分の身で感じ取るために。
(でも、私はまだ──)
紺洋さんの笑顔が、まばたきのたびに蘇る。記憶の中の彼はなにも言ってはくれない。ただやわらかい笑みのまま、私を見つめるだけだ。
「……雨宮」
そっ、と呼びかける声がした。顔を上げる。
座卓に肘をついた蘭さんが、静かな目で私を見つめていた。その視線が、ゆっくりと下りていく。私の手元へと。
「あ──っ」
つられて視線を下ろしてみれば、歪むほどきつくお守りを握る手が目に入った。はっとする。慌てて手を緩めて、すみません、と謝る。
「紺洋さんと蘭さんの、大切なものなのに」
私の謝罪に、蘭さんはただ黙って苦笑した。色の薄い瞳が、じっと私を見つめている。だらしなく肘をついたまま、蘭さんの剥げたネイルの指先が、すっとお守りを指差した。
「その袋さ。ジイさんの嫁さんが縫ったんだ」
「はい。以前そう伺いました。紺洋さんの奥方ということは、蘭さんのお祖母さまですね」
私の言葉に、蘭さんが小さく笑う。
「一応、血筋の上ではそうなるんだがなぁ。ジイさんの嫁さんは、あたしの父親を産んだときに死んじまったんだ。おかげで残ってる写真やら思い出話やらは全部、若い姉ちゃんのそれだろ? ぜんぜん、バアさんって気がしねぇんだよな」
「そう……なんですか」
たしか、蘭さんはご両親も早くに亡くしている。本当に、彼女にとっては紺洋さんだけが頼りだったのだ。たった二人きりの家族。
けれど、私の思いを見抜いたように、蘭さんは笑った。
「ま、二人家族って感じは全然しなかったけどな」
やわらかい目がお守りを見つめて、蘭さんは懐かしむように微笑んだ。
「ジイさんは浴びるほど思い出話を聞かせてくれたし、家の中にはバアさんや両親の写真だの日記だの遺品だの、痕跡は死ぬほどあったしな。誕生日も命日も、生死問わず全員分、きっちり全部イベントとして扱われてたし。家族の人数が少ねぇって、感じたことはなかったな」
くす、と笑う声。蘭さんは楽しいことを思い出すみたいな顔で笑って、仏壇の上の方を見た。つられてそちらを向く。そこには、歴代の知見寺家の人間と思われる人々の写真が、ずらりと並んでいた。
蘭さんの視線の先、一人だけ、ひときわ若い女性の写真がある。おそらくこの人が、紺洋さんの奥方だ。
「特に嫁さんの話はなぁ……うんざりするほど聞かされたよ。同じ話を、そりゃあもう、何度も何度も」
「愛してらっしゃったんですね」
「それだけじゃなく、語れる話が少なすぎたってのもあるがな」
「話が、少ない……?」
蘭さんがうなずく。
「ジイさんと嫁さんは、家が決めた結婚相手でな。初めて顔を見たのは祝言の前日だったんだ」
「……」
開きかけた口をつぐんで、私はただ黙り込んだ。蘭さんは眉を下げて、そのうえ嫁さんは息子の顔も見ずに死んじまって、と続けた。
「二人は、たった三年しか一緒にいられなかった。それでも、あれだけ何度も思い出話をしてたんだ。ジイさんを見てると思うよ。結婚ってのも、悪くねぇんだろうな、って」
淡く目を細めた蘭さんは、会ったこともない祖母の写真を、まるで懐かしむように見つめている。その瞳に宿るのは純粋な憧憬と、なにか美しいものを尊ぶような色だった。
「……っ」
よくわからない気分になる。もやもやとこみ上げる、複雑な色合いが入り混じったこの感情が、なんなのかわからない。ただ目を細める蘭さんを見ているのが嫌で、私はふいと顔を背けた。
「結婚って、いわゆる人生の墓場じゃないんですか。それが勝手に決められたものなら、余計に」
蘭さんの瞳が私を捉える。ふ、と小さな笑い声が聞こえた。
「ま、ジイさんは運が良かったんだよ」
ぐずる幼子をなだめるみたいな口ぶりに、もやもやが余計につのっていく。私は子供じみているとわかりつつも、反発の声を抑えられなかった。
「誰しもが幸運とは限りません。やっぱり、墓場ですよ」
「……」
思った以上にきっぱりした断言が出てしまって、蘭さんがわずかに黙り込む。私はくちびるをかすかに噛んだ。
蘭さんは、少しだけ困ったような間を取った。かすかに視線が伏せられて、ためらうようなくちびるの動き。でもそれはすぐに、いつもの笑みに取って代わった。
