第二話 二代目は地下牢 ①
休日の朝。私はいつものように地下牢への階段を降りた。もう鍵のかかっていない鉄格子を開けて、本棚の合間を抜けていく。
突き当たりの文机、いつもの定位置に蘭さんはいた。やわらかな春の日差しを受けて、金色の髪がきらきら光っている。ずり落としたジャージ、派手な紫のキャミワンピの背中が丸まって、文机の上には大量の本が開きっぱなしになっていた。
「おはようございます、蘭さん」
「んぁ……雨宮か」
くるり、と金髪が振り返る。口元には電子タバコがあった。ふわ、と漂うメンソールの香り。私を見上げる蘭さんの表情がくしゃっと崩れた。大きなあくび。
「なに。朝?」
「朝です。ごはんです」
「もうそんなか……」
「もうそんなです。はい、本寄せてください」
恐らくは昨夜からつけっぱなしだったデスクライトをぱちんと切る。んん、と伸びをする蘭さんをよそに、私は散らばった本をどんどんまとめていった。蘭さんは手伝いもせず目をこすっている。いつものことだ。
この人は私が来ないと、二日でも三日でも地下牢に篭りっぱなしで本ばかり読んでいる。下手をすれば食事すら忘れる。そのため、契約開始以来、蘭さんを叩き起こして(あるいは徹夜読書を中断させて)朝食を口にねじ込んでから通学、放課後また蘭さんを文机から引っ剥がして遺品整理、という日々が続いていた。
(完全に、お世話係になってるな……)
呆れつつ食事の用意を整える。おひつに入れたご飯と海苔、卵焼きと味噌汁と、今日は贅沢にも鰆の西京漬だ。
へえ、季節ものじゃん、と目を輝かせる蘭さんに茶碗を渡す。もくもくと朝食を口に運ぶ蘭さんを傍目に、私はようやく座布団についた。ここに来るようになってから増えた、私専用の座布団だ。座り心地はとても良い。
「今日は上にお手伝いさんが来てましたよ」
「あ? もうそんな日かよ……」
日付も曜日もてんでわからん、と色の薄い瞳が壁を見る。新聞屋のレトロなカレンダーは、十三日、紺洋さんの命日を最後にバツが止まっていた。私は立ち上がると、万年筆を取ってどんどんバツをつけていった。蘭さんが今日の日付に目を留める。
「あ、日曜か」
「じゃなきゃこの時間、とっくにここを出てますよ」
「たしかに」
もぐもぐと頬を膨らませたまま喋る蘭さん。せめて飲み込んでから話すべきだと思う。万年筆の蓋をきゅっと閉めると、私はかすかに眉を寄せた。
「お行儀が悪いです」
「んー」
聞いているのかいないのか。おそらく後者だろう。私はため息をつくと、黙って急須からほうじ茶を注いだ。しっとりした湯気に混じって、香ばしい匂いが広がる。差し出した湯呑みを受け取ると、蘭さんはお茶ごと口の中身を飲み下した。喉を鳴らして、薄く細まった目が私を見る。
「ほんっと世話焼きだな、あんた」
それも〝みんなのため〟ってやつ? と言われて、思い切り顔をしかめる。
「うるさいですよ。蘭さんがあまりにも壊滅的なだけです」
それこそ、放っておいたら死にかねないほど、だ。
蘭さんは、今までどうやって生きていたのかと思うほど生活力に乏しかった。昼も夜もなく本にかじりついて、食事といえばバーとゼリーの栄養補助食品。たまのおやつにエナジードリンク。風呂はかろうじて入っているようだが、洗濯は限界まで溜めっぱなし。選ぶのが面倒だからと大量に同じキャミワンピばかり並ぶタンスを見せられたときは、正直眩暈がしたほどだ。
ここまで壊滅的な人間が、どうやってこの広大な屋敷を維持しているのかと思っていたが。やはり金の力だった。
なんでも、定期的にお手伝いさんや庭師さんを入れて、屋敷をきれいにしてもらっているらしい。たまに頼んでもないのに冷蔵庫におかずが入ってんだよな、と蘭さんは首を傾げていたが、彼らの気持ちはわかる。この破滅的な生活を見れば、普通の神経の持ち主ならどうしても手を出したくなるだろう。
「そういえば。初めて会うお手伝いさんだったので、ずいぶん警戒されました」
