第一話 特攻哲学者と喪中アルバイト ③

 地下牢の中は大きくて明るかった。天井近く、明かり取りのためだろう、たっぷりとした横長の虫籠窓むしこまどがある。差し込んだ光に舞った埃が乱反射して、ちらちらと白っぽく輝いていた。


 牢内は本棚だらけで、床にも大量の書物が積んである。あまりにも本まみれなので、歩くのも一苦労だ。古い紙と煙草の匂いがいっぱいになって、辺りをふわりと包んでいた。


(……メンソール)


 こんな紙まみれのところで、煙草なんて大丈夫なのだろうか。思わずくん、と鼻を鳴らした瞬間、先導する蘭さんの声が飛んできた。


「電子タバコだから火事の心配はねぇよ。……ほら、着いた」


 顔を上げる。居並ぶ本棚を進んだいちばん奥、突き当りの壁際に、人の過ごす空間があった。


 小ぶりな文机。その上に積まれた書物。厚いガラス製のデスクライト。艶のある万年筆が転がっている。木製の古い置き時計に、深い色の灰皿。座り心地の良さそうな座布団と、雑に畳まれたやわらかそうな毛布。壁に貼られた新聞屋のカレンダー。


 横長い窓から差し込む光がいっぱいに満ちて、その空間はほのかにあたたかかった。大切に守られた、特別な場所。そんな雰囲気があった。


 まるでそうするのが当たり前みたいに、文机の前に蘭さんがどかっ、と座る。雑なあぐらをかいて、まあ座れよ、と蘭さんが私を促した。


 とりあえず正座する。座布団がないので少し痛い。それを見留めた蘭さんが、無言で自分の座布団を譲った。ありがたく使わせてもらう。


「で、だ。……てめぇ、どうやってあのジイさんの信頼を勝ち取った」

「やっぱり、そういうことになりますか」


 手の中でお守りを裏返す。蘭さんは凄い目でそれを睨んだ。


 どうやってもなにも、と思う。ちら、と蘭さんを見る。色の薄い、まっすぐな目。たぶん嘘をつかない方がいい人の瞳。ため息をついた。


「きっかけと言えば……病棟でボランティアをしてたとき、紺洋さんに質問したんです」

「質問?」

「……もうすぐ死ぬのが決まってるってどんな感じですか、って」

「──は?」


 大事な身内にそんな質問をしたのだ、ぶん殴られても文句は言えない。けれど蘭さんはただぽかんとするだけだった。気まずくなる。目を逸らして、ごにょごにょと呟いた。


「どうしても……知りたくて。その。つい」

「っ……は、はっはははは!」

「えっ」


 唐突に蘭さんが爆笑した。ばしん、とあぐらの膝を叩いて、派手なキャミワンピがおかしそうに背を丸める。じろ、と上目遣いが私を見た。


「なんだてめぇ、死がなにか知りてぇのか」

「は……半分くらいは」


 頷く。蘭さんはなぜか妙に機嫌を良くして、ニッ、と笑った。薄いくちびるが笑みの形を作って、白い八重歯がちらりとこぼれる。


「いーい問いかけだ。人間、いや生き物をやってく上で絶対に避けられない命題だな」

「はあ」


 目を丸くするばかりの私に、蘭さんが軽く視線をさまよわせる。そうさなあ、と軽やかな声がした。


「死……ってのはまあ、ばっさり言っちまえば、情報の完全な遮断をともなう不可逆な変化だな」

「──はい?」


 なんだ今、あまりにも不釣り合いな言葉がこのひとから漏れなかったか。


「死は体験できない。できるはできるが、その情報はこちら側──現実世界には絶対に持ち出せない。だから人が死を認識する時、それは必ず〝過去に起こった、または現在起きつつある他人の死〟になる。自分の死じゃない。まあ〝時系列も自他も問わない、実際には起こらない死〟もあるっちゃあるが……こりゃどっちかっつうと空想に近いから除外な」


 すらすらと流れ出す言葉に、完全についていけていない。私はただバカみたいに口を半開きにして、え、とかあ、とか言うしかできなかった。


「現実世界に存在する死は、実際の死とは違う。あたしたちが認識する死は、認知の中で機能する一種の仕組みであり、実際の死から投影された幻影みたいなモンだ。要するに、死は『存在はするが直接の観測ができない』という特徴を持ってる。だから間接的に見るしかねぇ訳だが──……」


(……なに、これ)


 明るすぎる金髪。殺されそうに鋭い目付き。下着みたいな紫のキャミワンピ、くたくたの派手なジャージ。そのくちびるから流れ出す、嘘みたいに滑らかな語り口。


 どう見ても、元ヤンの特攻女にしか見えなかったのに。蘭さんの口ぶりは聡明で、理性的で、その言葉は深い思索と広い視野、そして膨大な知識に基づいていた。紺洋さんを思い出した。


 見れば蘭さんが座る文机には、難しそうな本が大量に散らばっている。表紙に書かれたカントとかレヴィナスとかいう名前は、倫理の授業で習った覚えがあった。呆然とつぶやいた。


「蘭さんって……哲学者かなにかですか」

「あァ? んな立派なもんじゃねぇよ。ただの引きこもりだ」


 いや、こんな元ヤン特攻女みたいな引きこもりがいてたまるか。喉元まで出かかった言葉を飲み込む。失礼千万な内心を知りもせず、蘭さんは死、死、と呟いた。


「死ぬってどういう感じ、ねえ……。死の瞬間は苦痛を和らげるため脳内物質のシャワーが降り注ぐって話がありはするけど。それっぽいデータの観測はできても主観としての言葉がねぇからなあ。〝感じ〟の定義が何かにもよるけど、こればっかはどうアプローチしたもんか……」


 難しい顔でぶつぶつ考え込んでいる。放っておくとどこまでも思考の海に沈んでいきそうで、私は慌てて蘭さんを止めた。


「ま、待ってください。そこまで真剣にならなくて大丈夫です」

「あ? そうなのかよ?」

「半分くらいは、って言ったじゃないですか」


 うっすらと目をすがめ、蘭さんが私を窺う。知りたいのが半分ってどういうことだ、と言いたげな眼差しに、私はああもう、と両手を小さく上げた。


「知りたいのは死っていうより、その。『運命』についてです」


 運命。すでに決まっている結末に向かって歩かなければならないことについて。運命の意味と、その先にあるものについて。


 その単語を聞いた瞬間、ぴくっ、と蘭さんの指先が動いた。ゆっくりとまばたきがあって、薄い色の瞳がじっと私を見つめる。静かな声がした。


「……それ、ジイさん絡みだろ」

「わかるんですか」

「まあな。そんな言葉持ち出すのは、あのジジイしかいねえよ」


 そうささやくと、蘭さんは苦いような懐かしいような、不思議な表情をした。

 運命か、と小さな声。色の薄い視線が下に落ちて、深く考え込むような仕草。私は小さく息をついた。


「初対面の人の相談にここまで真剣になる、って。蘭さんもやっぱり、紺洋さんの跡継ぎなんですね」


 途端、蘭さんの目が丸くなった。


「あァ? てめぇ、ジイさんが何やってたか知ってんのか」

「〝相談役〟ってお仕事ですよね。具体的に何してたかは知りませんけど。蘭さんが跡を継いでくれないから困ってる、って上の人たちが」


 はッ、と蘭さんが鼻で笑う。


「跡継ぎねえ。ま、御大層な名前だけど……〝相談役〟ってのは要するに、ただの占い師だよ」

「占い師? 紺洋さんが?」

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