「ははっ、知ったようなこと言うなあ、あんた」
「っ……別に私は──」
「ほら、そんなツラすんなって。お下がりの枇杷でも食おうぜ。剥いてやるから」
私の返答など聞きもせず、蘭さんが立ち上がる。仏壇から籠を取ってきて、彼女は雑な手付きで皮を剥きはじめた。橙色の果汁が染み出して、蘭さんの指先がひたひたと汚れる。ぱた、と座卓の上にしずくが落ちた。
「ちょっと、ティッシュくらい──んむ……⁉」
「はい、召し上がれ」
でこぼこな剥き方の枇杷を、無理やり口に押し込まれる。目を白黒させる私に、蘭さんが楽しげに笑った。
なにか言い返そうと思うのに、口の中は枇杷でいっぱいだ。むぐ、と喉が鳴った。やさしい甘さが、口の中に広がっていく。軽く噛みしめると、涼やかな感触と共にじわりと果汁が染み出した。おいしい。
「うまいだろ」
「……む」
黙ってうなずく。口の中にものが入ったままなので、声が出せなかったのだ。そんな私を見て、蘭さんはますます、やっぱお行儀がいいなあ、と笑った。
もやもやとこみ上げる、よくわからない感情にまかせて、下を向いた。蘭さんの、喉の奥で笑う声が聞こえる。複雑な気持ちが胸の中を塗りつぶす。ぎゅっと眉が寄った。
(蘭さんは──なにも言ってこない)
さっきの反応はまずかった、それくらい私でもわかる。睦まじい紺洋夫妻の話を聞いておきながら、結婚なんてと強い言葉で反発した。でも。
蘭さんだってきっと、呆れる気持ちも、言い返したいことも、たくさんあるはずなのに。蘭さんはなにも言わない。それは私が子供だからで、強く言うのは大人げないからで、彼女が私を尊重しているからだ。その事実が一層、胸のもやもやを加速させた。
(いつもそう。このひとは大人だ)
それがなんだか──とても苦しい。理由はわからない。
こくん、と枇杷をようやく飲み下して、手の中に種を吐き出して、そっと顔を上げた。蘭さんが、次の枇杷を手に待っている。
「ん。まだまだあるからな」
「蘭さんも、いただいたらどうですか」
「んー? まあ、雨宮が食い終わったらな」
蘭さんは当たり前のようにそう言った。にしし、と笑った口の端から、八重歯がこぼれて光っている。まるで邪気のない子供みたいな笑顔、でも、このひとはやっぱり大人で、それがどうしても気に入らない。
ぱし、と籠から枇杷をひとつ掴み取った。爪を立てて、皮を剥きはじめる。蘭さんが、お、と目を丸くした。
「蘭さんのぶんは私が剥きます」
「なんだそれ。ま、いいけど」
くすくすと蘭さんが笑う。もやもやが強くなる。複雑な色合いの、私にはまだ正体のわからない感情。それがなんだか妙に居心地が悪くて、むずむずする。
私は慣れない手付きで、できるだけ綺麗に枇杷を剥いた。指先が、しっとりと濡れていく。ティッシュを探して視線をさまよわせたとき、ふと紺洋さんの遺影が視界に入った。穏やかな、やさしい笑みだった。
紺洋さんが亡くなって、ちょうどひと月。蘭さんと過ごした時間も、ほぼ同じくらいだ。この一ヶ月間、自堕落でだめな大人の蘭さんを、私はずっと世話してきた。
知見寺家を訪ねたのは、他でもない紺洋さんの依頼だったから。その次、蘭さんを訪ねて地下に下りたのは、親族の皆さまが困っていたからだ。
(でも……)
最初は紺洋さんのためだった。次はみんなのためだった。
じゃあ今は、どうなんだろう。私はなんのために、どの理由のために、蘭さんと過ごしているんだろう。考えてもわからない。感情の正体は杳として知れない。
ため息をついた。近いうち、この感情がわかる日が来るのだろうか。わかったとして、私のもやもやは消えるのだろうか。わからない。どう考えても私は子供だ。胸の底がもやもやぐずぐずして、無性にもどかしい。
少しだけ息を詰めて、私はことさら丁寧に枇杷を剥いた。「そんな丁寧にしてどうすんの」と蘭さんが呆れても、それでも、指先を動かすのを止められなかった。
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