「あ? でもそいつ見せたら一発だったろ」
すっ、と骨張った細い指が胸元を指す。喪服の上からぶら下げた淡紫のお守り。『うちに来るときは目立つように下げとけ』と言われたのだ。
「まあ、そうでしたけど……話くらい通しておいてくださいよ。毎回見せびらかすの面倒です」
「茶。おかわり」
「話聞いてます⁉」
蘭さんはあぐらのまま、面倒臭そうに耳をほじった。ものすごくお行儀が悪い。これが本当に、公家の歴史を口伝で伝えた、叡智の一族の跡取りか。その託宣で政財界を動かした、紺洋さんの跡継ぎなのか。
「……どうぞ」
「そんな顔しつつ、ちゃんと茶ぁ淹れるんだもんなあ。さすが雨宮」
なにがさすがだ。私は青筋が立ちそうになるのを堪えつつ、早く食べてください、と蘭さんを急かした。未整理の遺品はまだ大量に残っている。のんびりしている暇はないのだ。
「まったく……うちの弟のほうが、よっぽどちゃんとしてますよ」
「なに、あんた弟いんの」
「ええ。年中さんになったばかりです」
暗に『幼稚園児以下だ』と示してやれば、色の薄い吊り目がぐっとしかめられた。
「いやさすがに、そこまでじゃねえ、だろ……」
「そのセリフを、ちょっと自信なさげに言うあたり末期なんですよ。もしこれで私にピーマン投げてたら、完全に幼稚園児以下でしたからね」
正直、この人が弟に勝っている部分なんてそれくらいだ。
蘭さんはむぐ、と口をつぐんだ。ふてくされた表情が、ごまかしみたいにくちびるを尖らせる。
「雨宮、ピーマン好きなの」
「いや、大嫌いですけど」
あの青臭さも苦味も歯触りも、全部嫌いだ。ピーマンなんて、この世から消えればいいと思うトップ3に堂々と食い込んでいるシロモノだ。ゴキブリといい勝負だ。
そう言うと、色素の薄い目がかすかに見開かれた。蘭さんが首を傾げて、金色の髪がさらりと揺れる。
「え、あんたそこまで嫌いなのに弟のピーマン食ってんの?」
「はあ、まあ」
それを聞いた途端、蘭さんが黙り込んだ。なんです、と言った私を無視して、彼女はあぐらの上に肘をつく。ぎろ、と三白眼が私を睨んだ。
「……ガキらしくねぇなぁ」
「は?」
きょとん、と目を丸くする。蘭さんは私を睨みあげたまま、ちっ、と小さく舌を鳴らした。まっすぐな、射抜くみたいな視線が私を見据える。裏表のない、嘘の嫌いそうな、実直な瞳。少しだけトーンの低くなった声が言う。
「みんなのため、誰かのためってのも結構だがな。てめぇはまだガキなんだ。普段からそれ忘れてると、いざってときキツいぞ」
「……っ」
ぴく、と指先が跳ねた。肩がかすかにこわばる。
(……このひとは)
ものすごいダメ人間のくせに、肝心なところで大人ぶる。いつもそうだ。それがなんだか癪に触って、気に食わなかった。心の底がざわざわする。
私はごまかすように目を逸らすと、とんとん、と指先で文机を叩いた。すぐそばの、使い込まれた湯呑みを指差す。
「いいからさっさと飲み終わってください。そんなんじゃ、いつまで経っても片付きませんよ」
「ちッ……茶ぁくらいゆっくり飲ませろっつの」
ぶつくさ言う薄いくちびるに、使い込まれた湯呑みが押し当てられた。こくり、と嚥下の仕草。白い喉元が、春の陽光に照らされている。きらきらと金髪が日に透けて、あたりを包むあたたかな空気の中、メンソールと書物のにおい。
私は視線を持ち上げ、天井の方を見上げた。長い明かり取りの虫籠窓から光が差す。今日もいい天気だ。
「昨日に続いて、蔵の二階からですね」
「ん。先は長ぇな」
蘭さんがぼんやりと言った。うなずく。知見寺家はあまりにも広い。書物の量は途方もない。
ずっ、と蘭さんがお茶をすする音がした。ほうじ茶と混じり合ったメンソールの匂い。そのあたたかな気配を感じながら、私はこの仕事はいつまでかかるんだろう、と逃げるように考えていた。
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