第三話 藤色の雨は降って ①
紺洋さんの日記は見つからないまま、月をまたいで、ゴールデンウィークになった。
午前の作業が一段落したあと、私たちは気晴らしに散歩に出かけた。なんでも、知見寺屋敷の近所に大きな公園があるのだという。ちょうど藤棚が見頃らしい。
ぺたぺたと、派手なキャラものの健康サンダルをつっかけて蘭さんが笑う。
「せっかくのゴールデンウィークなのに、付き合わせて悪かったな」
「いえ、お給金出てますから」
さらっと言うと、隣からそういうんじゃねえんだけどなあ、とボヤきが聞こえた。蘭さんが頭の後ろで手を組んで、ちらりとこちらを見る。肩から落としたジャージに派手な紫のキャミワンピ、その裾がひらひらと春風に翻った。
「でも、ほんと無理すんなよ。中間テストとかあんだろ」
黙って肩をすくめれば、蘭さんが眉を跳ね上げる。
「見るか? 勉強」
「結構です」
正直なところ、蘭さんが家庭教師につけばどんな生徒でも千人力だろうとは思う。でも、今の私は勉学に傾倒する気にはなれなかった。
蘭さんが、なんだよとくちびるを尖らせる。
「あんまサボると進路に響くぞ」
「進路って……まだ高校入ったばかりですよ」
「それもそうか。つかてめぇ、学校どこなの」
ぐ、と答えに詰まる。蘭さんが怪訝そうな目で私を見た。ため息。しぶしぶ答えると、へえ、と感心したような声がした。
「すげぇいいとこの私立じゃん。じゃ、大学はエスカレーターか? ああでも、分野によっちゃ外に出た方がいいのか」
ますます言葉に詰まる。私は口をつぐんだまま、そっと下を向いた。蘭さんが戸惑う気配。
「あ? もしかして、大学行きたくねぇの」
「……答弁を拒否します」
「あんだそりゃ」
呆れきった声を上げ、蘭さんは髪を後ろに跳ね上げた。長いきらきらが風に揺れて、金の隙間からピアスが光る。あのなぁ、となだめるような声。
「現代社会に迎合して生きるなら、大学は行っといたほうがいいと思うぞ。知識は武器だし教育は武装だ。学歴なんかわっかりやすいバフだしな。特段理由がねえんなら、装備しといて損はねぇ。ま、理由がありゃ別だがな」
さらりと言われ、むか、と腹の底に不快感がこみ上げた。思わず尖った声が出る。
「大人ぶらないでください。自分は行かなかったくせに」
「あー……まあ、あたしは内申最悪だったからな」
たしかに、体制や常識を疑えるだけ疑って、それから自力で真理を構築したがるのが蘭さんだ。学校教育との相性は最悪だったろう。
「特攻服で職員室に殴り込みした人に将来を説かれても、説得力皆無なんですよ」
ぴしゃりと言い放つと、淡い色の瞳が私を見た。怒るかと思ったが、蘭さんは薄く目をすがめるだけだった。なあ、と小さい声がする。
「雨宮、今日なんか機嫌悪ぃぞ。なんかあったか」
……だから、そうやって大人ぶるのはやめてほしいのに。妙に鋭いのがまた、いっそう腹立たしい。私はため息をつくと、観念してつぶやいた。
「……昨日、家の人に、だいぶ面倒なお使いを頼まれまして。手間も時間もやたらかかるし、普通に大変だし、終わる頃には心身ともにすごい疲れそうなんですよね。なんかもう今からすごく面倒で……ちょっと機嫌曲げてました。すみません」
ぺこ、と軽く頭を下げた。正直あまり言いたくなかったのだが、無関係の八つ当たりをしてしまった以上、私には最低限の説明をする義理がある。
しかし蘭さんは私の言葉を聞いて、なぜか急に押し黙ってしまった。なに、と問うつもりで顔を上げる。とたん、思いのほか真剣な瞳と目が合った。白い手が伸びてきて、肩を軽く掴まれる。
「あのなあ。そんな顔するほど本気で嫌なら、家のヤツにちゃんと言えよ。そのツラ見て、聞く耳も持たずゴネる奴ぁ大人失格だ」
口調こそ荒っぽいが、蘭さんの言葉は率直で、まっとうだった。正しい、まともな大人の台詞だった。思わず苦い顔になる。
「それができたら苦労はしませんよ」
「あァ?」
ぱし、と肩に乗った手を振りほどいて、苦笑した。
「義理も恩義も積もる不孝も、おまけに愛情もたっぷりあるから、面倒でも困ってるんです」
「……はッ」
蘭さんが鼻で笑う。さらさらの金髪を跳ね上げて、鋭い眼光が飛んできた。吐き捨てるような声。
「ガキが大人にくっだらねえ気ィ使うな、バカ」
「な……」
絶句する私をふん、とひと睨みして、蘭さんはさらにばっさり切り捨てた。
「〝みんなのため〟も結構だがな。てめぇまだ十六だろが。どうせあと四、五年もすりゃ、強制的に気ィ使う側に回されるんだ。嫌ならやだって言っちまえ。んで、今のうちにワガママ満喫しとけ」
「っ……」
(──また、だ)
くちびるを噛みしめる。腹の底が無性にもやついた。
痛感する。このひとはやっぱり大人だ。それがなぜだか気に食わない。私より高い身長、とても追いつけないほどの膨大な叡智、私の知らない世間を見てきた広い視座。
(蘭さんなんか、私がいなきゃ何もできないくせに)
そんなのは嘘だとわかっている。それでも、心のうちで唱えるのをやめられなかった。
不機嫌に押し黙った私の背を、蘭さんの手がぽんと叩く。やわらかい五月の日差しが私を照らして、細い手が添えられた背中はほのかにあたたかかった。
「行くぞ雨宮。チンタラしてたら藤が枯れちまう」
「それはないです」
軽口に、すげなく返す。蘭さんがそれでいいとばかりに笑う。私は小さく息をつくと、ぺたぺたと引きずる健康サンダルの足音を、足早に追いかけた。
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